表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/22

第9話 「専用奴隷」と「ゼロの敗北者」

「ご、ご主人様、朝です。目を覚ましてください」


 薄暗い寝室に、鈴を転がすような、しかしどこか幼い声が響いた。


 厚手のカーテンのわずかな隙間から差し込む朝の光が、空気中の微細な埃の粒子をきらめかせながら、俺の意識を深い闇の底からゆっくりと浮上させてくる。


 瞼の裏に、柔らかな橙色の光が滲んだ。

 シーツの肌触りが、僅かに冷たい。


 俺を起こしに来たのは、最近雇い入れたメイドの一人、ミナだ。


 まだあどけなさの残る顔に、ふわりとした茶色の髪が肩先で揺れている。

 大きな瞳は、俺を真っ直ぐに見つめ、その中に微かな期待と、揺るぎない忠誠の色を宿している。


 リーリアと同じく、俺に絶対の忠誠を誓う「専用奴隷」でもある。

 朝の光が彼女の頬を淡く照らし、その表情を一層柔らかく見せた。



(回想)

 ────────

 あれは、ミナがメイドとして働き始めて、数日目のことだった。


 まだ屋敷の生活にも慣れない、どこか怯えたような、緊張した面持ちで日々の業務をこなしていた頃だ。


 その日、落ち着いた雰囲気の中で、優雅に朝のひとときを過ごしていた俺の耳に、突如としてけたたましい音が飛び込んできた。



 ガシャーン!


 屋敷の廊下に、金属と磁器の衝突音が響き渡った。


 まるで雷が落ちたかのような派手な音に、俺は執務室の硬いオーク材の机に広げた書類から顔を上げた。


 何事かと顔をしかめていると、やがて廊下から震えるか細い声が聞こえてきた。


「も、申し訳ありません! ご主人様!」


 新人メイドのミナが、顔面蒼白になり、小刻みに震えながら平伏している。


 その足元には、粉々に砕け散った白い磁器の破片が無残に散らばっていた。

 繊細な金彩が施された、先代から受け継いだ、由緒正しき高価なティーセット。


 おそらく、下級貴族が一年食い繋げるほどの代物だっただろう。


 慌てて駆けつけた他のメイドたちが、その惨状とミナの顔色を見て、一様に息を呑むのが聞こえた。


 解雇どころか、家の者にひどい折檻をされてもおかしくない、この屋敷では滅多にないほどの失態だ。


 普通の貴族であれば、烈火のごとく怒鳴りつけ、鞭打ってもおかしくない状況だろう。だが、俺は粉々になった磁器のかけらには一切目もくれなかった。


 俺の視線は、震える彼女の小さな手に向けられていた。


「ミナ」


 俺が名を呼ぶと、ミナはビクリと肩を震わせた。


 まるで死刑宣告を待つ罪人のように――

 その身体は小刻みに震え、顔は恐怖に引きつっている。


「は、はいぃっ!」


 声はか細く、今にも消え入りそうだ。

 その怯えが、痛いほど伝わってくる。


「気にするな――それより、手を見せろ。破片で怪我はしていないか?」


 俺の言葉に、ミナは信じられないものを見るように、ゆっくりと顔を上げた。


 叱責でも侮蔑でもなく、俺が純粋に「心配の言葉」を口にしたからだろう。


 周囲のメイドたちも、驚いたように目を見開いている。

 彼らにとって、貴族とは使用人を道具としか見ない存在だ。


 ましてや、高価な食器を割った使用人に対して、心配の言葉をかけるなど、想像もつかないことなのだろう。


「……け、怪我は……ありません」


 ミナの震える声は、安堵と困惑が入り混じっていた。


「そうか、ならいい。食器などまた買えば済む」


 俺の言葉に、ミナの瞳から大粒の涙がハラハラと溢れ出した。


 それは悲しみの涙ではなく、純粋な感動の涙だった。

 彼女の顔に、希望の光が灯ったように見えた。


 俺はこの時、ゲームシナリオを思い出していた。

 とあるシナリオの中で、わずかに言及されていた出来事だ。 


 ゼノスはドジっ子メイドが高価な食器を割ったことに腹を立て、その子を殺してしまうのだ。――だが、俺はそうしなかった。


 当たり前だ。

 俺には前世の記憶がある。


 食器ごときで、そんなひどい罰を与える気にはなれない。


 それ以来、ミナが俺に向ける瞳に恐怖や義務ではない、熱を帯びた何かが宿るようになった。


 そしていつの間にか彼女の腹には、俺の専用奴隷の紋様が刻まれていた。

 普段は目を凝らさなければ見えない程度だが、魔力を使おうとすると、ぼうっと光る。俺のことを愛した証――


 心からの愛というものは、案外こういう些細なことで手に入るのかもしれない。


 奴隷として縛り付けるだけでなく、人間としての尊厳を与えられたことによって芽生えたのだ。と思う。


 この屋敷で俺の「専用奴隷」となったのはリーリアとミナの二人だけ。


 この世界で本当に信頼できるのは――

 俺を愛し、忠誠を誓った二人だけだ。


 ────────

(回想終わり)


 俺の寝室には専用奴隷以外は入れない。


 だから、朝起こしに来るのはリーリアかミナのどちらかだ。今日の担当はミナ、というわけか。


「ご苦労」


 俺はベッドの上で腕を伸ばし、その体勢のままミナを軽く抱きしめて慰労する。

 幼い子供を抱きしめるように、優しく。


 寝室の空気は、彼女の甘い香りに包まれる。


「ご、ご主人様、あの、その……」


 突然のことにミナは混乱しているようだ。


 その顔は真っ赤に染まり、視線が宙を彷徨っている。その慌てぶりは、まるで小さな子ウサギのようで可愛らしい。俺の腕の中で、その華奢な体が少し震えているのが伝わってきた。


 部屋の入り口から、それを咎めるかのようにリーリアの声が聞こえた。


 その声には、どこか冷たい響きがあった。


「ゼノス様、ミナが困っています」


 普段はどんな時でも冷静で、感情を露わにしないリーリアが、今日はどこか不機嫌そうに眉をひそめている。


 琥珀色の瞳が、俺とミナを交互に見ていた。

 その視線には、明らかな不満が宿っている。


 わずかに口角が下がっているのが、彼女の不機嫌さを物語っていた。


「なんだ? 新人に嫉妬か」


 俺が茶化すように言うと、リーリアの顔が珍しく慌てたように動いた。

 その完璧な表情に、微かな動揺が走る。


「ち、違います! そのようなはしたない真似は……!」


 リーリアは、俺の指摘を否定しているが――

 その頬は僅かに赤く染まっている。


「そうか、ならいい」


 俺はミナを解放し、ベッドから降りる。

 そして、珍しく慌てるリーリアのことも軽く抱きしめてやる。


 リーリアは一瞬硬直したが、すぐに諦めたように深いため息をついた。


 その細い腕が、俺の背に回されることはなかったが、その体からは僅かに温かい香りがした。


「はぁ……早く身支度を。学園に遅れますよ」


「わかってるさ」


 二人の専用奴隷に甘えさせてもらい、俺は身支度を整えて学園へ向かった。


 心を許せるのは、まだこいつらだけだ。

 外に出れば、またあの冷たい視線が俺を貫くだろう。


 しかし、彼女たちとの時間だけは、俺が唯一、心の底から安らぎを感じられる瞬間だった。屋敷の静寂が、外の世界の喧騒と対比して、より一層の安堵をもたらす。



 学園に着くと、昨日の騒動はあっという間に広まっていた。


 石造りの廊下には、生徒たちのざわめきが常に満ちている。彼らの視線が、まるでねっとりとした粘液のように俺にまとわりつく。


 俺のあだ名は、「ゼロの敗北者」、あるいは「敗北のゼロ」になっていた。


 直接言われることはないが、クラスメイトたちの会話の端々から、その言葉が氷のように冷たく伝わってくる。


「おい、見たかよ、あいつ。腰抜けのゼロだぜ」

「まじかよ、貴族のくせに決闘断るとかありえねぇ。恥知らずもいいところだ」

「みんなの前で面子を潰されて、よく学園にいられるもんだ」


 そんな陰口が、ざわめきの中で耳に届く。


 だが、俺は気にも留めない。

 むしろ、これは計画通り。


 侮られることこそ、俺の望む隠れ蓑なのだから。


 俺は表情一つ変えず、ただ黙々と自分の席へと向かった。席に着くと、ひんやりとした木材の感触が指先に伝わった。



 この日の実技授業は、一対一で魔力をぶつけ合う「魔力比べ」だった。


 相手の魔力を感知し、それを自分の魔力で押し返す。

 純粋な魔力量と魔力操作の技量が問われる授業だ。


 訓練場の中央には、魔力結晶が埋め込まれた白い大理石の台座が二つ向かい合い、その上を淡い魔力の光が覆っている。訓練場の空気は、生徒たちの高揚した魔力の粒子で、微かにビリビリと肌を刺激する。



 当然、俺は一人で蚊帳の外だ。

 なにせ魔力がゼロなのだから――


 俺は訓練場の隅、日当たりの悪い壁際で、クラスメイトたちの勝負をぼんやりと見守る。


 周囲の生徒たちは、俺の存在などまるで視界に入っていないかのように、熱心に練習に打ち込んでいる。


 彼らの熱気が、俺の周囲の冷たい空気を一層際立たせていた。



「次! リゼル・ブランシェットとルカ・ドルトン!」


 教師の朗々とした声が、訓練場に響き渡る。


 注目していたのは、ピンク髪の伯爵令嬢リゼル・ブランシェットと、三下貴族キャラのルカ・ドルトン。


 この二人は婚約者同士で、ルカはゲームでゼノスの取り巻きになる男だ。

 典型的な、主人公に絡んでくる悪役貴族の子息。


 ゲームのゼノスなら、彼を従えていたことだろう。



 対決はリゼルの圧勝に終わる。


 リゼルの放つ淡い桜色の魔力が、ルカの放つ濁った水色の魔力を簡単に弾き飛ばし、ルカは地面に盛大に転がった。


 その体が訓練場の床に叩きつけられる鈍い音が響き、周囲から小さな笑い声が漏れる。まるで大人と子供の喧嘩だ。


 訓練場に笑いが起こる中、地べたに転がっていたルカが、ふてくされたように立ち上がった。その視線は、何故かこちらに向けられていた。


 そして、まるで磁石に引き寄せられるかのように、俺の目の前までやってくる。


 ルカは金髪をオールバックにし、いかにも裕福な貴族らしい派手な装いを好む男だ。上質な生地の制服も、彼の趣味に合わせて無駄に装飾が多い。


 細身で、常に自信満々だが、どこか小物臭が漂う。


 顔立ちは悪くないが、表情がずる賢い印象を与える。転んだ拍子に乱れた髪をかき上げながら、その顔に怒りをにじませて、俺のことを睨みつけている。


 そして、いかにも彼らしい陳腐な言葉が吐き出された。


「なに笑ってんだよ。お前、魔力がゼロのくせに……、魔力のない奴が魔法学園に通ってんじゃねーよ。「敗北のゼロ」のくせに」


 と、喧嘩を売ってきた。


 彼の嘲るような声が、訓練場の静寂に刺さる。

 その言葉は、周囲の生徒たちの陰口と重なり、一層の屈辱を煽る。


 ゲームではゼノスの取り巻きだったんだがなぁ……。


 こいつにまでなめた口をきかれる自分に、俺は心の中で苦笑いを浮かべた。


 敵勢力に侮られる分には、まだいい。

 それは計画通りなのだから。


 だが、味方勢力からの侮蔑は看過できない。


 ……さて、このイベント――

 どう対処すべきか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ