第9話 「専用奴隷」と「ゼロの敗北者」
「ご、ご主人様、朝です。目を覚ましてください」
薄暗い寝室に、鈴を転がすような、しかしどこか幼い声が響いた。
厚手のカーテンのわずかな隙間から差し込む朝の光が、空気中の微細な埃の粒子をきらめかせながら、俺の意識を深い闇の底からゆっくりと浮上させてくる。
瞼の裏に、柔らかな橙色の光が滲んだ。
シーツの肌触りが、僅かに冷たい。
俺を起こしに来たのは、最近雇い入れたメイドの一人、ミナだ。
まだあどけなさの残る顔に、ふわりとした茶色の髪が肩先で揺れている。
大きな瞳は、俺を真っ直ぐに見つめ、その中に微かな期待と、揺るぎない忠誠の色を宿している。
リーリアと同じく、俺に絶対の忠誠を誓う「専用奴隷」でもある。
朝の光が彼女の頬を淡く照らし、その表情を一層柔らかく見せた。
(回想)
────────
あれは、ミナがメイドとして働き始めて、数日目のことだった。
まだ屋敷の生活にも慣れない、どこか怯えたような、緊張した面持ちで日々の業務をこなしていた頃だ。
その日、落ち着いた雰囲気の中で、優雅に朝のひとときを過ごしていた俺の耳に、突如としてけたたましい音が飛び込んできた。
ガシャーン!
屋敷の廊下に、金属と磁器の衝突音が響き渡った。
まるで雷が落ちたかのような派手な音に、俺は執務室の硬いオーク材の机に広げた書類から顔を上げた。
何事かと顔をしかめていると、やがて廊下から震えるか細い声が聞こえてきた。
「も、申し訳ありません! ご主人様!」
新人メイドのミナが、顔面蒼白になり、小刻みに震えながら平伏している。
その足元には、粉々に砕け散った白い磁器の破片が無残に散らばっていた。
繊細な金彩が施された、先代から受け継いだ、由緒正しき高価なティーセット。
おそらく、下級貴族が一年食い繋げるほどの代物だっただろう。
慌てて駆けつけた他のメイドたちが、その惨状とミナの顔色を見て、一様に息を呑むのが聞こえた。
解雇どころか、家の者にひどい折檻をされてもおかしくない、この屋敷では滅多にないほどの失態だ。
普通の貴族であれば、烈火のごとく怒鳴りつけ、鞭打ってもおかしくない状況だろう。だが、俺は粉々になった磁器のかけらには一切目もくれなかった。
俺の視線は、震える彼女の小さな手に向けられていた。
「ミナ」
俺が名を呼ぶと、ミナはビクリと肩を震わせた。
まるで死刑宣告を待つ罪人のように――
その身体は小刻みに震え、顔は恐怖に引きつっている。
「は、はいぃっ!」
声はか細く、今にも消え入りそうだ。
その怯えが、痛いほど伝わってくる。
「気にするな――それより、手を見せろ。破片で怪我はしていないか?」
俺の言葉に、ミナは信じられないものを見るように、ゆっくりと顔を上げた。
叱責でも侮蔑でもなく、俺が純粋に「心配の言葉」を口にしたからだろう。
周囲のメイドたちも、驚いたように目を見開いている。
彼らにとって、貴族とは使用人を道具としか見ない存在だ。
ましてや、高価な食器を割った使用人に対して、心配の言葉をかけるなど、想像もつかないことなのだろう。
「……け、怪我は……ありません」
ミナの震える声は、安堵と困惑が入り混じっていた。
「そうか、ならいい。食器などまた買えば済む」
俺の言葉に、ミナの瞳から大粒の涙がハラハラと溢れ出した。
それは悲しみの涙ではなく、純粋な感動の涙だった。
彼女の顔に、希望の光が灯ったように見えた。
俺はこの時、ゲームシナリオを思い出していた。
とあるシナリオの中で、わずかに言及されていた出来事だ。
ゼノスはドジっ子メイドが高価な食器を割ったことに腹を立て、その子を殺してしまうのだ。――だが、俺はそうしなかった。
当たり前だ。
俺には前世の記憶がある。
食器ごときで、そんなひどい罰を与える気にはなれない。
それ以来、ミナが俺に向ける瞳に恐怖や義務ではない、熱を帯びた何かが宿るようになった。
そしていつの間にか彼女の腹には、俺の専用奴隷の紋様が刻まれていた。
普段は目を凝らさなければ見えない程度だが、魔力を使おうとすると、ぼうっと光る。俺のことを愛した証――
心からの愛というものは、案外こういう些細なことで手に入るのかもしれない。
奴隷として縛り付けるだけでなく、人間としての尊厳を与えられたことによって芽生えたのだ。と思う。
この屋敷で俺の「専用奴隷」となったのはリーリアとミナの二人だけ。
この世界で本当に信頼できるのは――
俺を愛し、忠誠を誓った二人だけだ。
────────
(回想終わり)
俺の寝室には専用奴隷以外は入れない。
だから、朝起こしに来るのはリーリアかミナのどちらかだ。今日の担当はミナ、というわけか。
「ご苦労」
俺はベッドの上で腕を伸ばし、その体勢のままミナを軽く抱きしめて慰労する。
幼い子供を抱きしめるように、優しく。
寝室の空気は、彼女の甘い香りに包まれる。
「ご、ご主人様、あの、その……」
突然のことにミナは混乱しているようだ。
その顔は真っ赤に染まり、視線が宙を彷徨っている。その慌てぶりは、まるで小さな子ウサギのようで可愛らしい。俺の腕の中で、その華奢な体が少し震えているのが伝わってきた。
部屋の入り口から、それを咎めるかのようにリーリアの声が聞こえた。
その声には、どこか冷たい響きがあった。
「ゼノス様、ミナが困っています」
普段はどんな時でも冷静で、感情を露わにしないリーリアが、今日はどこか不機嫌そうに眉をひそめている。
琥珀色の瞳が、俺とミナを交互に見ていた。
その視線には、明らかな不満が宿っている。
わずかに口角が下がっているのが、彼女の不機嫌さを物語っていた。
「なんだ? 新人に嫉妬か」
俺が茶化すように言うと、リーリアの顔が珍しく慌てたように動いた。
その完璧な表情に、微かな動揺が走る。
「ち、違います! そのようなはしたない真似は……!」
リーリアは、俺の指摘を否定しているが――
その頬は僅かに赤く染まっている。
「そうか、ならいい」
俺はミナを解放し、ベッドから降りる。
そして、珍しく慌てるリーリアのことも軽く抱きしめてやる。
リーリアは一瞬硬直したが、すぐに諦めたように深いため息をついた。
その細い腕が、俺の背に回されることはなかったが、その体からは僅かに温かい香りがした。
「はぁ……早く身支度を。学園に遅れますよ」
「わかってるさ」
二人の専用奴隷に甘えさせてもらい、俺は身支度を整えて学園へ向かった。
心を許せるのは、まだこいつらだけだ。
外に出れば、またあの冷たい視線が俺を貫くだろう。
しかし、彼女たちとの時間だけは、俺が唯一、心の底から安らぎを感じられる瞬間だった。屋敷の静寂が、外の世界の喧騒と対比して、より一層の安堵をもたらす。
学園に着くと、昨日の騒動はあっという間に広まっていた。
石造りの廊下には、生徒たちのざわめきが常に満ちている。彼らの視線が、まるでねっとりとした粘液のように俺にまとわりつく。
俺のあだ名は、「ゼロの敗北者」、あるいは「敗北のゼロ」になっていた。
直接言われることはないが、クラスメイトたちの会話の端々から、その言葉が氷のように冷たく伝わってくる。
「おい、見たかよ、あいつ。腰抜けのゼロだぜ」
「まじかよ、貴族のくせに決闘断るとかありえねぇ。恥知らずもいいところだ」
「みんなの前で面子を潰されて、よく学園にいられるもんだ」
そんな陰口が、ざわめきの中で耳に届く。
だが、俺は気にも留めない。
むしろ、これは計画通り。
侮られることこそ、俺の望む隠れ蓑なのだから。
俺は表情一つ変えず、ただ黙々と自分の席へと向かった。席に着くと、ひんやりとした木材の感触が指先に伝わった。
この日の実技授業は、一対一で魔力をぶつけ合う「魔力比べ」だった。
相手の魔力を感知し、それを自分の魔力で押し返す。
純粋な魔力量と魔力操作の技量が問われる授業だ。
訓練場の中央には、魔力結晶が埋め込まれた白い大理石の台座が二つ向かい合い、その上を淡い魔力の光が覆っている。訓練場の空気は、生徒たちの高揚した魔力の粒子で、微かにビリビリと肌を刺激する。
当然、俺は一人で蚊帳の外だ。
なにせ魔力がゼロなのだから――
俺は訓練場の隅、日当たりの悪い壁際で、クラスメイトたちの勝負をぼんやりと見守る。
周囲の生徒たちは、俺の存在などまるで視界に入っていないかのように、熱心に練習に打ち込んでいる。
彼らの熱気が、俺の周囲の冷たい空気を一層際立たせていた。
「次! リゼル・ブランシェットとルカ・ドルトン!」
教師の朗々とした声が、訓練場に響き渡る。
注目していたのは、ピンク髪の伯爵令嬢リゼル・ブランシェットと、三下貴族キャラのルカ・ドルトン。
この二人は婚約者同士で、ルカはゲームでゼノスの取り巻きになる男だ。
典型的な、主人公に絡んでくる悪役貴族の子息。
ゲームのゼノスなら、彼を従えていたことだろう。
対決はリゼルの圧勝に終わる。
リゼルの放つ淡い桜色の魔力が、ルカの放つ濁った水色の魔力を簡単に弾き飛ばし、ルカは地面に盛大に転がった。
その体が訓練場の床に叩きつけられる鈍い音が響き、周囲から小さな笑い声が漏れる。まるで大人と子供の喧嘩だ。
訓練場に笑いが起こる中、地べたに転がっていたルカが、ふてくされたように立ち上がった。その視線は、何故かこちらに向けられていた。
そして、まるで磁石に引き寄せられるかのように、俺の目の前までやってくる。
ルカは金髪をオールバックにし、いかにも裕福な貴族らしい派手な装いを好む男だ。上質な生地の制服も、彼の趣味に合わせて無駄に装飾が多い。
細身で、常に自信満々だが、どこか小物臭が漂う。
顔立ちは悪くないが、表情がずる賢い印象を与える。転んだ拍子に乱れた髪をかき上げながら、その顔に怒りをにじませて、俺のことを睨みつけている。
そして、いかにも彼らしい陳腐な言葉が吐き出された。
「なに笑ってんだよ。お前、魔力がゼロのくせに……、魔力のない奴が魔法学園に通ってんじゃねーよ。「敗北のゼロ」のくせに」
と、喧嘩を売ってきた。
彼の嘲るような声が、訓練場の静寂に刺さる。
その言葉は、周囲の生徒たちの陰口と重なり、一層の屈辱を煽る。
ゲームでは俺の取り巻きだったんだがなぁ……。
こいつにまでなめた口をきかれる自分に、俺は心の中で苦笑いを浮かべた。
敵勢力に侮られる分には、まだいい。
それは計画通りなのだから。
だが、味方勢力からの侮蔑は看過できない。
……さて、このイベント――
どう対処すべきか。




