第77話 魔界の姫とラスボスの座
俺が前世でプレイしたゲームの知識によれば、この物語の真のラスボスは、魔人『オルカス』だ。てっきり、そいつが現在の魔界の王様か何かだと思っていたのだが、どうやら、そうでもないらしい。
アシュラフが、にやりと口角を歪めた。
その不気味な笑みに、警戒心が膨らむ。
「ところでアシュラフよ。魔界というのは、姫君が統治しているのか? 女王、ではなく」
俺は、リーリアを抱きしめたまま、背後の魔人に尋ねた。
「そこに気づかれるとは、流石はゼノス様」
いや、そんな大した質問ではないはずなのだが。
相も変わらず、こいつのお世辞には心がこもっていない。褒められるのは嬉しいのだが、どうにも、うさん臭い響きを感じる。
「魔界は現在、先の魔王陛下が崩御されまして、そのご息女であるルシフィール様が、暫定的に、統治者の座についておられます。そのお方をぜひ、ゼノス様の支配下に、と話をお持ちした次第です」
「――ふむ。面白そうではあるな」
俺は、表向きには興味深そうな顔をしてそう言った。
だが、内心では――「いや、ちょっと待て」と、冷や汗が背筋を伝っている。
次の魔界の王は、十中八九、あの『オルカス』になるのだろう。
新しい魔王が正式に決まるまでの、あくまで「暫定的な」統治者に、今、このタイミングで手を出すというのは、かなりリスクの高い行為ではあるまいか?
そもそも、そのお姫様の元まで、一体どうやって行くというのか。
仮に、そのお姫様を俺の専用奴隷にできたとしても、暫定的な統治者を支配したところで、俺が魔界そのものを支配できるわけではないだろう。
(姫君を配下にすることに、何か意味があるのか? 下手に手を出して、無用な混乱を引き起こすだけな気がするが? ……しかし、この話に乗ることで、奴が何を企んでいるのかを探る糸口になるかもしれない)
俺が無表情の裏で、必死に思案を巡らせていると――
アシュラフは、俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、勝手に話を進め始めた。
「では、一足先に、私がルシフィール様の近くまで、こっそりと忍び込みますので、ゼノス様は、後からごゆるりとお越しください」
そう言うと、奴は、俺の返事を待つまでもなく、その姿を、フッと消した。
……おい。
それだとなんだか、俺がこれから夜這いでもするみたいじゃないか。
抗議したくても、奴の姿はもうすでにない。
魔界へと転移した後だ。
まあいい。
下僕であるアシュラフの移動先は、その魔力を目印にすれば、正確に把握できる。奴の元へ転移すること自体は、造作もない。
「……ゼノス様。あの魔人の提案は、あまりにも危険が大きすぎるのではございませんか?」
俺の腕の中で、リーリアが心配そうに声をかけてくる。
その小さな震えと警戒心が、じわりと胸に伝わってきた。
俺は、彼女の柔らかな胸の感触を改めて確かめながら、不安を和らげるように、優しく囁いた。
「なに、心配はいらん。本気で無理をするつもりはないさ。それに、この機会に“魔界の姫君”とやらに、一度挨拶しておくのも悪くはないだろう」
別に、アシュラフの言う通りに事を進める必要はない。
挨拶だけして、何もせずに帰ってくるのもありだ。
もし、やばそうなら――
すぐに転移で逃げればいい。
それに、一度でも転移しておけば、その場所には、今後いつでも転移できるようになる。魔界への入り口となる転移ポイントを作っておくだけでも、今回の訪問には十分な価値がある。
そう考えると、アシュラフの提案も悪くない。
これは、思わぬ収穫だ。
魔界の地理や情勢を把握するためにも、この機会は逃せない。
「少し、留守にする。後のことは、頼んだぞ」
俺はそう言って、リーリアの頬をそっと撫でた。
彼女の大きな瞳が、不安げに揺れている。
その不安を拭い去るように、俺は、深く、長いキスをした。
唇の柔らかさ、ほんのり甘い香り――そのすべてが、俺の心を静めてくれる。
「……行ってらっしゃいませ。ご武運を、ゼノス様」
彼女の心配そうな声を背に、俺は意識を集中させ、魔界へと転移した。
光が俺の体を包み、視界は一瞬にして真っ白になった。
***
転移した場所は、薄暗かった。
空気は重く、冷たい。
香木を焚いたような匂いが微かに漂う。
(ここは――寝室、か)
照明は、ほとんど灯っていない。
完全な暗闇ではないが、視界はぼんやりと霞み、部屋の全容は掴めない。
広々としていて、調度は豪奢。
だが、どこか冷ややかな空気が漂っている。
装飾の華やかさとは裏腹に、温もりの欠片も感じられない空間だ。
足元には、漆黒の大理石。
光を吸い込むようなその床が、部屋全体の雰囲気をさらに重く、沈鬱なものにしていた。
少し離れた場所に、アシュラフの気配を感じる。
奴は部屋の隅、深い物陰に身を潜めながら、こちらに向かって優雅に、そして深々と頭を垂れているのが見えた。
あいつは、魔界の姫の寝室にすら、誰にも気づかれることなく忍び込める。
それほどまでに、圧倒的な隠密能力を持っているというわけだ。
その能力は、おそらく、数多の魔人の中でも――
間違いなく、トップクラスだろう。
俺も、奴のその術式を、すでにコピーしてある。
それを使えば、俺もまた、誰にも気づかれずに、ここへ現れることができたはずだ。だが、今回は――
あえて、そうしなかった。
俺は、あくまで“挨拶”をしに来たのだ。
気配を消して、こそこそと近づくのも、礼を欠くように思えた。
だからこそ、俺は気配を隠すことなく、堂々と――
この姫の寝室の、ど真ん中に転移した。
当然、ベッドの上にいたこの部屋の主も、すぐに俺の存在に気づく。
その視線が闇の中から、静かに俺を捉えた。
「――何者ですか? あなたは」
その声は、鈴の音のように可憐でありながら、氷のような冷たさを宿していた。
統治者としての、凛とした響きが、俺の心臓を軽く震わせる。
「ご機嫌伺いにまいりました。ルシフィール様」
俺は、これ以上ないほど紳士的に、完璧な振る舞いと――
我ながら決まったと思える最高の笑みで、そう告げた。
闇の中に浮かび上がる、魔界の姫君に向かって。
彼女は驚きを隠せず、ベッドの上で身を起こす。
銀色の髪が月明かりを淡く反射し、白磁のような肌を際立たせていた。
その瞳は、警戒と――
ほんのわずかな好奇心を宿して、じっと俺を見つめていた。




