第76話 束の間の平和と魔人の提案
【アビス・コロシアム】での激闘を終え、俺は、しばし平穏な日々を送っていた。
大会の優勝賞品として、俺のものになった獣人族の姫、ルミア・セクレッドは、現在、ここグリムロック家の屋敷で暮らしている。
彼女の身の安全を考えれば、この厳重に警備された屋敷か、あるいは、俺の所有する劇場で暮らすことが、望ましいだろう。
ルミアの獣化形態は、雪のように真っ白な毛並みを持つ、可愛らしい子ライオンだ。その大きさは、さながら小型犬ほど。この屋敷に来てからは、同じく獣人であるクーコと一緒に、俺の専用奴隷のミナが、かいがいしく世話をしていた。
今も、屋敷の広大な中庭で、三人が楽しそうにじゃれ合いながら遊んでいる。
降り注ぐ太陽が、彼女たちの茶色の三つ編みや、黒と白の毛並みにキラキラと反射している。少女と小動物のふれあい。
見ていると、心が安らぐ平和な光景だ。
俺は、テラスの椅子に深く腰掛け、グラスを片手に、その様子をぼんやりと眺めていた。グラスの中の冷えたドリンクが、日光を浴びて、鮮やかなルビー色に輝く。
傍らには、俺の忠実なる専用奴隷、筆頭メイドのリーリアが、静かに控えている。彼女の黒いメイド服は、わずかな風にも揺れず、まるで絵画のようにそこに立っていた。
「さて……。まずは、彼女を獣人の森に帰してやるか。丁重にな。だが、いかんせん、俺の『専用奴隷』になってしまっているんだよな。……その辺りを、一体どう言い訳したものか」
「言い訳など、必要ありませんわ。ご主人様の専用奴隷になれるなど、いかなる身分の者であっても、この上ない名誉なことなのですから」
リーリアが、涼しい顔で、とんでもない助言をしてくる。
その真剣な眼差しに、俺は思わず苦笑した。大真面目に、そんなことを言ってくれる彼女のことが愛おしい。
だが、残念ながら、そういう訳にもいかないだろう。
他国の、それも獣人族のお姫様を、よく分からない、得体のしれない奴隷にしておいて、「さあ、これからは仲良くしましょう」などと言ったところで、それが通るはずもない。
「……リーリア。少し、そばに寄れ」
「はい、ご主人様」
俺は、素直に近づいてきたリーリアの、その細い腰に、そっと手を回し、強く抱きしめた。彼女の温かい体温が、シャツ越しに伝わってくる。
最近、何かと忙しくて、こいつのことを、あまりかまってやれていなかった。
その柔らかな感触を、久しぶりに味わう。甘い花の香りが、彼女の髪からほんのりと漂い、俺の心を穏やかに満たした。
「いけません、ご主人様。ここは、寝室ではないのですよ」
リーリアの小さな抗議の声が、俺の胸に響く。
「ふん。俺に、変な助言をした、お仕置きだ」
俺は、リーリアを放さない。
その体の、心地よいぬくもりを、心ゆくまで堪能する。
「……それにしても、相変わらず、デカいじゃないか」
「こ、こんな外で、そのようなセクハラ発言はおやめください! ご主人様の品位が損なわれてしまいます。あっ、ダメです、そこは……!」
俺たちがそんな他愛のないやり取りを楽しんでいると、背後から――無粋な邪魔が入った。
「――ゼノス様。あなた様が、この世を統べるための、その『近道』となる、素晴らしいご提案を、お持ちいたしました」
静かで、どこか不気味な声と共に、一人の男が音もなく現れる。
執事服に身を包んだその男――
転移の魔人、アシュラフ。
こいつは、相も変わらず、俺の真後ろに現れる。
その身から放たれる、底知れぬ魔力の冷気。肌が粟立ち、刺すような感覚が背を這う。漆黒の執事服を完璧に着こなし、優雅な佇まいのまま、まるで最初からそこにいたかのように、奴は平然と立っていた。
その表情は、まるで仮面のように読み取れない。
ただ、瞳の奥に宿る淡い金色の光が、ゾッとするほど静かに瞬いていた。
……どうでもいいけど、少しは空気を読めよな。
せっかくリーリアと楽しく、いちゃついていたところだったのに。
俺は、そんな内心の不満をおくびにも出さず、転移の魔人に問いかける。
奴が何を考えているのかは、全く分からなかったが、「お前のすべてを見透かしているぞ」と、言わんばかりのオーラを放って――
***
「ほう。面白い。聞かせろ、アシュラフ」
俺はリーリアを抱きしめたまま、後ろを振り向くことなく、話の続きを促す。正直、今の俺にとってアシュラフの話など、何の興味もなかった。
だが、“大物”としての余裕ある態度は、常に見せておく必要がある。
この魔人は、信用ならんからな。
「はい。では、僭越ながら。……魔界の姫君にして、その世界の統治者でもある、ルシフィール様を、ゼノス様の支配下に置くというのは、いかがでしょう?」
――は?
魔界の姫、支配下??
アシュラフは、とんでもないことを、今日の献立でも提案するかのように、さらりと言ってのけた。
「ゼノス様は、すでに、この国の王女に、帝国の姫、そして、エルフの姫に獣人族の姫までも、その手に収めておられます。ならば、その輝かしいコレクションに、魔界の姫君を新たに加えるのも、また一興かと」
なんだか、とてつもなく大きな話を振ってきやがったな。
それに、魔界の姫『ルシフィール』だと?
そんな名前のキャラクターは知らない。
俺が知るゲームの知識には、一切存在しないキャラクターだ。
魔界の統治者といえば――
このゲームの、真のラスボスである『オルカス』じゃないのか?
……よく分からんことだらけだ。
俺の知らない、新たな設定。
あるいは、俺の行動によって、変化してしまった未知のシナリオ。
だが、いずれにせよ。
この場面で、俺がすべき答えは、ただ一つだけ。
選択肢は、最初から決まっている。
「ふっ、面白いじゃないか……それも、良いだろう」
俺は大物として、その提案に乗ることにした。
魔界の姫、か。
悪くない。
だが、俺の迂闊な答えを聞き――
抱きしめているリーリアの鼓動が、わずかに速くなったのを感じた。




