第65話 狂乱の牙と黒豹の咆哮
闘技場の支配者ゾルタンの管理を、俺の下僕である魔人アシュラフに任せたことで、俺はようやく、後顧の憂いなくこの大会に専念できるようになった。
非合法の地下闘技場で繰り広げられる、年に一度の鉄と血の祭典【アビス・コロシアム】。今年は特別豪華な優勝賞品が用意されているため、盛り上がりはいつも以上らしい。その熱気が地下深くから沸き立つように肌を刺す。
俺たち『ロイヤル・ファントム』は、無事に初戦を突破し、今、第二回戦のバトル・フィールドへと、その足を踏み入れた。
通路の冷たい石畳を踏みしめ、リングへと向かう。
地下特有の湿った空気が頬を撫でた。
途中、俺はふと、頭上にあるVIPルームへと視線を送った。
厚い防音ガラスの向こう側。
そこには、一人の少女が、静かに椅子に腰かけて、これから始まる殺戮ショーを見下ろしている。
ガラスの反射で表情は読み取れないが、その澄んだ瞳だけが、こちらを静かに見据えているように感じられた。彼女こそ、この大会の優勝賞品。獣人族の姫、ルミア・セクレッド。
齢は、おそらく俺のチームメンバーであるクーコと同じくらいだろうか。
人間形態の彼女は、雪原を思わせる輝く白い髪と、気高い獅子を彷彿とさせる、力強い金色の瞳を持っている。
ボリュームのある髪から彼女が獣人である証の、小さな白い耳が覗いていた。微かに揺れる白い毛先が、痛々しいほどに儚い。
その手首には、身動きと魔力操作を封じるためのものだろう、鈍く光る重々しい手枷が付けられている。
カチャリ、と微かな金属音が聞こえた気がした。
自分が、これから誰の『物』になるのか。それを、その目で見届けさせようという、ゾルタンの悪趣味な演出だ。俺の視線と、彼女の視線が交錯した、気がした。
***
ワァァァッ!
俺たちがリングに上がると、観客席から、前回以上の熱狂的な大歓声が沸き起こった。怒号のような興奮が、全身に叩きつけられる。
土埃と汗の匂いが混じった熱気が、肌を粟立たせた。
リングの中央には、すでに三体の獣人が、俺たちを待ち構えていた。
その全身から放たれる、剥き出しの闘争本能と殺気が、肌をピリピリと刺す。まるで本物の野獣が目の前にいるかのようだ。
「次の相手は、獣人のチームか……」
隣に立つエレノアが、「それで、どうするのだ? また、二人だけで戦うのか?」と、いつも通りの淡々とした口調で聞いてくる。
二人でも、やれなくはないだろう。
だが、せっかくの晴れ舞台だ。
ここで、我がチームの新戦力を、華々しくお披露目しておいてもいいだろう。それに、クーコもこの場を心待ちにしていたはずだ。俺は、肩に乗っていた子猫のクーコを優しく抱きかかえると、その小さな体に、俺の膨大な魔力を直接、供給した。
温かい魔力が流れ込むたびに、クーコの体が微かに震えるのを感じる。
心臓の鼓動が、俺の腕に伝わってくる。
「――目覚めろ、クーコ。お前の本当の姿を、見せてやれ」
「うにゃぁぁぁあああああ~~~~~~っ!!」
クーコの体は、眩い翠玉の光に包まれ、見る見るうちに巨大化していく。光が収まった時、そこには、俺の背丈を優に超える、巨大な黒豹が、そのしなやかな体躯を誇示するように、低く唸り声を上げていた。
漆黒の毛並みは、リングの照明を吸い込むように深く輝き、その瞳は血のように赤く光る。
威風堂々としたその姿に、俺は満足げに頷いた。
「なっ……! 貴殿は、それほどの膨大な魔力を、その身に秘めていたというのか……」
エレノアが、俺の横顔を、驚愕の表情で見つめている。
その蒼い瞳に、はっきりと動揺が見て取れた。
まだまだ、俺の魔力には余力がある。
ラスボスの面目躍如といったところだ。
「まあ、な。――それよりも、試合が始まるぞ。集中しろ」
『おおおおおーっと! なんだ、これはぁ! あの可愛らしい子猫が、一瞬にして、巨大な魔獣へと姿を変えたぞぉぉっ! これが、チーム『ロイヤル・ファントム』の、三人目のメンバーだというのかぁっ!?』
巨大な黒豹の登場に、実況が、そして観客が、興奮の坩堝と化していく。会場全体が揺れるほどの、地鳴りのような歓声が響き渡った。
その熱狂が最高潮に達した瞬間、試合開始を告げられる。
無慈悲なゴングが、甲高い音を立てて鳴り響く。
その余韻が、鼓膜に突き刺さった。
***
俺たちの相手は、狼、熊、そして狐の獣人で構成されたチーム、【狂乱の牙】。
ゾルタンが、個人的に目をかけている、特に凶暴な獣人奴隷たちで組まれた、「準優勝」候補の一角だ。
油断は許されない。
狼と熊は、その野性的な本能を封印し、獣人形態で戦うようだ。
狼の獣人ガロウは鋭い鉤爪を光らせ、熊の獣人バッシュは巨体を揺らす。
そして、チームの紅一点である狐の獣人は、こちらの獣化したクーコに対抗するためか、その身を巨大な妖狐へと変化させていた。九本の尾がゆらりと揺れる。そのしなやかな体つきは、クーコと似通っている。
クーコと、巨大な妖狐が、リングの中央で睨み合う。
互いの獣性がぶつかり合い、静かな火花が散るようだ。
低く唸るクーコの喉元が微かに震える。大きさは、クーコの方が、まだ一回り大きい。ここは、彼女に任せておいて大丈夫だろう。
エレノアは、両手にかぎづめを装備した、狼の獣人ガロウと、すでに剣を交えている。キン、キン、と金属がぶつかる高い音が響く。
火花が散り、剣筋の鋭さが際立つ。
相手の鉤爪による攻撃は、単純な手数で言えば、エレノアの二倍だ。
しかし、純粋な剣の技量で優るエレノアの方が、今のところは優勢に見える。その細身の体からは想像もつかないほどの剣捌きだ。
そして、俺は。
チームのタンク役である、熊の獣人バッシュと、真正面から向かい合っていた。
その巨体から放たれる威圧感は、まさに壁のようだ。鈍重な見た目に反して、その眼光は鋭い。
「グオオオオオッ!!」
バッシュは、その巨体に見合わぬ俊敏さで、装備している巨大なハンマーを、唸りを上げて俺目掛けて振り下ろしてきた。
風が唸り、空気が震える。
鉄塊が空を切る重い音が耳を劈く(つんざく)。
俺は、それを冷静にバックステップでかわし、一度、距離を取る。
ハンマーが地面に叩きつけられ、地面が砕ける音が響いた。
土煙が舞い上がる。
敵が、大振りの攻撃によって崩れた態勢を整える、その前に。
俺は、再び懐へと接近し、その硬質な毛皮で覆われた脇腹に、剣を突き立てた。
ジョリ、と硬い毛を切り裂き、その下の肉を裂くような感触が手元に伝わる。
――だが、傷は浅い。
深く抉るには至らない。
このタフな獣人は、その程度のダメージなど、まるで意に介していないかのように、再び、その巨大なハンマーを、大きく、大きく、振りかぶった。
頭上に落ちてくる影が、一瞬、視界を覆う。
凄まじい風圧を伴って、その凶器が、俺の頭上へと迫る。
俺は再び後退して、それを躱すことにした。
(このまま、避けながら反撃していくか……)
――焦りは禁物。
俺は、冷静に、そう判断していた。




