第64話 裏社会の支配者の末路
(ゾルタン視点)
闘技場のリングで、俺は奴隷を殴り続けていた。
リングの外には、まばらに人影が見える。俺の護衛たちだ。そいつらは、誰もが静かに、気晴らしのためだけの暴力を見守っている。鉄槌のような重い拳が、対戦相手の腹や顔に何度もめり込む。
ゴッ、ゴッと鈍い音が響き、血と汗が砂埃の舞う土色のリングに飛び散った。
そいつの口からは、ごぼっと泡だった血が溢れ、見る見るうちに意識が遠のいていく。
本気を出せば瞬殺できる相手だ。
だが、あえて手加減をしてじっくりいたぶる。こいつの命が尽きるまでの苦痛を、最大限に引き延ばす。
そうしなければ、腹の虫が収まらない。
リングの端では、もう一人の奴隷がガタガタと恐怖に震え、腰を抜かして座り込んでいた。その瞳は、血で濁ったリングと、血塗れの兄を交互に見て、怯えきっていた。
「おい、どうした? 兄弟なんだろ? 助けなくていいのか?」
殴る手を止め、腰抜けの男を嘲るように語りかけたが、奴隷はただ小刻みに震えるだけで動かない。
俺は心底つまらなそうにため息をつくと、そいつの目の前で、兄である奴隷をゆっくりとなぶり殺しにした。
肉が潰れる音、骨が軋む音、そして男の最期の呻き声が、薄暗い闘技場に虚しく響いた。リングの外で待機している護衛たちからは、微かに乾いた笑い声が聞こえるだけだ。
「……お前のことは生かしておいてやる。自分の腰抜けぶりを、せいぜい悔やみながら、これからも奴隷として惨めに生きろ」
そう言い捨てて、俺はリングを降りた。
拳に、まだ温かい血と肉の感触が残る。
執務室に戻る途中、部下から連絡が入った。
どうやら、あのグリムロック家の小僧が面会に来たらしい。
「なんだ、今頃になって詫びを入れに来たのか? まあいい、少し待たせておけ」
そう吐き捨て、俺は執務室の重厚な鉄の扉に手をかけた。
ひんやりとした金属の感触。油の匂いが微かに鼻を掠める。
そして、その目に映った光景に、一瞬だけ息をのんだ。部屋の中には、三つの死体が無造作に転がっている。
彼らの体はすでに冷え切り、血のりが乾いて黒ずんだ染みが床に広がっていた。
昨日。あの女の居場所を探らせるために放った、手練れの密偵たちの成れの果てだ。グリムロックの小僧は、つい数時間前、こいつらの身柄と引き換えに、手打ちを打診してきていた。
それを、殺したということは――
あまりの怒りに拳が震える。
俺の息のかかった密偵が、こんな無残な姿になるなど、あってはならないことだ。
「――話を、付けに来たぜ。三下」
俺をおちょくるように、背後から声をかけられる。
振り向くと、そこに、あの忌々しいグリムロック家の小僧が平然と立っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(ゼノス視点)
話は少しだけさかのぼる。
俺の交渉の呼びかけに対し、ゾルタンから届いた返答は、「あの女をよこせ」という、俺の要求を完全に無視したものだった。
交渉の余地なし。
ならば、こちらもそれ相応の対応をするまでだ。
俺はアシュラフに、捕虜としていた三名の密偵を殺害し、その死体をゾルタンの執務室に捨ててくるよう命じる。
彼らの顔は恐怖に歪み、生気が全く感じられない。
まるで朽ちた人形のようだ。
その後、俺自身も闘技場へと足を運んだ。
闘技場の受付で待合室に案内され、ここで待つように言われたが、俺はそんな指示に従ってやる義理はない。当然、無視して部屋を出た。
アシュラフから術式をコピーしておいた、気配を完全に消す魔法を使う。
誰にも気づかれることなく、ゾルタンの執務室へと移動する。
タイミングは完璧――
ちょうど奴が気晴らしの殺戮を終え、部屋に戻ってきたところだった。
部屋の中には、俺からのささやかなプレゼントである密偵三名の死体。
その光景を目の当たりにし、ゾルタンは驚いているようだが、それ以上に全身から煮えたぎるような怒りのオーラを放っている。
その顔は赤く染まり、血管が浮き上がって見えるほどだ。
沸騰した湯気のように、殺気が立ち上っているのを感じる。
俺はそんな彼の背後から、静かに声をかけてやった。
「話を、付けに来たぜ。三下」
「……調子に乗るなよ。小僧が」
ゾルタンは部屋の中には入らず、ゆっくりと振り向き、俺と対峙した。
自分の部屋にいきなり死体を三つも放り込まれているんだ、他にどんな危険な仕掛けがあるかわかったものではない。
怒り狂ってはいるが、その辺の判断は意外と冷静らしい。
……あるいは、単に死体がゴロゴロと転がっている気味の悪い部屋に入りたくないだけかもしれないが。
「で、どうする。まだ、俺と対立を続けるのか?」
「お前が、あの女を素直によこせば、それで済むことだったんだ。いや……ここまでのことをしでかしたんだ。それで許すわけにはいかねぇな。お前は、ここで殺す」
ゾルタンは懐から鈍い光を放つメリケンサックを取り出し、両手に装備した。
分厚い金属の塊が、彼の拳にずっしりと収まる。
金属が擦れる音が、妙に耳障りだ。どうやら本気のようだ。
貴族である俺をこの場で殺せば、王家が本格的にこの非合法闘技場を潰しにかかってくるかもしれない。
だが、それでも奴にとっては、裏社会の支配者としてのメンツの方が大事なのだろう。それに、己の戦闘能力と保有する戦力に絶対の自信がある。
王家が本腰を入れても、逃げずに大暴れする気でいるらしい。
まったく、厄介なやつだ。
俺はゾルタンの後ろ、部屋の中に目を向けながら、親切に忠告してやった。
「元気がいいのは結構なことだが、後ろには、気を付けた方がいいぞ」
もちろん、部屋の中には誰もいない。
三つの死体が転がっているだけだ。
「ふん。こざかしい手を使う。部屋の中に、まだ誰か仲間がいるかもしれない、とでも思わせて、俺が振り向いたところを、不意打ちで狙う気か?」
「いや、そうじゃないさ。……ひょっとして、本当に気づいていないのか? お前のすぐ後ろにいるのに」
ゾルタンの後ろには誰もいない。
「そんな、見え透いた手に、引っかかるわけがないだろう。小僧」
(――いまだ。アシュラフ)
俺は心の中で、下僕に指示を出す。
俺の合図と同時に、アシュラフが音もなく、ゾルタンの真後ろに転移した。
まるで闇が形を得たかのように、静かに、そして素早く。それまでは誰もいなかったはずなのに、空間が揺らぐような微かな違和感が、ゾルタンの背筋を這い上がったに違いない。
「……なっ!!」
そのただならぬ気配を、さすがのゾルタンも察したらしい。
こちらを向いたまま、その顔に初めて本物の驚愕の色が浮かんだ。
大きく見開かれた目には、焦りと混乱が混じり合っている。彼の顎から、冷や汗がポタリと床に落ちた。
「案外、鈍いんだな。そいつは、ずっと、お前の後ろにいたんだぞ」
俺は平然と嘘をつく。
だが、そんなことを今のゾルタンが見抜けるはずもない。
「さて、どうする? 降参するか?」
「……くっ、そ、そんな、馬鹿な……」
完全に慌てふためいている。
その声は震え、焦燥に満ちていた。
顔色は土気色になり、明らかに動揺している。
額には、じっとりとした汗が浮かび始めていた。
だが、こいつはどれだけ脅したところで、心から俺に従うようなタマじゃあないだろう。たとえ降参した振りをしたとしても、必ず俺の寝首を掻くことを狙い続けるはずだ。この手のタイプは諦めが悪くて、本当に厄介だ。
どうやらアシュラフも同じことを思ったらしい。
「僭越ながら、ゼノス様。よろしければ、あのルカ・ドルトンと同様に、この者を私の配下に、加えてもよろしいでしょうか?」
ゾルタンを奴隷にしたいらしい。
まあ、こいつに任せておけば、後腐れもなくて楽でいいか。
「ああ、いいぞ。好きにしろ」
俺が許可を出すと、アシュラフはゾルタンの剃り上げられた頭を、片手で、まるで果物でも掴むかのようにわしづかみにした。
ゾルタンの頭皮が、アシュラフの無機質な白い指に吸い付くように見えた。
骨が軋むような嫌な音が微かに聞こえる。
「は、離せ! この化け物がぁ!」
恐怖で必死に暴れまわるゾルタン。
(魔人の魔力は、不気味だからな)
その巨体が大きく揺れるが、アシュラフは微動だにしない。
まるで岩のように不動だ。
アシュラフの魔力が、ゾルタンに流れ込んでいく――
「うっ、うぐっ! や、やめろ、やめてくれぇ~~~、あっ、ああっ、あうっ! い、いやだ、や、めて、お願いします。何でもいうことを聞きます! 降参しますから! だから、やめっ! あっ、いっ、いぐっ、もう、やっ……あっ、あっ! ああっ!! んぎゃ~~~~~~~~っ!!!!」
俺は裏社会の支配者が、そのプライドも、理性も、何もかもを破壊され、発狂していく様子を、ただ静かに眺めていた。
ゾルタンの顔から血の気が失せ、まるで人形のように虚ろな目になっていた。その口からは、意味のない呻き声が漏れ始め、完全に自我を失ったかのように見える。その瞳からは、一切の感情が読み取れない。
薄暗い廊下には、不気味な静寂が漂っていた。




