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第63話 支配者の苛立ちと反撃の狼煙

 俺は闘技場の選手控室から、通信魔道具を手に取った。

 冷え切った石壁が囲む空間で、わずかな機械音が耳に届く。劇場の通信魔道具に繋ぎ、簡潔に用件を伝えた。


 劇場の従業員として正体を隠して働いている鷹の獣人、ホークスに、この地下闘技場の上空まで、すぐに飛んでくるようにと。


 指示は短く、『尾行者を見張れ』。


「さて、帰るぞ」


 通信を終え、まだどこか落ち着かない様子のエレノアに声をかけた。彼女の瞳には、先ほどの試合の熱と、拭いきれない不安が揺れているように見えた。


「……大丈夫なのか? あの男、このまま引き下がるとは思えんが」


 心配そうにこちらを見上げる王女様の華奢な腰に腕を回し、ぐっと抱き寄せる。

 細いながらも確かな体温が、掌からじんわりと伝わった。


「案ずるな。すでに手は打った。任せておけ」


 俺たちは仲睦まじい恋人同士を装いながら、地下闘技場の薄暗い通路を抜けた。


 湿った土と埃の匂いが鼻をつく。

 重く軋む木の扉を押し開けて地上へ出ると、夕暮れの冷たい空気が、火照った体をすっと冷ましていくようだった。茜色に染まり始めた西の空には、薄い月が白く浮かんでいる。


 外に止めてあるグリムロック家の紋章が入った豪奢な馬車に乗り込む。

 きらびやかな装飾に囲まれた車内は、革の匂いが微かに漂い、揺れも少ない。


 俺は御者に指示を出し、無意味な回り道を使い屋敷へと向かった。


 まずはいつも通り、エレノアを俺の屋敷へと連れ帰る。

 彼女を客間へ通し、俺の専用奴隷であるリーリアに、極上のお茶を振る舞わせた。銀のティーポットから立ち上る湯気が、僅かに甘い香りを部屋に広げる。


 その間、俺は一人、中庭へ出た。


 ひんやりとした夜の帳が降り始める中、茜色の空を見上げる。

 薄い青の空から、音もなく一匹の鷹が舞い降りてきた。風を切る音すらせず、滑るように降りてきたのはホークスだ。


「怪しい奴はいたか?」


「ああ、旦那の言う通りだ。距離を空けて馬車が一台、後をずっとつけていた。その中から降りた三名が、今もこの屋敷の周囲をコソコソと嗅ぎまわっているぜ」


 ゾルタンの放った手下の諜報員だろう。

 奴らは、エレノア(のそっくりさんである剣闘士)を、俺が屋敷に連れ帰るところまでは、確認したことになる。


 彼女はこの屋敷に住んでいるのか、それとも、この屋敷を中継し、どこかへ向かうのか。それを見届けようというわけだ。エレノアの居住地を突き止めてから改めて攫う計画なのだろう。


「アシュラフ、出てこい」


 俺が適当に呼びかけると、まるで俺自身の影が分離したかのように、背後から低い声が響いた。


「お呼びでしょうか、ゼノス様」


 闇に溶け込むような、それでいて確かな存在感。


「屋敷の周囲に不審者が三名いる。生け捕りにして、魔物用の檻にでも入れておけ」


「かしこまりました」


 あの胡散臭い魔人は、こういう汚れ仕事は実にそつなく、そして楽しそうにこなすだろう。不審者の相手は奴に任せておく。


 アシュラフが再び影に溶けるように消えると、俺はホークスに向き直った。

 彼の鋭い眼光が、夜の闇にきらりと光る。


「念のため、これからエレノアを乗せて王城へ向かう馬車を、上空から見張れ。もし、まだ他に不審者が付けているようなら、すぐに知らせに来い」


「へいへい。……ったく、人使いが荒いぜ、旦那」


「そういうな。お前は普段、仕事をさぼって屋根の上で昼寝ばかりしているだろう。こういう時くらい、真面目に働け」


「……了解」


 ホークスはやれやれと肩をすくめると、その身を鷹の姿へと変え、音もなく夜空へと舞い上がっていった。


 大きな翼が夜空に溶け込むように広がる。


 俺は屋敷の中へ戻り、客間で待つエレノアを迎えに行った。

 彼女の表情には、まだ微かな緊張が見て取れる。何も知らない彼女の肩を抱き、玄関に用意させた馬車まで優しくエスコートしてやった。


「な、なれなれしくするな、馬鹿者」


 彼女の頬が、暗がりでも分かるほどに赤らむ。


「嬉しいくせに、素直じゃない奴だな」


 エレノアを乗せた馬車が夜の闇に消えていくのを、俺は静かに見送った。


 遠ざかる馬車の軋む音だけが、静かな夜に響く。

 そして、書斎に戻ると、闘技場の支配者ゾルタンに宛てて一通の手紙を書いた。インクの匂いが部屋に広がる。『貴殿の放った犬は、こちらで三匹、丁重に預からせてもらった。返してやるから、詫びを入れにこい』と。


 捕らえた三人の密偵を使い、奴との交渉をこちらから呼びかける。


 その後は、リーリアとミナを自室に侍らせて、まったりとした時を過ごし、ここ数日の戦いで溜まった疲れを心ゆくまで癒した。


 柔らかなベッドに身を沈めると、心身の緊張がゆっくりと解けていくのを感じる。俺は二人を抱き寄せて、その頭を優しく撫でてやる。可愛いものをこっそり愛でる時間というのも、孤高な悪役には必要なのだ。



 ***


 翌日、学校の昼休み。


 俺は生徒たちの喧騒から離れ、屋上へと出ていた。


 抜けるような青空の下、風が心地よく頬を撫でる。

 そこで、ホークスから昨夜の報告を受けた。今のところ、エレノアの周囲に不審な者の姿はない、とのこと。王女として王城や学園で過ごしているうちは、エレノアは大丈夫だろう。


 ゾルタンは「本物の王女」を狙っているわけではない。


 だが、このまま放っておくわけにもいかない。

 俺たちは闘技場の試合に出る必要があるのだ。


 俺はホークスを劇場に帰らせると、自分も早めに授業を切り上げ、屋敷へと帰宅した。ゾルタンからの返答を確認するためだ。


 書斎の机の上には、見慣れない封筒が置かれている。


 案の定、手紙は届いていた。

 だが、その内容は俺の要求を完全に無視し、改めて『あの女を差し出せ』という脅迫めいたものだ。紙面から滲み出るような、ゾルタンの傲慢さが伝わる。


 こちらと手打ちする気は、さらさらないらしい。


「……アシュラフ」


 俺は誰もいない部屋で下僕の名を呼んだ。


 ゾルタンとの交渉は決裂した。

 ならば、次の手を打つまでだ。俺はアシュラフと、今後の打ち合わせを始めた。静かな書斎に、二人の低い声だけが響く。


 そして、その日の夜。

 俺は再び、あの血と欲望の渦巻く場所へと向かうことにした。足元から冷たい決意が込み上げてくるのを感じる。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 



 ゾルタンは苛立っていた。


 重厚な執務室の机を、苛立ちに任せて拳で叩く。

 分厚い木材が鈍い音を立て、彼の荒々しい感情を代弁するようだった。剣闘士エレノアという極上の獲物を捕らえるため、情報収集に放った三人の密偵が誰一人として帰ってこないからだ。


「……まさか、しくじったのか?」


 手練れの部下たちだ。

 そう簡単に尻尾を掴まれるはずがない。


 だが、その時、一通の手紙が彼の元に届けられた。

 差出人はゼノス・グリムロック。無造作に封を開け、手紙を読み進めるゾルタンの顔に、みるみるうちに不快な色が広がっていく。


 彼は忌々しげに舌打ちをした。

 口の中に苦いものが広がる。


 相手の警備の方が一枚上手だったらしい。

 気づかれないように後をつけて、あの女の居所を探らせていたはずが、まさか、見つかって捕らえられるとは。


「……相当な手練れが、警備についていた、ということか」


 グリムロックからの手紙には、「エレノアの偽物」を大人しく差し出すように、と返答しておいた。


「あんな小僧の、言いなりになってたまるか!」


 血管が浮き出るほどに拳を握りしめ、ゾルタンは荒々しく立ち上がった。

 気分が晴れない。こういう時は体を動かすに限る。


 ゾルタンは気晴らしをすることにした。


 観客のいない、静まり返った地下闘技場のリングに一人立つ。

 薄暗い照明が、中央のリングをぼんやりと照らし出す。


 冷たい土と汗、そして微かな血の匂いが混じり合った独特の空気が、ゾルタンの肺を満たした。


 そして、牢屋から魔獣を一匹と奴隷を二人、引きずり出させる。

 鉄格子が軋む鈍い音、鎖を引きずる音が、静寂に響く。これから始まるのは、ただ、彼の気晴らしのためだけの、プライベートな試合だ。


 まず、魔獣を素手で徹底的に嬲り殺しにする。


 獣の苦悶の呻き声が、地下空間に響き渡った。

 肉が裂け、骨が砕ける感触が、ゾルタンの手のひらに直接伝わる。赤い飛沫がリングの床に飛び散り、血生臭い匂いが一層濃くなる。


 その感触と匂いが、彼の荒んだ心をわずかに慰めた。


 それを見せつけてから、今度は奴隷との戦いだ。


 奴隷はまだ若い兄弟だった。

 恐怖に震える二人の顔は、青ざめている。


 二人に磨き上げたナイフを持たせる。

 刃は鋭く、切れ味は相当なもの。対するゾルタンは素手。


 それでも、二人はゾルタンの圧倒的な威圧感と、先ほどの惨劇を目の当たりにしたことで、恐怖に怯え、動くことすらできないでいた。


 彼らの瞳は、絶望に揺れている。


「さあ、始めようか」


 ゾルタンは、歪んだ笑みを浮かべた。

 その表情は、獲物を見下ろす捕食者のそれだ。


 そして、次の瞬間。


 ――どごっ!!


 ゾルタンの鉄槌のような拳が、兄と思しき奴隷の顔面にめり込むように突き刺さった。


 肉が潰れるような鈍い音。

 砕ける骨の感触が、ゾルタンの手のひらに直接伝わった。


 弟の、絶望的な悲鳴が、観客のいない闘技場に虚しく響き渡った。


 その悲痛な叫び声が――

 ゾルタンの耳には心地よい音楽のように聞こえているのかもしれない。

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