第6話 公爵との交渉
ヴァーミリオン公爵家。
アースガルド王国建国以来、王家に仕える名門貴族だ。
その権勢は王国内でも屈指。広大な領地から得られる富と、軍部にまで及ぶ強い影響力は、我がグリムロック家にとっても無視できない。古くからの盟友関係にあるとはいえ、その力は常に警戒すべき対象でもあった。
王家との関係も深いが、現国王が推し進める帝国との融和路線に公然と反対しているため、近年その関係は冷え込んでいる。
そんなきな臭い情勢もあって、ヴァーミリオン家の長女、セシリア・ヴァーミリオンと俺の婚約が結ばれている。いわば、次世代での結束を固めるための政略結婚だ。
だが、それも俺の魔力が「ゼロ」だと知れ渡った今、風前の灯火だった。
ヴァーミリオン家ほどの家格であれば、魔力のない婿など家の恥でしかない。
相手方はもう、とっくに婚約破棄に向けて動き出しているはずだ。
三年後に起こるであろう和平派との大戦を考えれば、この強力な味方を失うわけにはいかない。ヴァーミリオン家との関係は、何をおいても最優先で維持しなくてはならないのだ。
「これからヴァーミリオン邸に向かう。アシュラフ、共をしろ」
「かしこまりました。ゼノス様」
執事のように控える魔人は、相変わらず底の知れない笑みを浮かべている。
その胡散臭さとは裏腹に、彼が放つ不気味なまでの威圧感は本物だ。
今日の交渉を有利に進めるためにも、この魔人の存在は欠かせない。
俺の合図があるまで姿を見せるなと言い含め、俺は一人、グリムロック家の紋章が入った馬車に乗り込んだ。硬質な革のシートに身を預け、わずかに揺れる車内で、これからの交渉に集中する。
壮麗なヴァーミリオン邸に到着し、侍従に案内されたのは、重厚な調度品が並ぶ応接室だった。
磨き抜かれた木目のテーブル、壁に掛けられた歴代当主の肖像画、そして部屋の中央、深紅のソファに腰かけた壮年の男が、値踏みするような目で俺を見据えている。
当主、エリク・ヴァーミリオン公爵だ。
彼の視線が、鋭利な刃物のように光りを反射する。
「……で、何の用かね?」
隠そうともしない不機嫌さをにじませた声。
氷のように冷たい響きが、室内の空気をさらに重くする。
彼からすれば、俺は優秀だった兄を差し置いて当主の座に転がり込んだ小僧。
おまけに、貴族の価値そのものである魔力を持たない落ちこぼれ――
これは当然の反応だろう。
だが、それでも俺が先日、決闘で兄を打ち倒し、グリムロック家の次期当主の座を実力で勝ち取ったことも伝わっている。
だからこそ、こうして門前払いにもできず、話を聞く姿勢だけは見せているのだ。
公爵の顔には、苛立ちと同時に、かすかな警戒の色が浮かんでいる。
ここでの交渉が、俺の、いや、この国の運命を左右する。
俺は緊張で強張る体を必死で隠し、練習してきたクールな表情を貼り付けた。額に微かに汗が滲むが、それは悟らせない。
「本日は、俺とセシリア嬢との婚約について、改めて公爵閣下のご意思を確認したく参上いたしました」
「ふん。確認するまでもないだろう。魔力を持たぬ者に、我がヴァーミリオンの娘を嫁がせるわけにはいかん。我が家の、いや、王国の恥となる」
案の定、公爵はあらゆる理屈をつけて婚約を破棄させようと迫ってくる。
その言葉の圧に、俺の心臓は早鐘を打っていた。だが、顔だけは余裕の笑みを崩さない。そして、機は熟したと判断し、懐から切り札を取り出した。
「お言葉ですが、閣下。まずはこちらをご覧いただきたい」
俺が取り出したのは、ビー玉ほどの大きさの水晶球。
とある映像を保存した魔法記録媒体だ。
手のひらに収まるそれは、ひんやりと冷たい。
俺はそれに意識を集中させ、魔力を流し込む。すると水晶球は淡い光を放ち、プロジェクターのように前方の壁に映像を投影し始めた。
そこに映し出されたのは、夜の寝室。そして、見知らぬ女と睦み合う、ヴァーミリオン公爵その人の姿だった。
「――ッ!」
公爵は一瞬、息を呑んだ。
まるで喉を鷲掴みにされたかのように、その表情が凍りつく。
しかし、さすがは百戦錬磨の権力者だ。すぐに冷静さを取り戻し、俺を射殺さんばかりの眼光で睨みつけた。視線が、まるで氷の刃となって俺に突き刺さるようだ。
「貴様……この映像を、どうやって手に入れた?」
その殺気に満ちた視線に、俺は内心で悲鳴を上げる。
(ちょっ……もうっ! その厳つい顔で睨むのやめてよ。怖いんだって……けど、ここでビビったら負けだ。――平常心、平常心)
俺は公爵の迫力に臆しながらも平静を装い、余裕の笑みを浮かべて話を続ける。
「簡単なことですよ。俺の持つ『力』を使えば、ね」
ヴァーミリオン公爵ともなれば、その身辺警護は鉄壁だ。
屋敷全体が、現代魔法の粋を集めた最新式の対侵入・対探知結界で守られている。いかなる遠見の魔法も、隠された魔道具も、この結界の前では無力化されるはずだった。
だが、現に俺はその不可能を可能にし、この映像を手にしている。
公爵の目が、本物の殺意に染まっていくのが分かった。部屋の温度が、一気に数度下がったように感じる。
「……種明かしをしましょう」
俺は努めて平然とした顔で、パチン、と指を鳴らした。
乾いた音が、静寂に包まれた応接室に響く。
その瞬間、俺の背後の空間が音もなく歪み、一人の男が何もない場所からぬるりと姿を現す。まるで壁から染み出たかのように。
「なっ、馬鹿な! いかにしてこの部屋に……!? 姿を消して? いや、我が屋敷の結界は、いかなる侵入者も見逃すはずはない! 侵入の痕跡すらないだと!?」
驚愕に目を見開く公爵に、アシュラフは恭しく一礼した。
その仕草には一切の無駄がない。
「この男は転移の魔人アシュラフ。俺の使い魔です」
そして俺は、公爵を納得させるための、もっともらしい嘘を口にした。
「俺が魔力ゼロなのは、この古代の魔人を縛り付け、支配するためだけに、自身の魔力のすべてを費やしているからです。手の内をすべてお見せする気はありませんが、これでご納得いただけたのでは?」
「転移の魔人……だと……」
俺の言葉に、公爵はアシュラフの存在と、目の前の映像を交互に見比べ、その意味を正確に理解したようだった。その顔に、絶望にも似た色の翳りが差す。
警報も鳴らさず――
最新の魔法結界をまるで紙切れのように無視して侵入できる能力。
それはつまり、敵対する者の寝室に忍び込み、その首を掻き切ることも、国家の最高機密を盗み出すことも、すべてが意のままであるという証明に他ならない。
それは、見えない鎖で公爵の首を絞めるようなものだった。
しばらくの沈黙の後、ヴァーミリオン公爵は深く、重いため息をついた。
その息には、敗北の苦汁が混ざっている。
「……よかろう。ゼノス・グリムロック。貴殿と我が娘、セシリアとの婚約は、今後も継続するものとする」
こうして俺は、最初の交渉で、望みうる限りの勝利を手にしたのだった。
窓の外からは、穏やかな日差しが降り注いでいた。




