第57話 婚約者の異変と王子からの忠告
年に一度の血の祭典、【アビス・コロシアム】。
非合法の闘技場『奈落の底』で開催されるその大会に向け、俺は着々と戦力を整えていた。
俺のチーム『ロイヤル・ファントム』の目標は、もちろん優勝。
闘技場の熱気が脳裏にちらつく。
メンバーは3人。
1人目は、リングの上では無類の強さを誇る、美しき剣闘姫『王女エレノア』。
2人目は、俺の魔力供給で子猫から巨大な猛獣へと変貌を遂げる『魔獣クーコ』。
そして残る1人は……まあ、俺が【変身の指輪】で適当に変装して出ればいい。
これで優勝は確実だ。
しかし、問題もあった。
クーコの戦闘経験が少ないことだ。もっと実戦を積ませる必要がある。
俺は、屋敷の広大な中庭で魔物を召喚し、巨大化したクーコと戦わせる訓練を日々行っていた。
夕焼けに染まる空の下、土煙が舞い上がり、獣の唸り声が響く。
***
そんな、大会に向けての準備に追われていた、ある日のことだ。
いつものように学校に登校すると、廊下でセシリアと鉢合わせた。
彼女の白いブラウスの胸元がわずかに上下している。
どこか落ち着かない様子で、瞳には微かな焦りが浮かんでいた。俺がどうしたのだろうと疑問に思っていると、彼女の方からおずおずと声をかけてきた。
「あ、あの、ゼノス様……。よろしければ、一緒に教室まで、行っていただけませんか?」
その申し出を、俺が断る理由など、どこにもない。
彼女の不安げな表情に、俺は静かに頷いた。
俺はセシリアと並んで、ゆっくりと教室へと向かう。
廊下の窓から差し込む朝の光が、彼女の柔らかな赤い髪を照らしていた。
「そういえば、セシリア。また、うちのクーコを見に来てもいいんだぞ?」
「まあ、本当ですの? また、あのかわいい子に会えるのですね!」
クーコの名前を出すと、セシリアの声が一瞬にして明るくなった。
その表情の変化に、俺は微かな安堵を覚える。
「もちろんだ。クーコも、世話をしているメイドのミナも、セシリアのことが大好きだからな。きっと、大喜びする」
結局、教室についてから、リゼルのことも誘い、放課後、彼女たちをうちに招待することになった。
***
放課後、俺はセシリアとリゼルを、グリムロック家の馬車に乗せて帰宅した。
馬車の革張りの座席が揺れるたび、楽しげな彼女たちの声が車内に響く。彼女たちが遊びに来てくれたので、今日のクーコの訓練は中止だ。
たまには息抜きもいいだろう。
広々としたリビングで、美少女二人が子猫姿のクーコと、楽しそうに戯れている。黒猫のふわふわとした毛並みを撫でるセシリアの指先は優しく、リゼルは笑い声を上げながら小さな肉球を触っていた。
その平和な光景を見ながら、俺はあることを思いついた。
今日は、俺の経営する劇場型レストラン【砂漠の星】で、皆で夕食を取ろう。
もちろん、予約はしていないが、地下にある貴賓室は空いている。
そこを使えばいい。
二人にそのことを確認すると、彼女たちも乗り気で了承してくれた。
俺は支配人に連絡を入れてから、二人を連れてレストランへと向かった。
劇場の正面には、金色のエンブレムが陽光を受けて煌めいている。
ショーの休演期間中なので、レストランで提供しているのは食事のみ。だというのに、客はそこそこ入っていた。
賑やかな話し声とカトラリーの音が、心地よく響く。
この調子であれば軍資金の回収も、全く問題ないだろう。
俺は、セシリアとリゼルと、地下の貴賓室で、ゆっくりと夕食を取る。
柔らかな間接照明が、磨かれたテーブルに置かれた銀食器をきらめかせた。
そして、食事が終わった後、俺はある提案をした。
「二人とも、よければ、あの踊り子の衣装を、もう一度着てみないか?」
俺の狙いは、これだ。
あの彼女たちのセクシーな姿を、もう一度、この目にしたかったのだ。
その艶かしい衣装が、俺の脳裏に焼き付いている。
「……かまいませんけれど」
「ま、まあ、あんたが、どうしてもっていうなら、別にいいけど……」
二人も、まんざらではないらしい。
僅かに頬を染めながらも、その視線には期待の色が宿っている。
俺は、再びあの情熱的な衣装をまとった、二人の女神の美しさを、心ゆくまで堪能した。淡いレースが肌に吸い付き、きらびやかな装飾が照明の下で妖しく輝く。
その完璧な曲線美は、見る者の息を奪うほどだった。
***
その、至福の時間の、途中だった。
ノックの音が、甘美な空気を打ち破る。
劇場の支配人が報告に訪れた。
「ゼノス様。お客様が、オーナーにぜひお会いしたいと、仰せなのですが……」
――誰だろう?
わざわざ、支配人が俺に直接取り次いでくるということは、それなりに名の知れた大物のはずだ。
微かな緊張感が、室内に漂う。
「どちら様かな?」
「……アースガルド王国、第一王子、リアム様でございます。いかがいたしますか?」
「一人か?」
「はい。お一人でいらっしゃっております」
あの取り巻きたちを、連れてきていないのか。
意外な来客だ。
居留守を使ってもいいが、せっかくここまで足を運んでくれたんだ。
会ってみるか。
それに、リアムの名を聞いた時、隣にいたセシリアの肩が、ほんのわずかにびくっと震えたのが、どうにも気になった。
彼女の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。
「二人とも、これを付けて、俺の後ろで静かにしていてくれ」
俺は、セシリアとリゼルに、【変身の指輪】を手渡して、装備させた。
指輪が肌に触れると同時に、二人の姿が淡い光の中に溶けていく。
これで、二人がここにいることは、リアム王子にはバレない。
「さて。一体、どのようなご用事かな?」
心当たりは、山ほどある。
彼の姉であるエレノア王女を、俺が時折、連れまわしていることか。
彼の側近であるアルドリックと、先日派手な決闘を繰り広げたことか。
それとも、彼の婚約者である、エリザベート姫との『和平についての話し合い』のことか……。
エレノアとエリザベートの件は、感づかれてしまうと相当厄介なことになる。
やがて、重厚な貴賓室の扉が静かに開き、リアム王子が、その爽やかな笑顔と共に、部屋へと入ってきた。
彼は上質な仕立ての服に身を包み、その金色の髪は光を反射して輝いている。
俺は立ち上がり、国の王子に対して、最大限の敬意を払って、彼を歓待した。
席を勧め、彼が革張りの椅子に深く身を沈めてから、俺も再び着席する。
「やあ。噂には聞いていたが、素晴らしい食事だったよ」
「お口にあったようで、何よりです。歌姫と踊り子のショーも、また素晴らしいものですので、ぜひとも公演期間中に、またおいでください」
「君が、八十万金貨という、馬鹿げた金額で買ったという、噂の姉妹か。……ふむ。考えておこう」
当たり障りのない会話。
だが、その水面下では、互いの腹を探り合う、静かな戦いが始まっていた。
彼の涼しげな瞳の奥に、鋭い光が宿るのを感じる。
「それで、本日は、どのような御用でいらっしゃいましたか?」
早速本題を切り出すと、彼の答えは――
俺の予想を、完全に裏切るものだった。
「いや、なに。大したことではないんだ。ただ、君に一つ、忠告しておきたくてね」
リアム王子は、その完璧な笑顔を崩さぬまま、言った。
その声は穏やかだが、どこか冷たい響きがあった。
「――セシリア嬢のことだ。あまり、一人の女性を縛り付けるものではないよ、グリムロック君」
王子の用件は、エレノアでも、エリザベートでも、決闘のことでもない。
ただ一つ。
俺の、愛する婚約者のことだった。
彼の言葉は、貴賓室の空気を一瞬で凍り付かせた。




