第55話 奈落の狂乱と血の祭典への招待
王都の地下深く、治外法権の暗黒郷、【奈落の底】。
石造りの壁には血痕が染みつき、鉄と獣の匂いがこびりつく。
今夜もまた、血と金に飢えた観客たちの、狂乱の歓声が渦巻いていた。その声は地底の闇に響き渡り、際限なく熱気を帯びていく。
リングの上では、恒例のカードが組まれていた。
一体のオーガが率いる、20匹のゴブリンの群れ。彼らは粗末な皮鎧をまとい、錆びた武器を構える。
対するは、たった一人の美しき剣闘士。
リングネームは、『王女エレノア』。
その名は、人々を熱狂させるに十分だった。
彼女の金色の髪はリングの照明を反射し、その細身の体には、豪奢なドレスをまとっている。
エレノアは、その名に恥じぬ気高く流麗な剣技で、襲い来るゴブリンの群れを次々と屠っていく。刃が空を切り、甲高い悲鳴が上がるたび、観客の興奮は増していった。その姿は、まるで戦場を舞う女神のようだった。
剣閃が走るたびにゴブリンの黒い血が飛び散り、リングを汚していく。
しかし多勢に無勢。
彼女が15匹目のゴブリンを切り伏せた、その瞬間。それまで流れるようだった体の動きが、不自然に一瞬だけ止まる。顔を微かに赤らめ、びくっ、と全身を震わせた。
まるで何かに耐えているかのように。
その致命的な一瞬の隙を、残った魔物たちが見逃すはずがなかった。
数匹のゴブリンが、唸り声を上げながら彼女の華奢な身体に一斉にまとわりつき、その動きを完全に封じ込める。
勝利を確信したオーガは、とどめを刺す前に、まずは獲物を存分にいたぶることにしたらしい。身動きの取れないエレノアに、その巨大な拳による打撃を、容赦なく加えていく。
鈍い打撃音がリングに響き渡る。
死なないように絶妙に手加減された攻撃だったが、そのダメージは、確実に彼女の体力を奪っていく。エレノアの白い肌には、赤黒い痣が浮き上がり始めていた。
このままでは、彼女は嬲り殺しにされてしまう。
観客が固唾をのんで見守る中、誰もが彼女の敗北を確信した、その時――
劇的な逆転が始まった。
身体にまとわりついていたゴブリンたちの、ほんの一瞬の油断を突き、エレノアは凄まじい気合と共に、その拘束を強引に振りほどいた。
弾かれたゴブリンたちがリングに転がる。そして自由の身となったエレノアは、その手に聖なる光を宿し、自らの傷を癒していく。白い光が彼女の体から立ち上り、観客席からも驚きの声が漏れる。
観客の絶叫にも似た歓声の中、怒り狂ったオーガの追撃を紙一重で避けながら、残ったゴブリン5匹を、再び華麗な剣技で瞬く間に仕留めてみせた。
剣が肉を断つ音が小気味よく響く。
ついに、部下をすべて失ったオーガと、彼女の一対一の戦いが始まった。
エレノアは、オーガの繰り出す大振りな攻撃を紙一重でよけながら、その巨体に、的確に、そして無慈悲に、無数の傷を負わせていく。赤い血がオーガの黒ずんだ肌を伝い、リングに滴り落ちる。
時間が経つごとに、オーガの動きは鈍り、その荒い呼吸が闘技場に響き渡る。
このまま、彼女が勝つだろう。
誰もが、そう思った、その時だった。
再び、信じられない逆転劇が、その舞台の上で始まった。
勝利を確信したエレノアに、ほんのわずかな油断が生まれたのだろうか。
彼女は、再び、びくっとその体を大きく震わせたかと思うと、突然、膝から崩れ落ちてしまった。これまでの戦いで蓄積した、疲労の限界が来たのかもしれない。
彼女の顔には、明確な疲労の色が浮かんでいた。
その千載一遇の好機を、傷を負ったオーガが見逃すはずがない。
最後の力を振り絞って彼女に体当たりし、その華奢な体に覆いかぶさる。
そして、馬乗りになると、抵抗する力も残っていない彼女の身体に、その巨大な拳を、何度も、何度も、振り下ろし始めた。
肉を叩く鈍い音が、乾いた音で響く。
カンカンカンッ!
そこで、試合の終了を告げるゴングが、けたたましく鳴り響いた。
その音は、まるで全てを終わらせるかのように響き渡る。
試合は、オーガの勝利。
エレノアの、無惨な敗北だった。
試合の中断と同時に、リングの脇から現れた処刑人が、無表情にオーガの首を問答無用で刎ね飛ばし、その巨体が鈍い音を立てて倒れる。
エレノアは、すぐに救護班によって救出された。
観客席からは、大金をすった者たちの罵詈雑言と、劇的な勝利に沸く者たちの歓声が、渾然一体となって、リングの上に降り注いでいた。その喧騒の中、エレノアは、担架に乗せられ、静かに闘技場の闇へと消えていった。
意識があるのか、ないのか、その表情は読み取れない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
試合終了後。
控室にて――
「よお、お疲れさん。今日の試合も、大盛り上がりだったぞ」
チーム『ロイヤル・ファントム』の控室。
簡素な石造りの部屋には、薄暗いランプの光が揺れている。
光魔法で自身の怪我をあらかた治し終えたエレノアに、俺は労いの言葉をかけた。彼女の肌に残る微かな赤みが、激しい戦いを物語っていた。
「きさま……! よくも、ぬけぬけと姿を現したな! 今日の試合では、二度も、二度も私の邪魔をしておいて! そのせいで、私は負けてしまったではないかッ!!」
エレノアは、頬を膨らませ、おかんむりだ。
試合に負けたことが、よほど不満らしい。
その声には、確かに怒りが含まれていた。
俺は、そんな彼女の背後に回り、その体を優しく抱きしめた。
「なっ!? き、きさま、何を……」
エレノアの体が、驚きに強張るのがわかる。
「文句を言いつつも、本当は、興奮したんじゃないのか? 大勢の観客が見ている前で、無様に『負けた』ことに――」
俺のその指摘に、エレノアは、狼狽したように体を強張らせた。
「ばっ、馬鹿を言えッ!! そ、そんなわけが、ないだろうがッ!!」
その、あまりにも分かりやすい慌てようが、何よりも雄弁に、真実を物語っていた。俺の腕の中のエレノアの心臓が、微かに高鳴っているのが伝わる。そんなエレノアが、なんだか無性に可愛くて、俺は彼女の頭を、優しく撫でてやった。
サラサラとした黄金の髪が指先を滑る。
その時だった。
控室のドアが、コンコン、と控えめにノックされる。
硬質な音が静かな部屋に響く。
「なんだ? 入れ」
俺は、一応、臨戦態勢を整えながら、入室を許可した。
ドアを開けて入ってきたのは、この闘技場【奈落の底】のトップ、ゾルタン・レックスだった。
年齢は40代半ばといったところか。
全身が、まるで年輪のように無数の傷で覆われており、特にその顔には、大きな三本の爪痕のような傷が、縦に走っている。彼の眼光は鋭く、その鋼のように鍛え上げられた筋肉質の体躯は、ただそこにいるだけで、尋常ではない威圧感を放っていた。
彼が纏う空気は、このアビスの頂点に立つ者のそれだった。
そいつが、数人の護衛を伴って、部屋へと入ってきた。
護衛たちは皆、屈強な体つきで、警戒の眼差しを向けている。
「お楽しみのところでしたかな?」
ゾルタン・レックスの声は低く、響きがある。
「いや、それは、屋敷に帰ってからだ。で、用件は?」
俺は手短に尋ねる。
後ろで、エレノアが「誰がお前と楽しむものか!」などと騒いでいるが、気にする素振りは見せない。
「はい。実は、グリムロック様。いえ、チーム『ロイヤル・ファントム』の皆様に、近々開催を予定しております、【アビス・コロシアム】への、出場をぜひともお願いしたく、参上いたしました」
ゾルタン・レックスは、この闘技場の名を冠する「鉄と血の祭典」【アビス・コロシアム】について語った。
年に一度、この場所で最も大きな興行だという。
その催しへの、参加依頼だった。
「まあ、いいだろう。面白い――参加してやるよ」
俺は二つ返事で、その申し出を了承した。
ゾルタン・レックスの顔に、わずかな安堵の色が浮かんだように見えた。
新たなショーの、幕開けだ。
俺の口元は、知らず知らずのうちに弧を描いていた。




