第51話 獣の性、人の理
俺は、オオカミの獣人ガゼルの首を一太刀で切り捨てた。
鈍い斬撃音と同時に、生温かい血飛沫が頬にかかる。
視界の端で、鮮やかな赤が宙を舞い、乾いた地面に染みを作った。
その直後――
エルフのカイルが信じられないものを見る目で俺を睨みつけ、抗議の声を上げた。
「おい、貴様! 捕虜を処刑するなど……!」
カイルの声は、どこか震えていた。
怒りか、それとも恐怖か。
俺は、返り血でわずかに濡れた剣を構えたまま、平然と返す。
「仕方ないだろう。あいつは、手当たり次第に人を殺すと言っていたんだからな」
俺には相手を強制的に従わせるだけの膨大な魔力がある。
やろうと思えば魔力奴隷にできたかもしれない。
だが、そうはしなかった。
あの場合、選択肢は二つだ。
奴隷にするか、殺すか。
そして俺は、迷うことなく後者を選んだ。
それだけの話だ。
感傷など、一切なかった。
血の付いた剣を軽く振って血糊を飛ばす。
数滴の血が乾いた床に飛び散り、その痕跡を生々しく残す。
俺は、まだ縄で縛られたままの、もう一人の獣人へと視線を向けた。
その獣人は、恐怖に目を細め、身を縮めている。
その怯えた瞳は、まるで死刑囚のそれだった。
「で、お前はどうする?」
熊の獣人、ベアード。
人間形態の彼は、その名の通り熊のようにガタイのデカい大男だった。
しかし、その巨体とは裏腹に、今は小動物のように怯えた様子を見せている。
「ああ、分かった、分かったよ。あんたの言うことを聞いてやる。だから、まずは俺を奴隷から解放してくれ。それと、この鬱陶しい拘束も、とっとと解いてくれよ」
ベアードはガゼルとは違い、やけに聞き分けのいいことを言ってきた。
その声には、必死さが滲む。
だが、どこか不自然な感じもする。
俺は警戒を解かなかった。
「よし。じゃあ、まずは奴隷から解放してやろう」
俺は彼の胸元にある奴隷紋を指先でなぞった。皮膚に刻まれた呪わしいしるしが、淡い光を放ち、やがて跡形もなく消え失せる。
その瞬間、ベアードの態度が豹変した。
怯えは消え失せ、代わりに下卑た笑みが浮かぶ。
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。
「ふはははは! 馬鹿めっ! 自由の身になりさえすれば、こっちのものだ!」
ベアードは、その場で獣化を開始する。
筋肉が膨れ上がり、皮膚を突き破るように黒い毛が全身を覆っていく。
ゴキリ、ゴキリと骨の軋む、不快な音が響き渡り、獣の姿が形成されていく。
その眼には、獰猛な光が宿っていた。
殺意が、明確にこちらへ向けられているのがわかる。
このままでは、視界を覆うほどの巨体が誕生してしまう。
「ひゃっはー! 久々に、人の肉が食えるぜぇぇッ!!」
その下品な叫び声が完全に響き渡る前に、俺の剣が変身途中のベアードの首を正確に切り裂いた。
肉を断つ嫌な感触が手に伝わる。
獣の貪欲な叫びは、喉の奥で潰された。
「……そうか、なら――お前を解放するわけには、いかないな」
獣人族との交渉のカードにしようかと思っていたが、仕方ない。
実に残念だったな。
俺は、微かに肩をすくめた。
これで、獣人族との最初の接触は、二つの死体で終わった。
俺が心の中でそう思っていると、またしても背後からカイルが甲高い声で文句を言ってきた。その声には、怒りと不信が入り混じっている。
「おい、貴様! 何も、殺すことはないだろう! あいつは一度お前に戦いで敗れているのだ。再び攻撃してくることはなかったはずだ! 逃がしてやればよかったではないか!」
カイルの剣幕に、周囲の空気が重くなる。
だが、俺の心は平静だった。
「いや……。あいつ、『人の肉が食えるぜぇ』とか、はっきり言ってたじゃん。どう考えても、逃がすわけにはいかないだろ?」
「いいだろう、別に! 人が一人や二人、食い殺されたって! 今まで奴隷にされていたんだ、そのくらいのことは我慢しろ! そもそも、獣人を奴隷にする、お前たち人間が悪いんだ!」
そういうわけにもいかないから殺したのだが。
他種族との融和というのは、ただ口で「仲良くしましょう」と言えば簡単に成立するようなものではないらしい。
目の前のカイルの顔は、怒りで紅潮していた。彼の目には、俺という人間が悪の権化のように映っているのだろう。
「お前は、何かとすぐに俺に突っかかってくるよな。こっちは、仲良くしようと歩み寄っているというのに……」
「ふざけるな!! 貴様のような、残忍で狡猾で下劣で好色で見境のない人間と、仲良くなどできるか! 死ねッ!!」
この調子である。
どこまで行っても平行線だ。
まるで、埋まらない溝が、俺とカイルの間にあるようだった。
やれやれ。
先が思いやられるな、と俺が心の中でぼやいていると、思わぬ方向から援護射撃が飛んできた。
「おい、そこの尖り耳。そいつの言う通りだぜ」
声の主は、鷹の獣人ホークスだった。
彼の鋭い眼光が、カイルを射抜く。
「さっきの奴はな、エルフも食うぞ。それだけじゃねえ。同族である獣人も平気で食う――そういう奴は、ごくまれにいるんだ」
ホークスは呆れたようにカイルを一瞥すると、話を続けた。
その口調には、諦めとわずかな軽蔑が混じっていた。
「誤解のないように言っておきたいんだが、俺たちみたいな肉食獣タイプの獣人でも、普通は人を食わねえ。好んで食うような奴は、滅多にいねえよ。もし、いれば、そいつは俺たち獣人族からも、真っ先に討伐対象になる。だってそうだろ? 人を食う奴は、平気で獣人も食うんだ。そんな奴と、共生などできるわけがねえ」
まあ、そうだよな。
理屈は通っている。
ごく当然の摂理だ。
「あのベアードって野郎は、もともと人里を襲って回ってた、札付きの悪党だったんだよ。それで、騎士団に討伐されて、奴隷に堕ちた。『獣人狩り』で、不当に捕まって奴隷になった、他の獣人とは、わけが違うんだ」
***
「ふーん、そうか。事情は分かった。それで、ホークス、お前はどうする? このまま、俺の劇場で働くか? 何だったら、お前の故郷である獣人の森に帰してやってもいいぞ」
「……働いてもいいが、奴隷はもう勘弁だぜ」
ホークスは、わずかに警戒の色を浮かべながらも、その言葉に興味を示した。
彼の視線が、俺の顔に釘付けになる。
「それなら心配ない。姿を誤魔化すための便利な魔道具がある。そっちにいるエルフも、仕事中はそれを付けているんだ」
「……それなら、まあ、いいか」
ホークスは、しばらく思案するように沈黙した後、小さく頷いた。
彼の表情に、かすかな安堵が浮かんだように見えた。
彼もまた、新たな居場所を求めているのだろう。
こうして、ホークスはこの劇場で働くことになった。
新たな仲間が増えることに、わずかな高揚感を覚える。
上手くいかないこともあれば、思惑通りに進むこともある。
そんな展開に、ため息と笑みが漏れた。
***
俺は、ベアードとガゼルの死体にちらりと目を移す。
地面には、まだ生々しい血痕が残っていた。
死臭がかすかに鼻を掠める。
「さてと。こいつらの後始末をするか。アシュラフ、この死体を、イグナツィオと、【深淵の爪】の首領の部屋に、それぞれ一体ずつ、置いてこい。もちろん、気づかれないようにな」
影の中から、アシュラフの声だけが聞こえた。
『かしこまりました』
その声は、相変わらず感情の起伏を感じさせない。
まるで、俺の影そのものだ。
あいつなら、どんな厳重な警報装置や罠があろうと、やすやすとかいくぐって侵入することができるだろう。
明日の朝、目を覚ましたら、自分の寝室に送り込んだ暗殺者の死体が転がっている。彼らがどんな顔をするか、見ものだな。
きっと、顔を青ざめさせ、凍り付いたような表情を浮かべるだろう。
これであらかた、事後処理は片付いた。
あとは――。
「で、お前はどうする?」
俺は黒猫の獣人、クーコに向かって問いかけた。
彼女は、地面に視線を落としたままだ。
彼女は俺の問いに、びくりと体を震わせる。
どうやらまだ少し怯えているようだ。
その顔はほんのりと赤い。
まるで熟れた果実のようだ。
まあ、目の前で獣人を二人もあっさりと殺してしまったのだ。
俺に対する印象は、最悪になったかもしれない。
それでも、彼女の目は、俺から離れようとしない。
彼女はもじもじと、小さな声でこう言った。
その声は、か細く、ほとんど聞き取れないほどだった。
「わ、私は……。あなたの、その……こ、子供を、産みたい、です」
「……は?」
何故か、いきなり告白された。
俺の思考は完全に停止する。
理解が、追いつかない。
「いや、すまん。話の脈絡が、まったく見えないのだが?」
俺が本気で困惑していると、隣で聞いていたホークスが、やれやれと肩をすくめた。彼の顔には、呆れと納得が入り混じったような表情が浮かんでいた。
「ああ、そりゃあ、あんた。獣人は、とにかく強いオスが好きだからな。あんたが、あのガゼルとベアードを、赤子の手をひねるように殺したから、惚れられたんだろうよ」
……そんな馬鹿な。
そう思ったが、獣人である彼が言うのだからそうなのだろう。
俺には到底理解しがたい価値観だ。
常識が揺らぐ。
俺の常識と、彼らの常識は、あまりにかけ離れている。
よく見ると、クーコの腹の下の方に、見慣れた紋様がうっすらと光を放って浮かび上がっていた。
それは俺の専用奴隷の証。
淡い光は、彼女の心の状態をそのまま映し出しているようだった。
どうやら彼女は、俺の強さに身も心も完全に屈服したらしい。
こうして、俺の意図とは少し違う形で、黒猫の獣人クーコが、俺の新たな専用奴隷……いや、仲間に加わったのだった。
彼女の未来が、俺の掌の上で、静かに動き出した。
奇妙な縁だと、俺は思う。




