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第48話 白蛇の牙と魔人の影

「あの……ゼノス様。そろそろ、放していただけませんか」


 ここは劇場の地下、薄暗い通路の奥にあるプライベートルーム。

 踊り子と歌姫の姉妹、ファーマとリーラに与えられた、普段は決して人目に触れることのない隠れ家のような場所だ。


 先ほどまでいた貴賓室からこの部屋まで、俺は二人の華奢な腰に手を回したまま移動し、部屋に入ってからもなお、強く抱きしめていた。


 柔らかな曲線が腕の中に納まる感触に、得も言われぬ安堵が広がる。

 両手に花、まさに役得ってやつだ。


「お前たちが心細いかと思ってな」


 俺は二人を抱きしめたまま、ふかふかのベッドに腰を下ろす。


 絹のようなシーツが肌に触れ、沈み込むような感触が心地よい。今度は、二人の華奢な肩に手をかけ、改めてぐっと抱き寄せた。彼女たちの小さな震えが、わずかに俺の腕に伝わってくる。


 まるで、傷ついた小動物を抱きしめているかのようだった。


「こ、こんな事をしている場合ではありませんわ! 早く、ここから逃げましょう! あの男は、危険です!」


 姉のファーマが、焦燥に満ちた、悲鳴にも似た声で訴えかけてくる。


 その表情は、劇場の舞台照明では決して見せないような、血の気の失せた青ざめた不安に染まっていた。俺はグリムロック辺境伯家の跡取りとはいえ、この王都で自由に動かせる戦力は少ない(と、表向きには思われている)。


 彼女の心配ももっともだ。


「それよりも、姉さま……。私が、あの男に買われた方が……」


 妹のリーラが、か細く、今にも消え入りそうな、擦れるような声で呟いた。


 その瞳には、すでに諦めと、底知れない恐怖が入り混じっていた。

 敵の要求を呑んで降参した方が、被害は少ないのではないか、という考えだ。


 イグナツィオという男がリーラをどう扱うかは分からないが、40万金貨という大金を出してまで欲しがっているのだ。それ相応に手厚くもてなす可能性もゼロではない。


 そう考えると、リーラの言うように、降伏も悪い選択肢ではないのかもしれない。だが、残念ながら、俺には逃げる気も降参する気も毛頭なかった。



 ***


「アシュラフ。出てこい」


 俺の呼びかけに応じ、何もない空間から瞬時に執事が一人、姿を現した。


 まるで闇が裂け、そこから染み出すように、音もなく漆黒の影が形を結ぶ。

 いつもは俺の背後の影からぬるりと現れるのだが、今日は律儀に俺の正面に転移してきた。


 いくらこいつでも、ベッドに腰かけている主人の背後に出現するような無粋な真似はしないらしい。


 アシュラフの突然の登場に、ファーマとリーラの身体がビクリと大きく、人形のように硬直する。二人の顔は見る見るうちに蒼白になっていった。


 無理もない。


 この魔人が無意識に放つプレッシャーは、常人には耐えがたいほど不気味で、まるで深淵を覗き込んだかのようなおぞましさを伴う。


 部屋の空気が、一瞬にして冷え込んだように感じられた。


「お呼びでしょうか、ゼノス様」


「ああ。お前はこれから、気配を完全に消してイグナツィオ・ヴァラキアに張り付け。奴はどうやらこっちを攻撃してくるみたいだからな。向こうの手札を、逐一俺に報告しろ」


「かしこまりました。……ところでゼノス様。私であれば、あの者を始末することも可能でございますが?」


 アシュラフが口元を緩め、歯を見せて楽しそうににこりと微笑んだ。

 その瞳の奥には、獲物を前にした獣のような冷たい光が宿っている。


 確かに――

 こいつであれば、造作もなくそれも可能だろう。


「やめておけ。あいつは王都の裏社会における大物の一人だ。奴がいなくなれば、その後のパワーバランスがどう動くか全く読めなくなる。それに、あいつと親交のある者たちがこぞってこちらを敵視するかもしれん。やりすぎは禁物だ」


「流石はゼノス様。常に大局を見据え、そこまでお考えとは。このアシュラフ、感服いたしました」


 いつもの大げさなお世辞を言ってから、アシュラフは再び音もなく空間に溶けるようにして姿を消した。まるで揺らめく水面に波紋を残すかのように、彼の姿は瞬く間に視界から消えた。


「……今の奴のことは、他言無用だ」


 まだ少し怯えているファーマとリーラに、俺はそう念を押しておく。


 二人は揃って首を縦に振った。

 その顔には、まだ拭いきれない恐怖の影が色濃く残っていた。



 ***


 それからおよそ2時間後。


 アシュラフから、念話による最初の連絡が入った。

 俺はその間ずっと、ファーマとリーラに与えているこの部屋にいた。


 つまり、彼女たちとずっと一緒にいたのだ。


 待っている間は正直言って暇だったので、彼女たちと色々と「遊んで」いた。

 もちろん、健全な遊びだ。


 『ゼノス様、ご報告いたします』


 アシュラフの、まるで感情を削ぎ落とした、機械のような声が、頭の中に直接響く。


 『イグナツィオ・ヴァラキアは、どうやら暗殺組織【深淵のしんえんのつめ】に、ゼノス様の殺害、および、リーラ様の身柄確保を依頼した模様です』


 暗殺組織はこの国にも複数存在する。

 中でも一番評価の高い組織は【囁きのウィスパー・シャドウ】だが、そこは我がグリムロック家と古くから付き合いの深い暗殺組織だ。


 イグナツィオもそのことを知っていて、あえてそこは使わなかったのだろう。


 暗殺組織【深淵の爪】は、獣人族の奴隷を買い集め、暗殺者として仕立て上げて使役していることで知られている。


 なるほど。身体能力の高い獣人を使うか。

 厄介だな。


 奴らの気配を完全に消す技術は、並の暗殺者とは一線を画す。

 一歩間違えれば、こちらの命取りにもなりかねない。


 イグナツィオと【深淵の爪】の幹部との交渉現場はアシュラフに見張らせてあるので、情報に間違いはないだろう。


 『ゼノス様の暗殺と、リーラ様誘拐の依頼料は、合わせて2万金貨。前金で1万金貨、成功報酬でさらに1万、という契約だったようです』


 2万金貨。

 ちょうどこの劇場の購入代金と同じくらいの額か。


 随分と気前がいいことだ。


 まあ、グリムロックの跡取りを殺すのだから、そのくらいはするか。

 俺の首には、それだけの価値があるというわけだ。


 『契約締結後、【深淵の爪】はすぐに行動を開始いたしました。今回の任務に派遣される獣人奴隷は4人。フォーマンセルの暗殺チームです。リーダーはオオカミの獣人。それ以外は、熊、鷹、猫の獣人が動き出しました』


 もう動き出したのか。

 どいつもこいつも仕事が早いな。


「よし。イグナツィオの動向はもういい。アシュラフ、お前はこれより、その暗殺チームをマークしろ。そして、そいつらの行動を逐一俺に知らせるんだ」


『了解いたしました』


 それにしても、イグナツィオの奴は随分と短絡的な手に出てくるものだ。


 俺との交渉が決裂するや否や、すぐに暗殺とは。


 よほど早くリーラのことを手に入れたいのか。

 それとも、単に俺のことを見下しているのか。


 名門貴族の跡取りでありながら、その身に宿す魔力はゼロ。


 『敗北のゼロ』。

 それが、今の俺の貴族社会と裏社会での評価だ。


 だからこそ、舐めてかかってくるのだろう。


 だが、それはこちらとしては好都合でしかなかった。敵が油断してくれればくれるほど、こちらは相手の動きを読みやすくなるのだから。


 暗い舞台裏で、静かに幕が上がろうとしている。


 暗殺者が迫り、最初の演目が始まる。

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