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第47話 白蛇の脅迫と決裂のキス

 イグナツィオ・ヴァラキアが提示した40万金貨という破格の提示額に、俺は心を動かすことなく静かに問い返した。


「断ると言ったら?」


 俺の言葉に、イグナツィオは蛇のように冷たい目を細め、にこりと微笑んだ。

 その薄い唇が弧を描くほどに、底知れぬ冷たさを秘めていた。


 俺の目の前にいるのは、獲物を前にした爬虫類そのものだった。


「それは困りましたな。私はどうしても彼女を手に入れたいのです。その場合、まずは本物のリーラの居場所を探すところから始めなければなりませんな」


 ほう。


 この商人め、この俺――

 グリムロック辺境伯家の跡取りに対し、堂々と脅しをかけてきやがった。


 本物を探し出して、力ずくでさらう気か。

 俺の魔力がゼロだからと侮っているのだろう。


 それもあるだろうが、それ以上に、こいつはリーラという少女を是が非でも手に入れたいのだ。


 それだけの、40万金貨以上の価値があの子にはある、ということか。


「ですが、グリムロック様。私はあくまで穏便にこの目的を果たしたい。今日の舞台を拝見しましたが、あの偽物の歌姫でも客は十分に満足しているではありませんか。こちらは40万金貨出すと言っているのです。あなた様にとっても悪い話ではないはず。本物のリーラは手放されても良いのではないですか?」


 10万金貨あれば地方領主が立派な城を建ててもおつりがくる。

 40万金貨で人一人を買いたいというのは、確かに悪くない話だ。


 しかし――。


 【変身の指輪】を使って観客の認識を誤魔化しているだけで、舞台に立っている彼女こそが本物のリーラだ。


 だからこそ、彼女を引き抜かれては劇場の経営に大打撃となる。

 もっとも、40万金貨という大金が手に入るのだから、損失を埋めるという意味では決して悪い取引ではない。


 だが、好調な劇場の現状を今さら変える気はなかった。

 それに、一度手に入れた美少女を、むざむざ手放す気にはなれない。


 結論として、この話はお断りすることにした。しかし――

 俺は様子見を兼ねて、情報収集を続ける。


「では、本人の意思を直接確認すると致しましょう」


「本人の意思? 奴隷の意思確認など必要ないでしょう?」


 イグナツィオは心底不思議そうに首をかしげる。その仕草に、奴隷は物、その意思など考慮に値しないというこの世界の常識が透けて見えた。


「なに、ちょっとした余興ですよ。それに、あなたも本人に会って、直接説得してみるのもいいでしょう?」


 敵の狙いを、舞台に立っている偽物(本当は本物)ではなく、オークションで落札された「本物」の方へより明確に絞らせる必要もある。


 手当たり次第に探られては後々厄介だ。

 リーラの居場所くらいは教えておいてやろう。俺は支配人に一筆書いた手紙を託し、ファーマとリーラの二人に、この部屋まで来るよう届けさせた。


 手紙には、俺が与えた【変身の指輪】を二人とも外してくるようにと書き添えて。


 

 ***


 数分後、豪華な貴賓室の重厚な扉が軋む音を立てて開き、支配人に連れられてファーマとリーラの二人がやってきた。


 深紅の絨毯が敷き詰められた静かな部屋に、二人の控えめな足音が響く。


 素顔の二人を見た瞬間、イグナツィオの目が獲物を定めたかのように怪しい光を放った。そのねっとりとした視線がリーラに絡みつくのを、俺は感じ取った。


「やあ。ショーの後で疲れているところ悪いな。こちらの悪徳商人が、君たちにどうしても話があるそうなのでね」


 俺の言葉に、イグナツィオは軽く肩をすくめた。


「おや、悪徳商人とは酷いですな。それに、私が欲しているのは歌姫のリーラ、ただお一人ですよ」


 イグナツィオは品定めするような視線を、リーラの細い肩から震える指先まで舐めるように這わせる。


 まるで美術品でも見るような、ぞっとするほどの徹底ぶりだ。


 俺はファーマとリーラの二人の様子をそれとなく観察した。

 この異常な雰囲気と、目の前の大物商人の冷たい視線に、二人は小動物のように身体を硬くし、かなり緊張しているようだ。


 リーラの白い頬には微かな紅潮が見え、ファーマは俯きがちに指先を弄っていた。

 二人の震えが、俺の胸に痛いほど響いた。


「彼が40万金貨でリーラを譲ってもらいたいと申し出てきてね。そこで、当事者である君たちを招いて、この商談をまとめるのも面白いと思ったんだ」


 俺の言葉に、二人の緊張はさらに増した。

 部屋の空気が張り詰める。


 鉛のように重い沈黙が、一瞬、場を支配した。


「さあ、リーラ。俺の劇場でこのまま歌姫として働くか。それとも、そこの悪徳商人に40万金貨で買われていくか。好きな方を選んでいいぞ」


 俺は選択肢を与えているようで、与えていない。


 そもそも俺は、彼女たちを奴隷にはしていなかった。

 劇場でのショー以外は比較的自由にさせている。


 日々の練習やコンディション調整といった制約はあるが、それ以外は普通の少女と変わらない、いや、普通よりもはるかに高い生活水準と、ある程度の自由を保証しているのだ。


 それに対して、40万金貨で買われた先でどのような扱いを受けるかは全くの未知数だ。しかも、愛する姉とは離れ離れになってしまう。


 イグナツィオに買われるという選択肢を、彼女が選ぶはずがなかった。


「……あの、私は……このまま、この劇場で、姉さんと一緒に働きたい、です」


 リーラは震える声で、しかし一点の曇りもない澄んだ瞳で、はっきりとそう答えた。その声には、恐怖を押し殺した確かな意志が宿っていた。


 当然の結果だ。


「――だ、そうだ。残念だったな、イグナツィオ。売るわけにはいかん。お引き取り願おうか」


 その瞬間、イグナツィオのにこやかだった雰囲気がすっと消えた。


 仮面が剥がれ落ちたように、その表情は凍りつく。

 温度のない、爬虫類のような瞳が俺を射抜く。


 部屋の暖炉の炎すら、その冷気に怯えるかのように揺らいだ。


「……私を只の商人と甘く見ない方がいい。この王都では、金があれば何でも揃えられる。一流の戦士も、腕利きの暗殺者もな」


 険しさを増した声が、喉の奥から絞り出されるように部屋に響く。

 まるで毒蛇の威嚇めいた声色だ。


 その言葉には、確かな裏付けと自信が感じられた。

 俺は、こいつが本気であることを悟った。


「それに対して、貴様はどうだ? 『敗北のゼロ』よ。頼みの綱であるグリムロック騎士団は、遠い国境で紛争の真っ最中。この王都に、お前を守る戦力はあるまい。人を雇おうにも、その資金がないことも調べはついている。そして何より、肝心の貴様の魔力はゼロだ。戦いでは何の力にもならん」


 こいつは驚きだ。


 ついに本性を現して脅しにきやがった。

 そして、俺の弱点を正確に突きつけてくる。


「――悪いことは言わん。リーラよ、今すぐ、『私に買われたい』と言え。そうすれば、見逃してやる。もし、言わぬのなら……お前の姉がどうなるか。分かるな?」


 それは、もはや交渉ではない。

 ただの剥き出しの暴力的な脅迫だった。


 イグナツィオの白い指先が、ファーマの震える背中をなぞる仕草をする。

 その視線は凍てつき、一切の容赦がなかった。


 怒りが、胸の奥で煮えたぎるのを感じた。


 俺は奴の言葉など完全に無視した。

 そして、隣で恐怖に顔を歪ませ、身体を震わせているリーラとファーマの腰にそっと手をかける。


 絹のような衣装越しに、彼女たちの肌の冷たさが伝わってきた。

 そして、二人をぐっと俺の胸へと抱き寄せる。


 彼女たちの微かな震えが俺の胸に伝わり、守るべきものの重みを再認識させた。


 俺は、この二人のために、何としてでもこいつを退けると、強く心に誓う。


「あいにくと、俺は、この二人を手放す気はこれっぽっちもないんでね」


 そう言って、俺はリーラの頬に優しくキスをした。その柔らかい感触と、微かな甘い匂いが鼻腔をくすぐる。その瞬間、イグナツィオの全身から放たれる殺気が頂点に達した。


 部屋の空気がビリビリと震え、肌が粟立つほどのプレッシャーが俺たちを襲う。


「……馬鹿、なのか。貴様は」


 地を這うような、低い声。

 その声には、怒りというよりも、理解しがたいものを見た驚愕と、底なしの悪意が混じっていた。


 イグナツィオの表情は、完全に人間性を失っていた。


 会談は決裂――。


 俺たち二人は、今この瞬間、完全な抗争状態に入ったのだ。

 イグナツィオ・ヴァラキアとの戦いが、ここから始まる。

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