第42話 心のケアと帝国からの姫君
俺はセシリアとリゼルを伴って、グリムロック邸へと帰宅した。
今夜は3人でお泊りだ。
夕食は劇場で済ませたので、それぞれ風呂に入った後、今は俺の寝室に集まっていた。湯気を含んだ浴室からは、甘い石鹸の香りが微かに漂い、やがて寝室へと消えていく。
今日の疲れを癒し、これから始まる夜への期待感が、胸の奥で微かに膨らんでいた。ちなみに、リゼルの魔力奴隷であるカイは、俺の妹ミナと水入らずの時間を過ごしているはずだ。
たまには、あの真面目な兄妹にも、ゆっくり語らう時間を作ってやっている。
俺は優しいからな。
寝室のベッドの上では、リゼルがまだ少しむくれた顔で膝を抱えていた。
劇場でのバルタザールの変態的嗜好に、よほど気分を害したらしい。
無理もない、あれはトラウマものだろう。
彼女の薄い唇は、不満げにキュッと結ばれ、普段の快活な笑顔はどこにも見当たらない。俺はむすっとしているリゼルに近づくと、有無を言わさずその体をベッドに押し倒した。柔らかなマットレスがわずかに沈み込む。
そして、彼女が抵抗できないよう、その両腕を頭上で押さえつける。
細い手首が俺の指に食い込む。
一瞬、抗うような力がこもるが、すぐに諦めたように弛緩した。
「ちょっ、ちょっと、何すんのよ!?」
リゼルの声が、やや上擦る。
「大人しくしていろ。治療の時間だ」
「ち、治療!?」
俺はそう言うと、混乱しているリゼルのわきに、ゆっくりと顔を近づけた。
風呂上がりの清潔な肌からは、柑橘系のシャボンの香りが微かにする。
そして、そのすべすべとした白い肌に、優しく唇を落とす。
ひんやりとした肌の感触が、手のひらに伝わる。
純粋な香りに、心が落ち着くのを感じた。
「……いい匂いじゃないか。俺は、好きだぞ」
風呂に入ったばかりなので、実際にはシャボンの香りしかしないのだが、肝心なのはそこではない。リゼルの心に、あの変態のせいでトラウマが残らないようにすることだ。
あの男には、繊細な配慮がまるでない。
自分好みの女の汗のにおいを、あのような表現で称賛していたが、相手が傷ついてしまうかもしれない、という気遣いなど欠片もない。
そういうキャラなので仕方がない、といえばそれまでなのだが……。
(褒め言葉とか言っていたが、あれで褒められたと思う女性は皆無だろう。いや、マゾ気質の女なら、あるいは――)
「べ、べつに……! そ、そんなこと言われたって、嬉しくなんか、ないんだからねっ!!」
リゼルは、顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうにそう言った。
その瞳の奥に、微かな安堵の色が浮かんでいるのを俺は見逃さなかった。
よし。
これで幾分か、彼女の心の傷は癒されただろう。
俺たちのそんな様子を、ベッドの脇でセシリアが、どこか羨ましそうに見ていた。
彼女の大きな瞳は、期待と躊躇で揺れている。
やがて彼女は、おずおずと、俺の元へとやってくる。
その足取りは、まるで迷子の子犬のようだ。
「あ、あの、ゼノス様……。その、においを嗅ぐのが、お好きなのでしたら……。わ、わたくしの、あの……その……な、何でもありませんわっ!!」
言っている途中で、自分の発言の恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、彼女は顔を真っ赤にして話を打ち切ってしまった。
だが、その潤んだ瞳を見れば、彼女が言わんとしていることは、痛いほど伝わってくる。健気な様子に、思わず笑みがこぼれた。
「セシリア」
俺は彼女の手を取り、リゼルと同じようにベッドへと優しく引き倒した。
そして、そのわきに、同じようにキスをしてやる。
セシリアは、恥ずかしさのあまり俺から目をそらしている。
だが、その表情には、多大な羞恥の中にも、隠しきれない喜びの色が浮かんでいた。微かに震える指先が、俺の服の裾をぎゅっと掴む。
夜は、まだ長い。
俺たちの、甘く濃密な愛の営みは、まだ始まったばかりだ。
寝室の窓から差し込む月の光が、二人の体を柔らかく照らしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日。
いつものように、朝食を終えた二人をそれぞれ実家へと馬車で送り届け、俺は学校へと向かった。
早朝の澄んだ空気は、昨夜の熱気を洗い流すようだ。
これから始まる一日に、軽い足取りで校門をくぐった。
王立魔法学園『アルカナム』。
現在、この学園には、一人の特別な留学生が在籍している。
アドラステア帝国の姫君、エリザベート・アドラステア。
この国の第一王子であるリアム・アースガルドと婚約し、両国の和平を実現するという、重大な使命を帯びて留学してきている少女だ。
夜空を映したかのような、深く艶やかな青色の髪。
知的な印象を与える、涼やかな切れ長の瞳。
そして、凛とした立ち姿は、彼女がただの少女ではなく、一国の姫としての威厳と、強い意志を秘めていることを感じさせる。
まるで、氷の彫像のような美しさだ。
学園の中でも、彼女の存在は異質な輝きを放っている。
そのアドラステア帝国と国境を接し、古くから最前線で血みどろの戦いを続けているのが、俺の実家であるグリムロック辺境伯家だ。
そして現在、和平交渉などさせるものかと、うちの親父が、一気呵成にアドラステア帝国への攻勢を強めている。
戦場の硝煙の匂いが、この学園にまで届きそうな勢いだ。
俺自身も、その渦中にいることを常に意識している。
そのような状況であるから、学園内での俺の立場は、非常に微妙なものだった。
和平を推進する王家派の貴族の子弟や、帝国から姫様と一緒にやってきた留学生たちからは、まるで疫病神のように、露骨に距離を取られている。
彼らの視線は、まるで汚いものでも見るかのように冷たい。
まあ、敵国の、しかも主戦派の筆頭である家の息子なのだ。
避けられるのは、当然だよな。
しかし、そんな些末なことは、俺の目的の前では取るに足らない。
俺はそんな状況などお構いなしに動くことにする。
姫を俺の支配下に置くのだ。
俺は学園のコンシェルジュを通して、エリザベート姫に、一枚の手紙を渡すよう依頼する。相手が警戒して、俺を避ける可能性もある。
だから、その手紙には、こう書き添えておいた。
「――極めて重要な機密情報を提供したく、ご連絡差し上げました。つきましては、余人を排し、二人きりでお会いしたく存じます」
さて、敵国の姫君は、この怪しい誘いにどう出るかな?
俺は、彼女からの返事を、静かに待つことにした。
心の中で、かすかな高揚感が広がるのを感じる。
まるで、獲物を狙うかのような、静かな興奮が全身を巡っていた。




