第39話 奈落の底の剣闘姫
王都の地下深く――
特定の無法地帯に、非合法の闘技場【奈落の底】が存在する。
そこは、地下深くに穿たれた巨大な円形の空間で、湿った土と鉄の匂いが混じり合う。リングには鎖を引きずる獣人奴隷と、牙を剥く捕獲されたモンスターが向き合い、金目当ての傭兵がその傍らで息を荒げていた。
観客の狂乱の歓声が地響きのように響き渡る中、彼らは文字通り命を賭けた戦いを繰り広げている。
血と砂塵、金と欲望が渦巻く治外法権の暗黒郷。
薄暗い通路の奥から聞こえてくる野卑な叫び声や、興奮した観客のざわめきが、その異様さを際立たせる。
俺には、この淀んだ空気がどこか心地よかった。
夜な夜な莫大な金が動く様々な賭け事が行われる、まさに奈落の底だ。
俺は先日、この闘技場のトップであるゾルタン・レックスに特別な興行を持ちかけた。興味を示したゾルタンと直接会って話をまとめる。
肉厚な首筋に何本もの金の鎖をぶら下げた彼は、俺の持ち掛けた提案に、いかにも儲け話だとばかりに目つきを変えた。
金の匂いに敏感な彼は、俺の提案に乗り気になり、今夜その試合が開催されることになったのだ。
俺のビジネスパートナーであるバルタザールには、すでに召喚したゴブリン20匹をこの闘技場へと運び込ませてある。
準備は万端だ。
残るは俺と、今夜の主役である「剣闘士」を舞台へと連れて行くだけだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……来てくれると思っていましたよ、先輩」
揺れる馬車の中、向かいの席に座る王女エレノアに、俺は笑いかけた。
馬車のわずかな隙間から漏れる街灯の光が、彼女の艶やかな髪を淡く照らす。その横顔は、今日に限ってはいつもより少しだけ機嫌が悪そうだ。
「ふんっ。貴様が何か良からぬことを企んでいないか、その監視に来てやっただけだ。勘違いするな」
彼女は腕を組み、そっぽを向きながらツンと言い放つ。
休日の予定を無理やりこじ開けさせられたというのに、律儀に来てくれるあたり、実に素直でよろしい。内心、少しだけ頬が緩む。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
俺が肩をすくめると、エレノアは居心地悪そうに視線を泳がせた。
細い指先が、膝の上で僅かに動くのが見て取れる。まるで、次に何が起こるのか、期待と不安が入り混じっているようだった。
「ところで、この馬車は一体どこに向かっているのだ?」
「それは着いてからのお楽しみ、と言いたいところですが、向こうで暴れられても厄介だ。正直に教えておきますよ。俺たちがこれから向かうのは、闘技場【アビス・ピット】です」
「なっ……! 非合法の闘技場ではないか! 貴様というやつは、そのような場所でデートがしたいというのか! 趣味が悪すぎるぞ!」
どうも姫様は、根本的なところで勘違いをしているらしい。
その青い瞳が、驚きに見開かれ、非難の色を帯びた。
「いえ。残念ながら、俺たちは試合を観戦しに行くわけではありません」
俺は悪戯っぽく笑いかける。
「俺は、今夜デビューするチーム『ロイヤル・ファントム』のオーナーとして。そしてエレノア様には、そのチームのエース剣闘士として、試合に出場していただくために行くのです」
「……言っている意味が、まったく解らんぞ。私は王女なのだ。そのような、下賤な見世物小屋で試合に出られるわけがないだろう」
「いいえ、出てもらいます。心配はご無用です。何せ、非合法の場所なのですから、身分も何も関係ありません」
「正気なのか、貴様は?」
エレノアは、生まれて初めて見る「奇怪な生き物」でも見るかのような目で、俺を見つめていた。その視線は、疑念と困惑に満ちている。
もちろん、俺とてこの国の王女を、そのまま試合に出すほど馬鹿ではない。
彼女にはすでに、俺が作った魔道具【変身の指輪】を装備させている。
その効果により、彼女の今の見た目は、本来のエレノア王女と同等の美貌を備えつつも、顔立ちの全く異なる別人へと変化している。
見る者の認識を、そう変える魔道具だ。
彼女自身にはそのからくりを教えていないが、これで彼女の正体が観客にばれる心配はない。
その上で、だ。
その姿で、「王女エレノア」というリングネームで試合に出場させるのだ。
本物の王女と同じ名前を持つ、謎の美貌の剣闘士。
観客が盛り上がらないわけがない。
最高のエンターテイメントだ。
俺は、ほくそ笑んだ。
「さあ、着きましたよ、姫」
馬車が止まり、外からはすでに微かなざわめきが聞こえてくる。
俺はエレノアをエスコートして、闘技場の裏口から中へと入る。
ひんやりとした地下の空気と、熱気と汗、そして微かな血の匂いが混じった独特の空気が俺たちを包み込んだ。足元の石畳は湿っぽく、遠くから野太い雄叫びが響いてくる。奥からは獣の咆哮も聞こえる。
俺たちはあてがわれた控室へと移動する。
薄暗い一室には、油の臭いがかすかに漂い、壁際には使い込まれた木製の長椅子が置かれているだけだ。
そこで、俺はエレノアに用意しておいた豪奢なドレスを手渡した。
深紅のベルベット地に金の刺繍が施された、舞台映えする一着だ。
「これに着替えてください。今宵の貴女は、戦場を舞う姫君ですので」
戸惑う彼女に、有無を言わさず着替えさせる。
その瞳には、まだ不満の色が浮かんでいるが、抵抗はしなかった。
ドレスの重みが、彼女の華奢な肩にのしかかる。
もちろん、剣もこちらで用意したものだ。彼女の愛用の剣では、万が一にも正体に気づく者がいるかもしれない。そのリスクは、徹底的に排除する。
準備を終えたエレノアは、見慣れないドレスと剣に身を包み、剣闘士用の控えの間へと案内されていった。
白い肌に深紅のドレスがよく映える。
彼女が控室を出ていくのを見送ると、残されたドレスの香りが、微かに鼻腔をくすぐった。さて、俺も仕事に戻るか。
やがて、闘技場に鳴り響いていたけたたましい音楽が止み、円形のリングへとスポットライトが強く照らし出された。
砂埃が舞うリングの中央が、まばゆい光に浮かび上がる。
司会者の、野太く熱狂的な声が響き渡る。
その声は、闘技場中に反響し、観客の興奮をさらに煽った。
『さあ、野郎ども、待ちかねたな! 今宵、この奈落の底に、一輪の気高き華が舞い降りる! その名はなんと――王女、エレノアァァァッ!!』
その名がコールされると、観客席から爆発的な歓声と、野卑な口笛が地鳴りのように巻き起こった。
ドタドタと足を踏み鳴らす音、叫び声、金切り声。
熱狂の渦が闘技場全体を包み込む。
ゲートから現れたのは、エレノアとは全くの別人でありながら、彼女と同等の美貌と気品を備えた、深紅のドレス姿の美しき剣闘士。
その姿がスポットライトに照らされ、ひときわ輝きを放つ。
観客のボルテージは、試合開始前からすでに異常なレベルに達していた。
金と欲望の匂いが、一層濃くなる。
そして、対戦相手がリングへと解き放たれる。
俺が召喚した、20匹のゴブリンたちだ。
緑色の肌に、ぎょろりとした目、剥き出しの牙。
彼らには、事前に「相手を殺すな」と厳命してある。
魔物なので、あまり複雑な命令は理解できないが、「殺してはいけない」という単純な制約くらいなら、問題なく守れるはずだ。
乾いたゴングの音が鳴り響き、戦闘が始まる。
ゴブリンが20匹、低い唸り声を上げながら一斉に襲いかかる。
彼らの汚い手が、ドレス姿のエレノアへと伸びる。だが、王家最強の剣士である彼女に勝てるわけがない。
エレノアは、舞うように優雅な、しかし鋭い剣技で、次々とゴブリンたちを屠っていく。剣が風を切り、ゴブリンの細い首筋を掠めるたび、鈍い音が響く。
血飛沫が舞い、深紅のドレスに小さな点となって散る。
彼女の動きには一切の迷いがなく、まるで踊っているかのようだ。
観客の興奮が、熱波のように押し寄せる。観客が、彼女の圧倒的な強さに酔いしれ始めた、その時。
熱狂はピークに達し、多くの目がリングに釘付けになっていた。
俺はVIP席のソファに深く腰掛けたまま、右手の指輪に魔力を込めた。
指輪に宿る魔力が、脈打つように淡く光る。
その魔力は、彼女が身に着けている首元のチョーカーへと正確に伝わる。
「んっ……ぐひんっ♡」
リングの上で、エレノアの動きが、一瞬だけ明らかに鈍った。
その顔が、苦痛と困惑に歪む。
魔力を乱された痛みと、予期せぬ快感。
その隙を、ゴブリンが見逃すはずがない。
数匹のゴブリンが彼女に飛びかかり、汚い手でドレスを掴む。
捕らえられたエレノアは、無防備な腹に、ドッ! ドッ! とゴブリンたちの汚い拳を叩き込まれていた。
腹部に響く鈍い音に、観客のボルテージがさらに跳ね上がる。
リングから湧き上がる嬌声と、観客の野太い歓声が混じり合う。
『おおおおおっ! なんという展開だぁ! あの気高き姫が、ゴブリンに嬲られているぞぉっ!』
司会者の叫び声が、闘技場に響き渡る。
観客の興奮と盛り上がりは、ついに最高潮に達した。
地響きのような歓声が、耳朶を打つ。賭けのレートが、目まぐるしく変動していることだろう。最高の瞬間だ。
頃合いか。
俺は、指輪から魔力を抜き、魔力妨害を解除する。
すると、形勢は再び逆転した。
エレノアは、屈辱に顔を歪ませながらも、その瞳に闘志の炎を燃やし、ゴブリンたちの拘束を荒々しく振り切る。
荒い息遣いと、血の匂い。
そして、落とした剣を拾い上げると、鬼神のごとき勢いで、残りのゴブリンたちを全滅させた。彼女の剣は、まるで生き物のように舞い、ゴブリンの残骸がリングに散らばる。
試合終了のゴングが、高らかに鳴り響く。
劣勢からの逆転劇――
闘技場には、彼女の勝利を称える割れんばかりの大歓声と、エレノアの敗北に賭けた者たちの野卑なブーイングが、渾然一体となって巻き起こっていた。
熱気と興奮が未だ渦巻く中、観客の視線は一点に集まる。
その中心で、エレノアは深紅のドレスを血に汚しながらも、剣を高々と掲げ、自らの勝利を宣言した。
その表情は、苦痛でも、屈辱でもなく。
――心の底から、ものすごく楽しそうだった。
その瞳の奥には、確かな輝きが宿っていた。
俺の仕掛けは、完璧に成功したようだ。




