第3話 魔封印と、血塗られた契約
グリムロック邸の中庭は、決闘開始前の張り詰めた静けさに包まれていた。
冬の朝のような冷たい空気が肌を刺す。
中央には父、ガイウス・グリムロックが威厳をもって立ち、その左右に俺と兄のレオン・グリムロックが互いに視線を交錯させている。
兄の背後には、影のように漆黒のローブを纏った十人の魔力奴隷兵がずらりと並ぶ。感情の読み取れない無表情な彼らの胸元には、兄の魔力が刻まれた不気味な黒い奴隷紋がはっきりと浮かび上がっていた。
敵は総勢十一人。
対する俺は、たった一人。
武装は腰に差した飾り気のない剣のみ。
幼い頃から剣術の稽古で使い込んできた相棒だが、相手は魔法使いの集団。
剣一本でどうにかなる相手ではない。
両者の距離はおよそ二十メートル。
広大な中庭では、二人の距離はまだ近い方だった。
それでも、今はこの「二十メートル」が途方もなく遠く感じられる。
魔法使いに圧倒的に有利な距離――
剣の間合いに入る前に、色とりどりの魔法の光が俺を蜂の巣にするだろう。
「……ふぅ」
俺は静かに息を吐き、クールを装って立っていた。
肺を満たした冷たい空気が、わずかに落ち着きをもたらす。
昨夜、リーリアとの一夜を過ごしたことで死への恐怖は一時的に薄れたが、この場に立てば再び冷たい現実が突きつけられる。
胃の奥がひりつくような感覚がする。
「本当に、どちらかが死ぬまでやるんですか? 兄弟で殺し合うこともないでしょう」
決闘を始める前に、俺は父に確認を取った。
これは、あくまで――
事務的な「ただの確認」だ。
決して、「命乞い」と見られないように、無関心を気取って尋ねた。だが、その言葉の裏には、父に助けを求める、かすかな響きが隠されていたかもしれない。
父の答えは、氷のように冷たいものだった。
「グリムロックの名に泥を塗った貴様が、今さら何を言うか。魔力ゼロの役立たずは、この家には不要だ。レオン、やれ」
父の蔑むような視線が、俺を射抜く。
まるで価値のない石ころを見るかのような、無機質な眼差しだった。この世界では魔力こそが全てであることを、改めて思い知らされる。
父の言葉に続いて、兄が口を開く。
その声には、抑えきれない傲慢さが滲んでいた。
「魔力ゼロの落ちこぼれが、よくもぬけぬけと俺の前に立てたものだ。お前の存在自体が、グリムロックの恥だ。さっさと消えろ」
兄の顔には、歪んだ愉悦が浮かんでいた。
「……前から、お前のことは気に入らなかったんだ。なんとなくな。――ははっ! 今日ここで殺せるなんて、気分が良いぜ!」
(そういえば、ゲーム世界では兄のレオンよりも弟のゼノスの方が魔力が強く優秀だったため、後継者の座を奪われていたな)
そんなゲームの知識が、頭の片隅をよぎる。
それで必要以上に、レオンは俺を嫌悪しているのかもしれない。
「さあ、始めろ!」
父の号令と共に、決闘が始まった。
その声が合図となり、張り詰めていた空気が一気に爆発する。
兄の奴隷兵たちが、一斉に魔法の構築に入る。
彼らの手が淡い光を帯び始め、低く唸るような詠唱が始まり、空気が震える。
手元に様々な色の魔力が凝縮され、眩いばかりの光の塊となっていく。
燃え盛る火球、鋭利な水槍、切り裂くような風刃、鈍重な土塊……。
そして、それらが俺に向かって、嵐のように一斉に放たれた。
「……フンッ」
俺はその場から微動だにしなかった。
――ただ、「能力」の範囲を広げる。
迫り来る魔法の轟音と、その熱や冷気、そして鋭利な風が迫ってくる。
人間など粉々に粉砕できる力を持つ攻撃魔法――
いや、ちょっと、怖いんだけど、これ……。
迫りくる魔法の迫力に、俺は内心ビビっている。
しかし、攻撃魔法は俺に届く前に、まるで透明な壁に遮られたかのように、すべてが音もなく霧散した。
火球は熱気となり、水槍は水滴に、風刃はただの風に、土塊は砂塵となって、俺の周囲に降り注ぐ。レオンは、まるで幻影でも見たかのように唖然としている。
「やはり、な……」
俺は「想定通り」とでも言いたげな余裕の態度で、それを一瞥する。
俺の広げた能力の範囲――
半径二メートル以内では、あらゆる超常の力は霧散する。
どうやら俺が持つ力は、そのようなもののようだ。
魔力無効の力。
俺はこれを魔封印と名付けた。昨夜、リーリアの奴隷紋を消したのも、この力によるものだったのだろう。
――この勝負、俺の勝ちだ。
……多分。
「どうした兄貴、撃って来いよ。――俺はまだピンピンしているぜ?」
内心では、この能力がどこまで通用するのか不安で仕方ない。
能力の詳細も、まだ完全に把握できていない。
だが、ここで怯むわけにはいかない。
そんな思いが嘲笑となって、わずかながら声に混じっていたのだろう。
それが挑発となった。
兄は驚きで目を見開いていた。
その顔は恐怖と困惑に歪んでいた。
だが、決闘を下りる気はないようだ。
バカにしていた俺から馬鹿にされ、意地になって攻撃を続ける。
「なっ……く、くそっ! もう一度だ! 撃ち続けろ!」
挑発に乗った兄は、血走った目で奴隷たちにさらなる攻撃を命じた。
「絶対に、奴を殺すんだ!!」
奴隷兵たちは再び魔法を構築し、俺に向かって放つ。
轟音と閃光が中庭を埋め尽くす。だが、そのすべてを俺は無効化する。
火球、水槍、風刃、土塊……。
どんな魔法も、俺の魔封印の前には無力だった。
奴隷兵たちの顔に、疲労の色が濃くなっていく。
彼らは主である兄の魔力を供給されて魔法を撃っている。
だが、魔力の供給も無限ではない。
使用魔法も強力なものばかりだ。
撃ち続ければ、その消費量は尋常ではなく増えていく。
やがて、奴隷兵たちの魔力が尽きた。
体から魔力の光が消え、操り糸の切れた人形のように、その場に次々と倒れていく。地面に打ち付けられる鈍い音があちこちで響いた。
十人の奴隷兵が、あっという間に戦闘不能になった。
「ば、馬鹿な……! なぜだ!? なぜ魔法が効かない!?」
兄は信じられないといった表情で俺を見つめている。
その声は、絶望に震えていた。
俺はゆっくりと兄に近づいていく。
一歩、また一歩。
俺の足音だけが、静かになった中庭に、ひどく大きく響く。
兄は怯えながら、最後の足掻きのように、震える手で魔法を撃ち続ける。
だが、その魔法も、俺の魔封印によって霧散する。
やがて、兄の体から魔力が完全に枯渇した。
魔力切れになった兄は、その場で腰を抜かしたように座り込んだ。
その顔は血の気を失い蒼白で、恐怖に歪んでいる。
俺は、腰に差した剣に手をかけた。
剣を鞘から引き抜くカチャリという音が、やけに大きく、場に張り詰めた空気を切り裂くように響く。
刀身に鈍い光が反射する。
「ひ、ひぃっ……! ま、待て! ゼノス! やめろ! 命だけは……命だけは助けてくれ!」
兄は、情けない声を上げて命乞いを始めた。
先ほどまで俺を罵倒し、冷たい視線を向けていた傲慢な男の姿は、そこにはない。ただ、死を恐れる、哀れで滑稽な男がいるだけだ。
その姿に、俺の心は微塵も揺らがなかった。
――容赦はしない。
「この戦いは、どちらかが死ぬまで終わらない。そう言ったのは、お前だろ?」
俺は冷たく言い放ち、剣を振り上げた。
その切っ先に、空の光が反射して煌めく。
父が慌てて止めようと、一歩踏み出す。
「ゼノス! やめろ! やめんか!!」
父の声が、中庭に響く。
だが、もう遅い。
俺は、振り上げた剣を、躊躇なく振り下ろした。
鈍い肉を断つ音と共に、鮮血が勢いよく宙に飛び散る。血飛沫は、中庭の石畳に赤黒い染みを作り、まるで絵の具をぶちまけたようだった。
兄の首が、ゴトリ、と地面に転がった。
決闘は終わった。
だが、このイベントはそこで終わらない。
惨劇の直後――
その血に誘われたかのように、突如、空間が歪み、漆黒の亀裂が走った。
そして、その亀裂の中から一人の男が姿を現す。
漆黒のローブを纏い、顔は深く被ったフードで隠されているが、その隙間から覗く肌は、まるで磨き上げられた陶器のように白い。
見目麗しい人型ではあるが――
明らかに人間とは異なる、異質な雰囲気を漂わせている。
男は瞬間移動の魔法や、空間を操るような特殊能力を操る、人ならざる者だった。
――こいつは、魔人。
「契約に従い、この決闘の勝者であるあなた様にお仕えいたします」
男は、片膝をつき、恭しく頭を垂れた。
まるでそれが、当然の摂理であるかのように。
そいつの出現に、俺は驚きを隠せない。
剣を握る手が、わずかに震えた。
「お前は……」
この男は、隠しキャラクターの一人だ。
ゲームを一度クリアすると現れる追加シナリオ、魔人勢力との戦い。
その皮切りとして現れるのが、この男だった。
それが、なぜ今、ここに――?
俺の勝利を認め、従う?
俺は、血の付いた剣を握りしめながら、目の前の魔人を見下ろした。
思わぬ展開に、俺の頭の中は混乱していた。
だが、同時に、かすかな興奮が、凍てついた心の奥底に芽生え始めていた。
魔力ゼロのラスボス。
死の宣告。
そして、魔封印と、転移の魔人との契約。
俺の転生生活は、とんでもない方向へと転がり始めたようだ。




