第24話 影の響宴(シャドウズ・ガラ)
「劇場型レストラン」の構想が固まって数日後――
俺はバルタザール・ザイツと執事のグレゴールと共に、王都の地下深くで開催される非合法オークション『影の響宴』へ向かっていた。
馬車の車輪が石畳を転がる鈍い音が、静まり返った夜の闇に吸い込まれていく。
どこからか、腐敗した生ゴミのような微かな悪臭が風に乗って漂ってきた。
会場の入り口。
そのうちの一つは、王都の貧民街外れにある打ち捨てられた礼拝堂の地下聖堂に隠されていた。蔦に覆われた古びた石の壁、窓から覗く暗闇が不気味な雰囲気を醸し出す。
厳重な身元確認と、招待客にのみ渡されるという魔法の紋章を提示すると、重い金属質な音を立てて隠し扉が開き、腐った土と湿気が混じったような匂いが鼻を衝いた。
無骨な護衛たちが無言で立ち並び、俺たちは地下へと続く螺旋階段を下りていく。石の壁はひんやりと汗ばんでおり、指先で触れるとざらりとした感触があった。
ひんやりと湿った空気が肌を撫でた。
地下特有の土とカビの匂いが鼻をくすぐる。
どれくらい下っただろうか。
足元から冷気がじんわりと上がってくる。
やがて視界が開け、俺たちは息を呑んだ。
そこは、王都の地下に眠る広大な古代遺跡だった。
上を見上げれば、天を突くような巨大な石柱が闇にそびえ立つ。その表面には風化した壁画や読めない古代文字がびっしりと刻まれ、触れると砂のように指から崩れ落ちそうだった。
そして、かつての栄華を物語る壮大なドームが、頭上遥か高くに広がっていた。まるで、地下に埋もれた神殿に迷い込んだかのような錯覚。
歴史の遺物が放つ厳かな空気と、オークションのために設営された、けばけばしい金銀の装飾や深紅の絨毯が、奇妙なコントラストを生み出している。
無数の魔導ランプが怪しげな光を放ち、石柱の影を長く歪ませていた。
***
「こ、これが『影の響宴』……。噂には聞いておりましたが、これほどの規模とは……」
バルタザールの額には脂汗がびっしりと浮かび、その声は上ずっていた。
彼の目は、まるで巨大な捕食動物の前に放り出された小動物のように、威圧的な空間に怯え、あちこちを彷徨っている。
一方、グレゴールは顔色一つ変えず、ただ静かに周囲の空気を観察していた。
その視線には微かな警戒の色が宿るが、動揺は微塵も見せない。
俺たちの目当ては、三日間にわたるこのオークションの最終日に出品される『踊り子』と『歌姫』の姉妹だ。
劇場の準備費用を差し引いても、軍資金はまだ80万金貨以上ある。
事前の調査資料によれば、これまでのこの種のオークションで競り落とされた「人間の奴隷」の最高額は、特異な能力を持つ者でさえ2万金貨程度だった。
(姉妹セットとはいえ、せいぜい2万、どんなに競り上がっても3万金貨がいいところだろう。余裕だな)
この時点では、俺は完全に高をくくっていた。
この場に漂う重く、生臭いような空気が――
まだ俺の楽観を打ち破るには至っていなかった。
オークションが始まるまで、俺たちは会場を見て回ることにした。
会場には、仮面で顔を隠した者、フードを深く被った者、そして、自らの権勢を隠そうともしない者たちが、シャンパングラスを片手に談笑している。
グラスの触れ合うカチンという澄んだ音、低い話し声、そして時折響く乾いた笑い声が、独特の不穏なハーモニーを奏でていた。時折、甲高い女性の笑い声が響き、すぐに闇に溶ける。
視界の端で、薄闇にきらめく宝石や金細工が、獣の目のように怪しく瞬くのが見えた。
***
「……ゼノス様、あちらにおわすは」
グレゴールが、他の会話に紛れるような低い声で俺に注意を促す。
その視線の先には、痩せぎすで、真っ白な髪をオールバックにした男がいた。黒い礼服がその細身を際立たせ、血のように赤い瞳が、獲物を探す蛇のようにねっとりと会場を見回している。
(あれは……『白蛇』の異名を持つ大商人、イグナツィオ・ヴァラキアか)
表ではクリーンな商売を気取っているが、あいつは裏社会を牛耳る巨大な情報組織【囁きの耳】の事実上の首領らしい。
その視線は獲物を見定めるように冷たく、獲物が定まればすぐに食らいつきそうだ。
別の場所では、銀色の髪を靡かせ、完璧な笑みを浮かべた優雅な貴族が、取り巻きたちに囲まれている。彼の手元には琥珀色の酒が揺れるグラス。
その芳醇な香りがわずかにここまで漂ってくる。
(そして、あの銀髪の男……エルフの森に隣接する領地を持つ、アルビオン・ディ・ブランシュフォール辺境伯)
一度、顔を合わせたことがある。
油断ならない相手だ。
優雅な笑みの裏に、底なしの傲慢さを感じる。
いかにも、敵に回すと面倒そうなタイプ――
その薄い笑みは、まるで精巧な仮面を被っているかのようだ。
その他にも、名の知れた悪徳貴族や、見るからに危険な傭兵団の長、そして、俺の通う学園の生徒の姿も何人か見受けられた。反乱勢力の子息たちだ。
親の代理か、あるいは単なる道楽か。
彼らの顔は緊張と興奮がないまぜになったような表情を浮かべていた。
意外なことに国王派の貴族の子息も何人かいた。
怖いもの見たさで見学に来たのかもしれない。
彼らの視線には、好奇心だけでなく、微かな戸惑いや、この闇の世界への興味が入り混じっていた。
まさに清濁を飲み込んだ一大イベントであり、魑魅魍魎が跋扈する悪の祭典。
だが、この危険な雰囲気が、俺の心を妙に高揚させた。
背筋がぞくりと粟立ち、血が騒ぐような感覚。これは、劇場を舞台に抱く創造の高揚感とはまた違う、より根源的な興奮だった。
***
一通り会場を見て回り、俺たちはオークションのメイン会場となる、遺跡の中央に設えられた円形のホールへと足を踏み入れる。
そこは、闘技場のようなすり鉢状の空間になっており、中央のステージを囲むように、番号が振られた豪奢なボックス席が幾重にも並んでいた。柔らかなベルベットの感触が指先に心地よい。
俺たちは、事前に手配されていた席に着く。
周囲から聞こえる低いざわめきが、徐々に期待のこもった熱気に変わっていくのが肌で感じられた。汗の匂い、香水の匂い、そして微かな血の匂いさえ混じるような、濃密な空気。
「ぜ、ゼノス様……。なんだか、とんでもない場所に来てしまいましたな……」
バルタザールは、完全に場の空気に呑まれて、額の脂汗がさらに増えていた。
その手は固く握りしめられ、微かに震えているのが見て取れる。
「落ち着け、バルタザール。お前はザイツ商会を代表してここにいるんだ。そして俺の『代理人』を任せている。堂々としていればいい。下手に動けば、すぐに足元をすくわれるぞ」
俺は声を潜めて忠告した。
その視線は、周囲の怪しい陰を警戒するようにゆっくりと巡る。
「は、はいぃッ!」
バルタザールの声は、わずかに震えていたが、俺の言葉に少しだけ平静を取り戻したようだった。
やがて、会場の照明がゆっくりと落ち、巨大な遺跡ホール全体が深い闇に沈む。
場を支配していたざわめきが嘘のように静まり返り、一瞬の静寂が訪れた。
張り詰めた緊張感が、肌をピリピリと刺す。
静寂を破るように――
中央のステージに眩いスポットライトが閃光のように当たった。
漆黒のタキシードに身を包んだ、仮面姿のオークショニアが登場する。
彼の仮面は、どこか無機質な微笑みを湛えているようだった。
「紳士淑女の皆様、長らくお待たせいたしました! これより三日間にわたり、皆様の飽くなき欲望を満たす、至高の宴、『影の響宴』を開会いたします!」
オークショニアのよく通る、しかしどこか冷たい声が、残響を伴ってホール全体に響き渡る。その声に煽られるように、観客たちのボルテージが一気に上がり、熱気を帯びたどよめきが、再びホールを包み込んだ。
それは、飢えた獣たちが、獲物を前にして発する唸り声にも似ていた。
「それでは皆様、心ゆくまで、この闇の饗宴をお楽しみください! ――さあ、記念すべき最初の『商品』はこちらでございます!」
重々しい金属の軋む音が、地下空間に響き渡る。
ステージの奥から、一つの鉄格子に覆われた檻がゆっくりと、しかし確実に運び出されてきた。スポットライトが、その檻の中を照らし出す。
檻の中に捕らわれていたのは、巨大な魔獣――
いきなりの目玉商品の登場に、競りは瞬く間に過熱していく。
いいぞ。
せいぜい散財してくれたまえ。
俺は、これから始まる狂乱の宴を静かに見据え、口元に微かな笑みを浮かべた。
その笑みは、期待と、そして冷たい計算を含んでいた。
俺の狙いは最終日。
それまではじっくりと見物させてもらおうか。
この闇の祭典が、俺に何をもたらすのか。
あるいは、何を奪うのか。




