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第2話 死を前にした本能と、消えた奴隷紋

 途方に暮れた面持ちで、俺は親父の執務室を出る。


 廊下には、夕暮れの重い空気が満ちていた。


 自室へ戻る足取りは、まるで死刑囚のようだった。石畳に鈍く響く足音が、胸に鉛のように響く。俺は明日、死ぬことになった。その事実が全身を締め付ける。


 決闘を言い渡されたのだ。


 しかも、準備期間はたった1日。

 明日が俺の命日になる。魔力ゼロの俺に、1日で用意できるものなど何もない。絶望感が胃の底に沈み込む。


 俺の兄、レオン・グリムロック。

 彼はグリムロック家の嫡男で、次期辺境伯だ。ゲーム内では「帝国最強の呼び声高い闇の魔術師」として名を馳せていた。その名は、畏敬の念と同時に、ある種の戦慄をもたらすものだった。


 兄貴は今頃、この広大な屋敷のどこかで、冷たい笑みを浮かべているだろう。

 グリムロック家が常時蓄えている「魔力持ちの平民」の中から、選りすぐりの奴隷で兵を量産しているはずだ。


 この世界の奴隷契約にはいくつか種類がある。

 魔力を持たない平民は、相手の同意があれば「奴隷契約書」で簡単に奴隷にできる。だが、戦闘に使えるほどの魔力を持った平民は、その魔力によって契約書の効力を弾いてしまう。


 だから貴族たちは、自分の魔力を直接相手に込めることで、強制的に使役する。 

 それが「魔力奴隷」だ。


 奴隷となった平民は、主の魔力と不可分に結びつき、その意志に逆らうことはできない。彼らの自由は奪われ、ただ道具として使われる。


 兄貴は、その魔力奴隷を何十体も従えることができるはずだ。

 そうなると俺は、決闘で複数人を相手取ることになる。


 しかも、魔力奴隷は主から魔力を供給されることで、通常の平民ではありえないほどの強力な魔法を行使できる。兄の魔力奴隷が放つ魔法は、城壁すら容易く砕くだろう。その破壊力を考えれば、俺に勝ち目などない。


「さて、俺はどうするか……」


 自室の重厚な木の扉を閉め、軋むベッドに仰向けになる。

 天井の染みをぼんやりと眺める。薄暗い部屋の空気は、重く澱んでいた。まるで俺の未来を映し出しているかのように。


 武門の家の息子として、剣術の稽古は積んできた。

 幼い頃からスパルタ教育を受けてきた甲斐あって、剣の腕前はそれなりに自信がある。並の騎士なら、1人で複数を相手にしても負けない自信はある。


 だが、それはあくまで剣と剣のぶつかり合いでの話だ。


 明日戦うことになるのは、遠距離から範囲攻撃を放ってくる魔法使いの集団。

 奴隷兵たちは、兄貴の魔力で強化され、容赦なく魔法を放ってくるだろう。こちらが剣で斬りかかるその前に、魔法の集中砲火で灰にされるのがオチだ。


 火花が散り、熱波が襲い、土煙が視界を奪う――

 そんな悪夢が頭をよぎる。


 体から力が抜けていく。


「――はぁ、どうにもならん」


 状況を打破する良いアイデアなど、一つも思い浮かばない。

 無気力に天井の染みを数えていると、「コンコン」と控えめなノックの音が響いた。静まり返った部屋に、その音は妙に大きく聞こえた。


「ゼノス様、お茶をお持ちいたしました」


 メイドの声だ。

 穏やかな、しかしどこか芯のある声。


 その声に、微かな安堵を覚えてしまった。忌々しい。

 「入れ」と返事をすると、扉がゆっくりと遠慮がちに開き、1人のメイドが部屋に入ってきた。


 彼女はグリムロック家につかえるメイドの1人――

 何かと俺に気に入られようと周りをチョロチョロして、世話を焼こうとしてくる。


 彼女の特徴は、その豊かな胸だ。


 メイド服の上からでもわかる、見事なプロポーション。

 歩くたびに微かに揺れるそれが、否応なく視界に入る。


 名前は確か……リーリア、だったか。



「残念だったな、リーリア。俺は魔力ゼロで追放される身だ。取り入ってもいいことはないぞ」


 俺はわざと、冷たい声で言った。


 突き放すような響きだったろうな。


 ――どうせ明日には死ぬ身だ。

 これ以上、誰かを巻き込みたくはない。


 彼女は俺の言葉に、表情一つ変えずに答えた。


 声は落ち着いていて、感情を読み取れない。

 ただ、俺の前に静かに立つ。


「存じております。ですが関係ありません。お茶をお持ちいたしました」


 ティーポットをサイドテーブルに静かに置き、湯気の立つカップを俺に差し出す。温かい蒸気が、微かに香りを運んでくる。


 甘く香ばしい匂い。


 彼女の瞳には、憐れみでも嘲りでもなく、ただ静かな、それでいて確固たる意思のようなものが宿っていた。深く、澄んだ瞳が、まっすぐに俺を見つめる。


「……ふん」


 俺はカップを受け取り、一口飲む。


 熱すぎず、冷たすぎず、ちょうどいい温度。

 香ばしいハーブの香りが口いっぱいに広がり、張り詰めていた心が、つかの間の安らぎを得た。体の中を温かいものが流れ、強張っていた筋肉が少しだけ緩む。


 前世を思い出してから初めて、落ち着いた気分になれたかもしれない。ほんのわずかでも、死の恐怖から解放された気がした。


 カップを飲み干し、テーブルに戻すと、リーリアがおもむろに口を開いた。

 その声は、先ほどよりもいくらか切実な響きを持っていた。


「お逃げ下さい。グリム様。――私も協力いたします」


 逃げる?


 そんなことをしてどうにかなるものか。

 この王国のどこへ逃げたところで、グリムロック家から逃れられるはずがない。彼らの権力は、王国の隅々にまで及ぶ。


 それに、魔力ゼロの俺が1人で生き延びられるほど、この世界は甘くない。

 飢えと病気、あるいは野盗に襲われる。


 そんな未来しか見えない。



 だが、彼女の言葉は、俺の奥底に眠っていた本能を呼び覚ました。

 暗い淵から這い上がってくるような、死への恐怖。


 このままでは、明日、無様に殺される。

 生きたい。


 そのシンプルな欲求が、脳髄を痺れさせる。

 全身の血が熱くなり、抗いがたい衝動が込み上げた。


 その恐怖が、俺の理性を麻痺させた。

 思考よりも先に体が動く。


 俺は、彼女の手首を掴み、無理やりベッドの上へと引きずり込んだ。ごつごつとした俺の指が、彼女の華奢な手首に食い込む。熱い息が漏れる。


「ゼノス様っ!?」


 驚きに目を見開くリーリア。

 その声に、戸惑いと、ほんのわずかな恐れが混じっていた。


 彼女の白い肌が、薄暗い部屋の中で浮き立つ。


 俺は彼女の細い手首を掴んだまま、もう片方の手で、乱暴にメイド服のボタンを外そうとする。


 指先が震える。だが――


 命の危機が迫っている。

 本能が俺を突き動かした。


 目の前の柔らかな存在に、ただ身を委ねたい。死を前にした男が、最後に求めるもの。それは、生の実感、そして……。


「いけません、グリム様! これ以上なさると、旦那様に気づかれてしまいます!」


 リーリアの悲鳴にも似た声が、俺の耳に届いた。

 その言葉に、俺の動きがぴたりと止まる。


 冷水を浴びせられたかのように、熱が引いていく。


 気づかれる?

 ――親父に?


 はだけたメイド服の隙間から、彼女の白い肌が露わになる。


 その胸元に、奇妙な文様が浮かび上がっているのが見えた。

 漆黒の複雑な紋様が、肌に焼き付いたように広がっている。


 それは、奴隷紋。


 そうか、彼女も奴隷だったな。

 この屋敷で働くメイドの多くが、そうであるように。


 その事実が、脳裏に突き刺さる。



 この世界の奴隷紋は、奴隷契約書と魔力で繋がっている。


 所有奴隷が乱暴を受ければ、その情報は屋敷の主である親父に伝わってしまうのだ。権利者以外が奴隷に傷をつけたり、無理やり行為に及んだりすれば、奴隷契約書に何があったのかが自動的に加筆される。


 文字が浮かび上がり、親父の目に留まる。

 想像するだけで、ぞっとする。自分の醜態が、親父の嘲笑の種になる。


「くそっ……!」


 俺は、行為を止めた。


 本能のままに動いた自分が、心底嫌になる。


 情けない。


 恥ずかしさと自己嫌悪が、胸の中で渦巻く。

 だが、その時、ふと、ある衝動に駆られた。


 ――これが、最後のお別れだ。


 まるで磁石に引き寄せられるように、俺の指先が動く。

 俺は彼女の奴隷紋に触れて、そっと優しく撫でた。


 ひんやりとした肌の感触。



「……っ!?」


 撫でた瞬間、異変が起こった。

 奴隷紋に触れた指先から、微かな痺れが走る。


 リーリアの胸に刻まれていた漆黒の奴隷紋が、まるで水に溶けるかのように、嘘のように薄れていく。黒いインクが水に滲むように、そして急速に消え失せる。


 肌は、何もなかったかのように、滑らかな状態に戻っていた。


 まるで未踏の雪原のように――

 ただ白い、柔らかな肌。


 そこに刻まれていたはずの紋様は、跡形もなく消え去っていた。


「これは……まさか……」


 俺の、この手で、彼女の奴隷紋を消したのか?


 奴隷紋は、所有者の魔力と強固に結びついた契約の証だ。


 それを書き換えるには、所有者の魔力を大幅に超える力がなければ不可能なはず。

 ――いや、俺が起こした現象は、書き換えではない。

 リーリアの奴隷紋は「消えている」。魔法契約をなかったことにするなど、どれだけ魔力を込めようとも不可能だ。


 その常識が、目の前で崩れ去る。


 まるで、魔法そのものを打ち消すような力……。

 常識では考えられない現象を、俺が起こした。


「まさか、俺の魔力がゼロと計測されたのは……」


 魔力がないのではなく、あらゆる魔力を無効化するこの力の影響なのか……?

 もしそうなら、それはとんでもない能力だ。


 ゲームのラスボスが持っていた闇の召喚魔法とは全く違う、異質な力。

 この世界で、これほどの異常な現象を引き起こす力は、他に知らない。


 これは、俺の死を回避する、唯一の希望になるかもしれない。

 俺の詰んでしまった人生を覆す、まさかの逆転の兆し。


 胸の中に、今まで感じたことのない、熱い何かが込み上げてきた。



 いや、今はそんなことはどうでもいい。


 目の前には、はだけた姿でベッドに横たわった巨乳メイドがいるのだ。

 艶かしいほどの白い肌。


 奴隷紋が消えたということは、彼女はもう、誰の所有物でもない。


「……いいな」


 俺は短く、彼女に確認した。


 問いかけるような視線を送る。

 彼女は、少しだけ驚いたような顔をした後、すぐに表情を引き締め、即答した。


「……はい」


 その声には、一切の躊躇いがなかった。

 瞳には、静かな決意の色が宿っている。


 だとすれば、これ以上に優先すべきことなど何もない。

 明日死ぬかもしれないという恐怖を、今この瞬間の熱で埋め尽くす。


 まだ、兄貴に勝てると決まったわけではない。


 俺は死を前にした恐怖を紛らわすために、女性の優しさと抱擁を求めた。

 そして、彼女は、静かにそれを受け入れてくれた。


 闇に包まれる部屋で、二つの影が重なり合う。


 その夜は、俺にとって、人生で最も長く、そして最も熱い夜となった。

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