第19話 暴君の目覚めと、ヒロインの危機
ピンクの髪の伯爵令嬢、リゼル・ブランシェットが我が家を訪れた翌日――
俺はいつものように学園の門をくぐった。
石造りのアーチを抜けると、朝特有のざわめきが耳に届く。生徒たちの笑い声や、教師の低い声が混じり合い、学園は日常の喧騒に満ちていた。
リゼルの婚約者であるルカ・ドルトンは、今日学園を休んでいた。
アシュラフが「面白い実験」に使うと言っていた奴だ。
彼の不在に、ふと疑問が頭をよぎる。
「……何かあったのか?」
しかし、ルカ・ドルトンの優先順位は俺の中で高くはない。
どうでもいい雑魚キャラの動向など、気にするだけ無駄である。
すぐに彼の不在を忘れ、目の前の授業に意識を集中させる。
その日は何事もなく時間が過ぎ、午後の魔力操作の実習授業になった。
広大な訓練場には、他の生徒が汗だくになりながら魔力を練る中、魔力ゼロの俺は彼らの訓練を「見学」する。
訓練場の隅、日差しが心地よく差し込む場所に、俺のために用意させた特注の椅子とテーブルが置かれていた。
磨き上げられた木肌は滑らかで、厚手のクッションは体を優しく包み込む。
そこに深く腰かけ、読書を嗜む。
テーブルの上には、白い湯気を立てる淹れたてのハーブティーと、王都で人気の菓子店の焼き菓子。甘い香りが微かに漂う。
上級貴族、グリムロック家の跡取りとして――
俺は当たり前の特別扱いを享受している。
他生徒からの視線?
そんなもの、気にする必要はない。
魔力ゼロだとバカにして陰口をたたいている奴らも、直接声をかければへりくだってきた。生徒も教師も表立って逆らってくることはない。
それに気づいてからは、周りからの視線は気にならなくなった。
――というわけで、この時間は読書を嗜むことにしている。
最近読んでいるのは恋愛小説だ。
俺はヒロインの恋の行方にハラハラドキドキしていた。
この先、どうなるんだ。
次のページをめくろうとした。まさにその時――
訓練場の入り口に、一人の男が現れた。
ルカ・ドルトンだ。
奴の姿は、昨日までの卑屈な三下貴族の面影を微塵も感じさせない。
むしろ、全身から不穏な空気を澱のように醸し出している。
いつもは弱々しい魔力しか感じなかったはずなのに、今のルカからは獲物を狙う獣のような、悍ましいプレッシャーが波のように押し寄せてくる。
空気が重く、肌が粟立つ。
ルカはゆっくりと、まるで獲物を追い詰めるかのように教師の元へ歩み寄り、授業に遅れたことを一言、事務的に詫びた。
そして、彼の視線はまっすぐにリゼル・ブランシェットを捉える。
その瞳は冷たく、凍てつくような光を宿していた。
「これから訓練をする。相手をしろ」
ルカはそう言うと、間髪入れずに漆黒の魔力の塊をリゼルにぶつけた。
どっ!
鈍い音と共に――
リゼルの華奢な体が吹き飛ばされる。
砂埃が舞い上がり、訓練場の空気が一変した。
「キャッ!」
甲高い悲鳴が訓練場に響き渡る。
昨日までのルカではありえない、常軌を逸した膨大な魔力だ。
その圧倒的な力に翻弄されながらも、ルカはリゼルに魔力をぶつけ続けた。
まるで虫けらをいたぶるかのように……。
一方的で、悪意に満ちた攻撃が続く。
リゼルは何とか対抗しようとするが、魔力量が違い過ぎて攻撃をしのぐのがやっとだ。可憐なピンク色の髪が乱れ、顔に薄汚れた砂が付着している。
愛らしい瞳には恐怖が宿り、涙がにじむ。
優雅さを纏っていた貴族令嬢の面影は、見る見るうちに失われていった。
やがて魔力も尽き、一方的にぼろぼろにされてしまった。
地面にうずくまり、もはや反撃の術もない。
「そっ、そこまでっ!!」
慌てて教師が割って入ろうとするが、ルカはその制止を無視してリゼルの元へと歩いていく。教師の顔は蒼白だ。
今のルカから放たれる魔力は、並の教師では太刀打ちできないレベルなのだろう。その場に立ち尽くす教師の額には、脂汗が滲んでいる。
「おい、いつまで寝てるんだ? 早く立てよ」
ルカの声には一切の慈悲も感情もなかった。
ただ、冷たく、感情のない命令だけが響く。
「……も、もう、魔力がないわ。私の負けよ」
リゼルの声はか細く、地面に這いつくばったまま、蚊の鳴くような声で負けを宣言した。しかし――
どかっ!
乾いた音が響き渡る。
負けを宣言したリゼルの顔を、ルカが容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
泥にまみれた彼女の頬に、赤い線が刻まれる。
ルカの顔が憎悪に歪む。
その醜い表情は、もはや人間のものではなかった。
「お前はこの俺に、ずっと屈辱を加えてきたんだ。それで許すと思うなよ」
「ぐっ……うぅ……」
周りの生徒がルカを止めようと様子をうかがうが、ルカの放つプレッシャーに気圧されて近寄れないでいる。
誰もが恐怖に顔を歪ませ、その場から一歩も動けない。
教師ですら、汗をだらだら流しながら立ち尽くしている。
訓練場に満ちる、重苦しい沈黙。
ルカはさらに魔力を集め始めた。
手のひらに漆黒の魔力の塊が形成され、不気味な光を放つ。
その狙いは、地面にうずくまるリゼルだ。
これはただの攻撃ではない。
明確な殺意が、その塊から感じられた。
「やめてほしければ謝罪しろ。もちろん、ただ謝るだけじゃだめだぞ。その場で服を脱いで全裸になれ。それから土下座して謝るんだ」
追い詰められるリゼル。
彼女の顔は絶望に染まり、全身が小刻みに震えている。
その震えは、恐怖だけでなく、屈辱と怒りも滲ませていた。
「そ、そんなの無理よ……」
――どか!
再び、ルカがリゼルの顔を蹴る。
その足には明確な苛立ちが込められていた。
リゼルの小柄な体が宙に浮き、再び地面に叩きつけられる。
「この俺に逆らってんじゃねーぞ!!」
リゼルは屈辱に顔をゆがめて目を閉じる。
もう魔力も体力も残っていないのだろう。
抵抗する術を失い、観念したかのように、彼女は震える手で服のボタンに指をかけた。その白い指が、ゆっくりとボタンに触れる。
***
その瞬間、俺の体が勝手に動いていた。
気が付けば、俺はルカの目の前に立っていた。
リゼルをこの男から庇う位置。
俺はつい、瞬間移動を使ってしまった。
「やってしまった」と思うが、もう遅い。
まあいい、みんなルカの変貌と膨大な魔力の方に気を取られている。
突然現れた俺にたいした疑問は持たないだろう。
気づかないうちに接近していた俺が、リゼルをかばっている。
それくらいの認識に収まるはずだ。たぶん。
とにかく俺は、二人の間に割って入った。
そして、いいところで邪魔をされたルカは――
目の前に立ちふさがった俺にブチ切れた。
その顔は、憎悪と怒りで醜く歪んでいる。
血走った瞳が俺を睨みつける。
「何のつもりだ? 『敗北のゼロ』、お前如きがこの俺に逆らうとでもいうのか!!」
――こいつ、俺にボコられたことを忘れてるのか?
いや、違うな。
こいつの認識だと、俺は魔力ゼロの落ちこぼれのままのようだ。
あくまで強いのは「魔人アシュラフ」なのだろう。
目の前の俺を、ただの雑魚だと見下している。
「に、逃げなさい。無茶よ!」
俺の後ろから、リゼルがそう叫んだ。
その声は、震えながらも俺を気遣っている。痛みと恐怖に喘ぎながらも、他人を案じるその声に、僅かながら心が動く。
けれど大丈夫だ。
どれだけ魔力が大きくても――
俺の魔封印の前では、こいつは無力。
「ふはははっ! もう、遅い! 魔力ゼロの分際で俺の前に立ちふさがった罪、万死に値する!!」
ルカは得意の水魔法で俺を攻撃しようと、その頭上に巨大な水の塊を創り始める。黒い水塊は、見る見るうちに直径二メートルを超えるほどに膨れ上がった。
空気が重く澱み、ひんやりとした水滴が宙に浮き始める。
その攻撃をまともに喰らえば死ぬだろう。
だが――
「……お前が死ね」
どかっ!!
俺はルカが魔法を放つ、その一瞬前に奴の顔面をぶん殴った。
魔力を込めるでもなく、ただ純粋な膂力で。
重い衝撃が拳に伝わる。
ルカはまるで石ころのように地面に転がり、気絶した。
意識を失った体は、自分で作った巨大な水を頭から浴びて、そのままぴくりとも動かずに伸びている。
俺に殴られたことによって、奴が溜め込んでいた膨大な魔力は、呆気なく霧散したようだ。
周囲の重苦しい空気も、少しだけ軽くなった。
「この距離だったら魔法を放つよりも、殴った方が早い」
俺はクラスメイト達に聞こえるように大きめの声で、わざとらしくそう言った。
学校の生徒達には、まだ俺を侮っていてほしい。
俺の勝因は「相手との距離」だったと強調することで、俺の能力の真相をごまかしておく。
(それにしても、これがアシュラフの言っていた実験か)
人間に魔人の魔力を与えて強化したのだろうが、急激に魔力が増えたルカは欲望のままに暴走してしまったようだ。
まったく、はた迷惑なことだ。
俺は呆れたように、気絶したルカを見下ろした。




