第17話 暴力系ヒロインと、欲望に忠実な変態
俺はザイツ商会の応接室から離れた客室、その奥まったソファに深く身を預けた。薄暗い室内は、外部の光を遮るように静かで、独り思索に耽るには最適な空間だ。
指先で、耳に仕込んだピアス型の魔道具に触れる。
それは米粒ほどの大きさで、銀細工の装飾に紛れてほとんど目立たない。
この盗聴器越しに、応接室の会話は淀みなく俺の耳に届く。まるで、その場にいるかのように鮮明だった。
『――本日はどのようなご用件で?』
バルタザールの作ったようなわざとらしいビジネススマイルが、その声のトーンからありありと目に浮かんだ。
営業特有の、腹の探り合いを感じさせる響きだ。
『単刀直入に言うわ。私の魔法奴隷、カイには妹がいるの。その子を買いにきたわ。すぐに売りなさい』
リゼル・ブランシェット。
ゲームでは、最初は高飛車だが、徐々に情の厚さを見せるキャラクターだった。
その声には、一切の無駄を排した、有無を言わせぬ苛立ちが滲んでいる。
『えっと、しばしお待ちを……書類を確認しますので……ああ、その奴隷でしたら、もうすでに販売済みですね』
バルタザールの声に、わずかな動揺が混じった。
事務的な言葉の裏に、狼狽が見え隠れする。
リゼルに恩を売るチャンスなのに、お目当ての奴隷がいないことに焦っているのだろう。
『なんですって!? どこの誰に売ったのよ、教えなさい!!』
リゼルの声のトーンが、一段階、低くなった。
これは本気でキレる前兆だ。
その声には、冷たい怒気が明確に含まれている。
『そ、それは、いかにブランシェット様とは言え、顧客の情報を教えることはできません。商会の信用問題に関わりますので……』
バルタザールの声が、さらに弱々しくなった。
『なんですってぇ~~ッ! 教えないと、この屋敷ごとあんたを風で切り刻んで、粉々にしてやるわよ!』
キィン、と魔力が空気中で凝縮される微かな音が、盗聴器越しに伝わってくる。
耳の奥で、風の魔素が束ねられるような、独特の振動を感じた。
どうやらリゼルは、本気で脅しにかかっているらしい。
彼女の得意魔法は、カマイタチのように鋭い風の刃を生み出すものだった。
バルタザールのような小太りなど、一瞬で細切れの肉塊になる。
(まあ、いくらなんでも、本当に攻撃魔法を撃つことはないだろう。ブランシェット家の令嬢が、白昼堂々奴隷商人を殺害したとあっては、ただでは済まない。彼女もそこまで考えなしではないはずだ)
それにゲームにおいて――
彼女が「奴隷商人を殺害した」と言及されたことはなかった。
ここでリゼルが、バルタザールを殺すことはないだろう。
俺は冷静に状況を分析した。
***
俺の記憶にあるゲームのシナリオでは、こうだ。
ゲームの主人公リアム王子は光の神「アウロラ」の加護を受け、奴隷制度や隣国との戦争、亜人種への差別に反対するキャラクターである。
リゼルは、リアム王子との交流を通じて、自身の魔法奴隷であるカイに心を開いていく。そして、彼と共に奴隷として売られ、生き別れとなった妹を探し出し、買い取って、兄弟で暮らせるようにしてやろうとする。
そのカイの妹こそ、今、俺の屋敷でメイドとして働いているミナに他ならない。
ゲームシナリオではこの先――
リゼルは調査の末に、ミナが俺に購入されたことを突き止める。
そして、奴隷を譲るよう交渉に来るのだが……その時にはもう、ミナは「高価な食器を割った」という罪で、悪役貴族ゼノスによって惨殺された後だった。
それを知ったリゼルとカイは激昂し、俺と決定的に対立することになる。それが、彼女がリアム王子の陣営に加わる大きなきっかけとなるイベントの一つだった。
(……だが、おかしいな)
この転生世界で、リアムとリゼルが親しくしているところは見ていない。
どうやら彼女は、王子の影響抜きで、カイとの絆を深めていたようだ。
それはそれで結構なことだ。
俺にとっては、むしろ好都合かもしれない。
(しかし、この後どうやってリゼルは、ミナの居場所を見つけるんだろう?)
奴隷商人が顧客情報を漏らすなど、自殺行為に等しい。
トラブルの元凶にしかならないからだ。
彼女はこの先、どうやって販売先の情報を掴むことになる?
その過程は描かれていなかった。
俺がそんなことを考えていると、盗聴器の向こうで、バルタザールの情けない悲鳴のような声が響いた。
『お、お待ちください! 教えないとは言っていません!!』
……ん?
『あんた、さっきそう言ったじゃないの?』
リゼルの呆れたような声が聞こえる。
その声には、露骨な嫌悪感が含まれていた。
『いっ、いえ! ただで教えることはできませんと、申し上げたかったのです!』
バルタザールの声は、一転して狡猾な響きを帯びた。
命の危機を前に、商売人の汚い根性を見せ始めたようだ。
『……お金が欲しいの? いくら? 言いなさい』
リゼルはカイのために、妹の情報を購入する気のようだ。
ただの同情で、そこまではしないだろう。
つまり彼女は……。
自覚的、あるいは無自覚に、カイに対して好意を抱いているのだ。
『お、お金では、この情報は売れませんな。私が欲しいのは、あなた様の……その、お召しになっているパンツで、す……ぼごっ!!』
鈍い打撃音が響いた。
おそらく、リゼルがバルタザールを拳で殴った音だろう。
『……本気で殺すわよ。あんた』
可愛らしいリゼルの、低い声。
それは本物の殺意を宿していた。
『あっ、あぐっ……じょ、冗談ではございません! 顧客情報を売るのですから、それ相応の対価を頂かなければ……って、うおっ!? ま、待ってください! その風魔法はいけません! いけませんて! 分かりました、こちらも妥協します! あなた様がお穿きになっているソックス! そう、靴下で手を打ちましょう!』
バルタザールの声は、恐怖に引きつっていた。
しかし、その根底には、なおも消えぬ欲望が蠢いているのがわかる。
『…………ちっ、仕方ないわね』
舌打ちの後、衣擦れの音が微かに聞こえた。
布が擦れるわずかな音。
おそらく、リゼルが靴下を脱ぐ動作だろう。
あのシナリオの裏で、こんな茶番が繰り広げられていたとは。
俺はソファの上で、笑い出すのを必死でこらえた。
***
やがて、リゼルが部屋を出ていく気配がした。
足音が廊下を遠ざかり、やがて完全に途絶える。その静寂を確認し、俺は盗聴器のスイッチを切り、何食わぬ顔で応接室へと戻った。
「お待たせいたしました、ゼノス様」
バルタザールは、片頬を大きく腫らしながらも、俺にへりくだった態度を見せた。彼の額には、脂汗がにじんでいる。
「ああ、別に構わんよ。ところで、顔が腫れているようだが、大丈夫か?」
俺はあくまでも平静を装い、心配そうに尋ねた。
「あっ、えっと、これはその……階段で少々足を滑らせまして」
バルタザールは、慌てて言い訳をする。
その視線は泳いでいる。
「そうか。ハンカチでもあてがっておけばどうだ?」
俺がそう促すと、バルタザールは懐に手を入れた。
何かを取り出そうとするその手には、焦りが混じっている。
そのため間違えたのだ。彼が取り出したのはハンカチではなく、わずかに湿った、リゼルのものらしき靴下。
バルタザールは自分の過ちに気づく、そして――
「……すーはー、すーはー、……うぉ、くっさ♡」
何の躊躇いもなく、靴下の臭いを嗅ぎだした。
恍惚の表情で、深く匂いを吸い込んでいる。
「すーはー、すーはー」
その顔には、隠しようのない陶酔が浮かんでいた。
――後にしろよ。
常識的に考えれば、臭いを嗅ぎたくなっても我慢する場面だ。
しかし、我慢できなかったようだ。
なにかと、己の欲望に正直なやつである。
その姿は、ある意味で清々しい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
翌日。
ブランシェット家の馬車が、俺の屋敷の前に止まった。
磨き上げられた漆黒の車体は、貴族の威厳を静かに主張している。馬車の車輪が敷石を軋ませる、硬質な音が庭に響き渡った。
メイドから来客を告げられ、俺は応接室へと向かう。
そこには、リゼル・ブランシェットと、その隣に控える魔法奴隷のカイが、微かに緊張した面持ちで立っていた。彼らの視線が、俺の動きをわずかに追っている。
リゼルの表情は昨日の怒りから一転、警戒と決意の色を帯びていた。
俺はソファに深く腰掛け、不敵な笑みを浮かべる。
「ようこそ、ブランシェット嬢。俺に何の用かな?」
俺の言葉は、まるで獲物を品定めするかのような響きを帯びていた。
さて、ゲームでは彼女たちとの決裂が決定的となったこのイベント。
この世界では、どう料理してやろうか。
彼女たちを取り込むか、それとも……。




