第16話 裏社会の小物
エレノアへの「しつけ」は、順調に進んでいた。
彼女の瞳には、決して屈しないという高潔な意思が宿っていた。
揺るぎない抵抗の光は今も確かに灯っている――
だが、反撃の術はない。
だからこそ彼女は静かに現状を受け入れ、時を待つように沈黙している。
そして俺から与えられる痛みに、わずかに頬を赤らめる。
まるで新しい刺激に目覚めたかのようなその様子を、俺は満足感を伴う視線で観察していた。
エレノアの調教と並行し、俺は次の布石を打っていた。
まずは表社会からだ。王都に名を馳せる有力貴族の当主たちと次々に顔を合わせ、グリムロック家の次期当主としての立場を内外に知らしめた。
きらびやかな応接間、高価な香水の匂い、そして貴族特有の淀んだ空気が俺を囲むが、臆することはない。名門ヴァーミリオン家との婚約が継続している事実が、俺の立場をより有利に運んでくれた。
表社会での顔合わせが一通り済むと、俺は本格的に裏社会との接触を図った。
王都の闇を牛耳る存在――
冷酷な暗殺組織『囁きの影』の密やかな本拠地。
夜の欲望が渦巻く高級娼館『夜の帳』のけばけばしい内装。
そして血と汗が飛び散る非合法闘技場『奈落の底』の澱んだ空気。
それぞれの組織のトップたちと、俺は淀みなく面会を重ねた。
どの場所も、独特の匂いと重い空気が漂っていた。
国境を任される武門、グリムロック家の次期当主という肩書は、裏社会の人間たちにとっても無視できない重みを持つらしい。
俺が面談を申し入れると、どの組織も例外なくトップが直接顔を出し、丁重な態度ながらも、その奥底に探るような冷たい視線を宿して俺を迎えた。
彼らの顔には、長年裏社会で培われた狡猾さと、獲物を値踏みするような鋭さが混じっていた。俺は彼らと当たり障りのない会話を交わしながら、将来的な協力関係を匂わせることで、まずは互いの顔を繋いだ。
そして今日、俺は一連の裏社会との会談の締めくくりとして、グリムロック家とも古くから付き合いのある奴隷商人、ラザラス・ザイツの屋敷を訪れていた。
屋敷全体を覆う重苦しい空気は、外の明るい日差しを拒むかのように薄暗く、この場所の性質を雄弁に物語っているかのようだった。
「いやぁ、これはこれは、ゼノス様。ようこそお越しくださいました。父、ラザラスに代わり、この私がご挨拶させていただきます。バルタザール・ザイツと申します」
通された応接室で俺を迎えたのは、当主ラザラスではなく、その息子だった。
歳は俺と同じくらいか、少し下だろう。
父親とは似ても似つかない、贅肉をまとった小太りの体型。脂ぎった顔には子供じみた傲慢さが浮かび、厚い唇の端には食べかけの菓子のカスが張り付いている。
高価そうな仕立ての服は、不注意に汚されており、手入れの行き届いていない黒髪が、その育ちの良さと精神の幼稚さを同時に物語っていた。
甘ったるい菓子の匂いが、彼から漂ってくる。
(親の七光りを満身に浴びた、典型的な三代目だな。だが、こういう分かりやすい小物は嫌いじゃない。それに――器の小さな人物も「使いよう」だ)
俺は内心でそう評価しながら、目の前の豪奢な椅子に深く腰を下ろした。
革張りの座面が、わずかに軋む。
今回の目的は、新たな事業のための人材確保。
そのための相談相手として――
今、俺の目の前にいるこの男を試そうというわけだ。
「ゼノス様がわざわざお越しくださるとは、我がザイツ商会も光栄の至り。して、本日のご用件とは?」
バルタザールは、父親の口調を真似たような尊大な態度で、わざとらしく顎を引いて尋ねてくる。その薄っぺらい尊大さは、なかなかに面白い。
「単刀直入に言おう。俺はある事業を興そうと思っている。そのための人材と、裏社会との繋がりを持つお前の知恵を借りたい」
「じ、事業、でございますか……?」
バルタザールの顔に、瞬時に戸惑いの色が浮かんだ。
彼の小さな目が、不安げに揺れているのが見て取れる。
俺は構想を語り始めた。
それは、コスプレ喫茶だ。
前世の知識を活かした、この世界では画期的な店である。
当初はメイド喫茶を考えたが、この世界の貴族にとってメイドは日常で見慣れた存在。それよりも、もっと独創的な要素が必要だと判断した。
「……というわけで、まずはウエイトレスに獣人族のコスプレをさせて、客をもてなす店を作ろうと思っている」
「け、けもみみ? こすぷれ? ……ゼノス様、失礼ながら、何を訳の分からないことを……。従業員に亜人種の格好をさせる?? それではあまりに奇抜すぎて、お客様が入るかどうか……」
えっ、そうなの?
――ウケると思ったのに……。
バルタザールの脂汗を浮かべた顔には、率直な困惑が隠しきれない。
彼の小さな目が、狼狽と困惑で泳いでいるのがはっきりと分かった。どうやら、この世界の人間にはまだ早すぎたらしい。
「ふむ……。では、お前から何か良い案はあるか?」
俺がそう振ると、バルタザールは待ってましたとばかりに身を乗り出した。
その瞳に、得意げな光が宿る。
役に立つところを見せたいという、彼の見栄っ張りの性分が顔を出したようだ。
「独創的なコンテンツを提供したいというご要望……でしたら、ゼノス様! 砂漠の王国ザハラの舞踊などはいかがでしょう! 妖艶な踊り子たちによる伝統的な舞を見ながら、異国の料理を楽しむ……これならば、高貴な方々にもきっとお受けになりますぞ!」
バルタザールの声には、確かな自信がこもっていた。
彼の顔に浮かぶ、わずかな興奮が見て取れる。
「なるほどな。劇場型のレストラン、か。悪くない」
俺はバルタザールの提案を受け入れた。
俺の目的は店の形態そのものではない。その先に真の目的がある。
資金集め、情報収集、そして、グリムロックの屋敷とは別の、非公式な会談に使える場所の確保。そして、裏社会との接点と拠点確保。
それこそが、この事業の真の狙いだった。
「よし、その線で進めよう。店の立ち上げと従業員の確保は、お前に任せる。店舗の確保と客を呼べる踊り子をそろえておけ。資金は十分にある。金に糸目をつけるな」
「ほ、本当でございますか!?」
俺からの信頼と、予期せぬ大きな仕事の提案に、バルタザールの顔が欲望でテカテカと輝いた。その表情は、まるで札束の山でも見たかのようだった。
彼の喉から、ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえる。
俺の裁量で動かせる軍資金、および信用取引で引き出せる上限を合わせると――
約83万金貨。
金は腐るほどあるんだ。試しにこいつに任せてみよう。
しっかり働けよ。
俺がバルタザールと具体的な話を進めていると、不意に応接室の重厚な扉が、こん、こん、と小さく、しかしはっきりとノックされた。
「バルタザール様、お客様がお見えです」
「なんだ、今は取り込み中だぞ……それで、相手は誰だ?」
「ブランシェット伯爵家のリゼル様と、供の方一名が……」
その名を聞いた瞬間、バルタザールの顔色が変わった。彼の顔に、にやけたような喜色が浮かび上がり、その目はきらきらと輝いている。
そして、俺は「ゲームシナリオの記憶」を辿っていた。
(なるほど。ここで、その二人が奴隷商会を訪ねてくるわけだ)
その知識が、未来の出来事を予告してくれる。
目の前の展開は、ゲームのイベントのサイドストーリーというわけだ。
興味深い。
「ぜ、ゼノス様! まことに、まことに申し訳ないのですが……!」
バルタザールは、先ほどまでの尊大な態度から一変、懇願するように俺を見てきた。彼の目が、上目遣いに潤んでいる。
どうやら、彼はリゼルに並々ならぬ好意を抱いているらしい。
その分かりやすい反応に、思わず笑みがこぼれそうになるのをこらえた。
「彼女の相手をしたいので、少しだけ、ほんの少しだけ席を外してはいただけないでしょうか! このお話の続きは、また後ほど、必ず!」
グリムロック家の跡取りである俺に、なんと身勝手な要求だ。
甘やかされて育った、こいつらしい短絡的な思考が透けて見える。
だが、その程度のわがままは聞き入れてやろう。
俺は器がデカいからな。
「……いいだろう。少し席を外してやる。だが、この貸しは高くつくぞ」
俺は低い声で告げた。
バルタザールは、やった! とばかりに顔を輝かせ、深々と頭を下げた。
その姿は、まるで忠実な犬のようだ。
「あ、ありがとうございます!」
俺は快く席を立つ。
その際、テーブルの裏に指先でそっと触れた。
指に隠していた一センチ四方の小さな紙が、音もなくテーブルの裏に吸い付くように付着する。それは、特殊な加工が施された盗聴用の魔道具だ。
「では、俺をあまり待たせるなよ」
俺はそう言い残し、応接室の扉を静かに閉めた。
廊下に出た俺の耳に、応接室の中からバルタザールの興奮した声が微かに届く。
彼がリゼルとどんな会話を繰り広げるのか、想像するだけで面白かった。
さて、ゲームシナリオの裏側を、じっくりと見物させてもらおうか。




