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第13話 悪役令嬢と生徒会長

 深夜の書斎。

 琥珀色の間接照明が、静かに磨かれた机を照らしていた。


 部屋に満ちる上質な木の香りが、研ぎ澄まされた思考を邪魔しない。

 俺はそこに置かれたビー玉ほどのサイズの、手のひらに収まる水晶を、じっと見つめる。表面はひんやりと冷たく、滑らかな触感だ。


 その奥で、ぼんやりとだが、セシリアとリアム王子の絡み合う姿が蠢いているのが見て取れた。


 理解不能な興奮とわずかな憎悪が、俺の心を熱くする。


 これは、俺の精神をゴリゴリと削りながら完成させた、血と涙とNTRの結晶。――いや、セシリアとリアム王子の「醜聞」を完璧に捉えた、俺の切り札と言うべきだろう。


「ゼノス様、お疲れ様です」

「ご主人様、大丈夫?」


 ふと我に返ると、甘く香る空気の中に、黒のバニーガール姿のリーリアと、白ウサギの着ぐるみを着たミナが、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。


 その柔らかな視線に、張り詰めていた心がわずかに緩む。


 セクシーなのと可愛いのの暴力的なまでの癒やし効果がなければ、俺はとっくに正気を失っていたかもしれない。


 ああ、違うな――

 目的のためならどんな代償も厭わない、俺の狂気が、一時的に和らいだのだ。


「ふっ、お前たちのおかげでな」


 俺が二人の頭を軽く撫でてやると、彼女たちは嬉しそうに微笑んだ。


 リーリアの艶やかな髪は絹のように指を滑り、ミナの白いウサギ耳はふわふわと柔らかい。小さな温もりが、冷え切った俺の指先に伝わる。


(セシリアとリアムの『醜聞』は完璧な交渉材料になった。これはこれから、いくらでも使い道が出てくる……)


 俺は静かに水晶を懐にしまい、次の計画への決意を固めた。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 数日後。

 王立魔法学園アルカナムは、異様な熱気に包まれていた。


 アドラステア帝国からの転校生――

 皇女エリザベートが、今日この学園にやってくるのだ。


「あれが、帝国の姫君……」

「なんて美しい方だ……」

「敵国の姫がなぜ? 何か企みがあるに違いない」


 ざわめきが中央廊下に満ちる。


 生徒たちの視線が、まるで無数の矢のように、歩く一団に突き刺さる。

 賞賛、好奇、そして隠しきれない敵意。その中心で、エリザベート・アドラステアは、少しも臆することなく、凛とした様で前を見据えていた。


 夜空を映したような深い青い髪が、彼女の動きに合わせて静かに揺れる。その視線は、まるで氷のように冷たく、一切の感情を読み取らせない。


 背筋の伸びた立ち姿は、彼女が背負う帝国の威厳そのものだ。



 俺は柱の陰からその光景を冷静に観察していた。


(あれがエリザベート姫か。リアムの政略結婚の相手……。いずれ、お前も俺の支配下に置くことになるだろう)


 俺の口元に、誰にも気づかれぬ笑みが浮かんだ。


 その日から、学園の空気は少しずつ変わっていった。

 リアム王子とエリザベート姫が、ぎこちないながらも二人きりで会話する姿が、頻繁に目撃されるようになったのだ。


 周囲は「王子と帝国の姫が……」と噂し、二人の仲は、あっという間に公然の事実となっていく。


 その光景を、俺の婚約者であるセシリアが、少し離れた場所から見つめていた。

 一歩引いたその立ち姿。


 日差しを背に受け、その表情は陰影に沈んでいる。

 その横顔には、愛しい人を遠くから見つめるような寂しさが浮かんでいた。風が彼女の髪をそっと撫で、微かな寂寥感を漂わせる。


 彼女の瞳は、遠い空を見上げるかのように、静かに揺れていた。


 ***



「ゼノス様」


 図書室の書架の陰。


 人気のない場所で、セシリアが俺に声をかけてきた。埃っぽい紙とインクの匂いが微かに漂う、静寂に包まれた空間。


「手筈通り、リアム様との仲を深めておりますが。……我々の婚約破棄の件は、いつ公式に発表されるのですか……?」


 彼女の瞳には、隠しきれない焦りと不安が浮かんでいる。

 彼女は愛する王子のめかけになれればそれで満足なのだそうだ。


 しかしそのためには、俺との婚約を破棄しなければならない。

 そして――


 それ以上に、魔力ゼロの俺との結婚が心底嫌なのだろう。

 その感情が、顔の端々にありありと見て取れる。


 俺は彼女の不安を意にも介さず、静かに告げた。


「まだ時期ではない。焦りは禁物だ。ヴァーミリオン公爵を確実に納得させるには、もっとも効果的な瞬間を狙う必要がある。材料は揃った。後は時期を見計らうだけだ」


「……わかりましたわ」


 セシリアは不満げな表情を浮かべたが、俺の言葉に逆らうことはできず、小さく頷いてその場を去っていった。彼女の足音が、静かな図書室に虚しく響く。


 まるで、彼女の心に空いた穴の音のように。


 彼女の姿が見えなくなったのを確認し、俺が図書室を出ようとした、その時だった。


「ごきげんよう、グリムロック様」


 甘ったるく、しかしどこか冷たい声が、俺の足を止めた。

 まるで凍てついた蜜のような声。


 振り返ると、そこに立っていたのは、艶やかな紫色の巻き髪を揺らす令嬢――

 ヴィオレッタ・アザレア。


 豪華なレースで縁取られた扇で口元を隠し、俺を見下すような薄紫色の瞳を細めている。彼女の纏う香水の匂いが、甘く鼻を掠めた。


 獲物を定める蛇のような視線だ。


「魔力ゼロでありながら、次期当主の座を手に入れたとか。そのしぶとさ、わたくしは見込んでおりましてよ」


 彼女は俺の周りを品定めするように歩きながら、言葉を続ける。

 カツカツと、ヒールの音が静かな空間に響く。


 まるで獲物を囲むかのように、優雅に、しかし執拗に。


「あなたも、あの帝国の生意気な女が邪魔でしょう? リアム王子はわたくしのもの。あんな女に奪われてなるものですか。……わたくしに協力なされば、あなたにも利があるように取り計らいますわ」


 ――なるほど。


 リアム王子とエリザベートの仲を引き裂くために、俺を手駒として利用するつもりか。……悪役令嬢らしい、短絡的な筋書きだ。


 だが、残念ながら俺は、他人の筋書き通りに動く趣味はない。


「協力してやってもいいが」


 俺はヴィオレッタの提案を鼻で笑い、挑発的に言い放った。


 嘲笑が声に滲む。

 その声は、甘やかな毒のように、彼女の耳に届いたはずだ。


「報酬は金や地位じゃない。お前のその身体を貰おう」



「――ッ! ぶ、無礼者!!」


 瞬間、ヴィオレッタの顔が怒りで真っ赤に染まった。

 みるみるうちに、その白い肌が紅潮する。


 怒りに震える手が、豪華な扇を床に叩きつけた。


 カツン、と乾いた音が響く。

 そして、俺に向けて手のひらを突き出す。


「その汚らわしい口、二度と開けなくして差し上げますわ! さあ、そこに跪いてわたくしの靴をなめなさい!」


 彼女の瞳が妖しい光を放ち、強力な精神操作の魔力が俺に襲いかかる。

 並の者なら、一瞬で彼女の意のままに操られるだろう。


 だが――

 俺は、彼女の命令に従わない。


 魔力は、俺に届く直前で、まるで陽炎のように霧散し、消滅した。


 微かな風が吹き抜けたような感覚。

 何事もなかったかのように、静寂が戻る。


「悪い子には、お仕置きが必要だな」


 俺が平然と一歩踏み出すと、ヴィオレッタの顔から血の気が引いた。


 白蠟のような顔。

 その美しい顔に、恐怖の色が広がる。


「な……ぜ…? わたくしの魔法が……効かない!? ありえない!」


 彼女の得意魔法が、何の抵抗もなく無力化されたのだ。


 その事実に、彼女は混乱し、狼狽している。その瞳は、恐怖に大きく見開かれ、まるで壊れた人形のように震えていた。魔力を失った空虚な瞳。


 俺はゆっくりと彼女との距離を詰め、囁いた。

 吐息がかかるほどの距離まで。


 俺の影が、彼女の顔に長く落ちる。


「お前如きの魔法で、この俺を支配することなどできはしない。残念だったな」



「ひっ……!」


 俺は恐怖で動けないヴィオレッタの腕を掴み、壁に乱暴に追い詰める。


 硬い壁に、鈍い音が響く。

 彼女の腕の中で、骨が軋むような感触があった。


 そして、震える彼女の耳元で、宣告した。


「勘違いするな。俺とお前では、格が違う。二度と俺にくだらない話を持ちかけるな」



 プライドをズタズタにされ、未知の現象に恐怖したヴィオレッタは――

 小さな悲鳴を上げてその場から逃げ去っていった。


 ヒールの音が、遠ざかるにつれて消えていく。

 まるで、逃げ去る小動物の足音のように、か細く。


 俺はその後ろ姿を冷たく見送る。


(今はな。だが、お前もいずれ可愛がってやる。その時まで、大人しくしていることだ。あの高慢な顔が、快楽に歪む様を見るのが、今から楽しみだ)


 あの女の言うことをリアム王子がまともに取り合うことはないし、自分の失態を言い触らすような真似はしないだろう。

 口封じの必要はないと判断し、そのまま放置する。


 悪役令嬢も魅力的だが、今は攻略する時期ではない。

 俺のターゲットは、もっとも優先順位の高い相手……。


 王家の中枢にいる、あの人物だ。


 ***



 場面は変わり、放課後の生徒会室前。

 俺は生徒会役員の一人に、丁寧だが有無を言わせぬ口調で告げた。


「生徒会長、エレノア・アースガルド先輩にお話があります。取り次ぎをお願いしたい」


 役員は「魔力ゼロのお前が、なぜ『光の聖女』と称される会長に?」と訝しむような視線を向けてきたが、グリムロック家の次期当主からの正式な申し出を、無下にはできない。


 彼は一度、重厚な扉の奥へと消えていった。


 しばらくして、戻ってきた役員が、緊張した面持ちで俺に告げる。


「……会長がお待ちです。お一人でどうぞ、とのことです」


「そうかね」


 俺は静かな笑みを浮かべ、重厚なマホガニーの扉に手をかけた。


 俺の手には、王子とセシリアの痴態を収めた、あの水晶が冷たく握られていた。

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