第127話 森の天敵と星の雫
エルフの森シルヴァン。
日差しは西に傾き、木々は長く冷たい影を地面に落とし始めていた。夕闇が迫るにつれ、森の息遣いが深くなる。
俺は四人のエルフ――リフィア、シルフィア、フローラ、そして斥候役のルナールと共に、探索を再開した。
数日ぶりの森は、春先の冷気を肌に強く感じさせる。鼻腔をくすぐるのは、湿った土と、深く朽ちかけた葉の匂い。
これまでの探索で、湧き水の池から【精霊の木霊】を採取済みだ。
俺たちが目指すのは、この地に太古から根を張る巨大な大樹。そこなら、最高の魔法素材が手に入るはずだった。
森が徐々に暗転していく中、俺たちは慎重に歩を進めていた。
その時、リフィア、シルフィア、フローラの三人が、同時にぴたりと足を止める。彼女たちの尖った耳が、獲物を捉えた獣のように微かに震えた。
「ゼノス様。どうやら、この先で緊急事態が発生したようです」
リフィアが、エメラルドグリーンの瞳に鋭い光を宿し、声を落とした。
先行しているのは斥候のルナールだ。
彼女の身に異変が起きたらしい。
ルナールは、特殊な音域の笛で仲間に状況を知らせる手筈になっている。俺の耳には届かない微かな音を、エルフたちの人間離れした聴覚が捉えたのだ。
そして、彼女たちが聞いた笛の合図は、最悪のパターン――それはルナールの身に、命の危険が迫っていることを意味している。
俺は、腰の剣を抜き放つ。
「行くぞ!」
静寂を破って駆けだした俺の後を、三人のエルフたちが音もなく追尾する。
***
現場に躍り出た俺が見たものは、透明な糸で編まれた巨大な網に絡めとられ、宙吊りになっているルナール。――彼女は、まるで美しい蝶が無慈悲な罠にかかったかのように捕らわれていた。
そして、彼女の前にいたのは、巨大な蜘蛛の魔物だ。
無数の複眼を不気味に光らせ、その鋭い顎を、ルナールに振り下ろそうとしているところだった。
ルナールは、魔物が巧みに張り巡らせた見えざる糸に引っかかり、捕らえられたらしい。この蜘蛛は、シルヴァンに生息するエルフの古き天敵。
里周辺では見つけ次第、駆除されるため滅多に遭遇しないが、森の奥深くで運悪く巣にぶつかってしまったのだ。
蜘蛛の魔物から、今まさに襲われようとするルナールを見た瞬間、俺の思考は停止し、体が先に動いた。
その瞬間、両者の間へと割って入るように、転移魔法で跳ぶ。
視界が一瞬で切り替わる。
目の前には、おぞましい巨大蜘蛛の顔。
そして、俺が何か、行動を起こすよりも早く――
そいつの剃刀のように鋭い牙が、俺の左の腹と右腕を深々と貫いていた。
灼熱の痛みとショックが全身を駆け巡る。
自分の肉と骨を異物が突き刺す、嫌悪を催す感触。
「――ぐっ……!」
焼けつくような痛みと衝撃に体が震え、全身に悪寒が走る。
右手に握った剣は、もはや動かせない。
だが、無事な左手で、俺は自らに突き刺さるその蜘蛛の牙を力強く握り締めた。そして、そこから状態異常を付与する魔力を直接、敵の体内に流し込む。
「ゼノス様ッ!」
背後から、ルナールの悲痛な悲鳴が響く。
その声に呼応するように、駆けつけた三人のエルフたちが、一斉に弓を引き絞った。弦が軋み、矢羽が震える。
次の瞬間、鋭い音を立てて、銀色の矢が空を裂いた。
俺が施した『麻痺』の状態異常魔法が即座に効いたのだろう。
本来ならば、恐ろしく俊敏なはずの蜘蛛の魔物は、まるで糸が切れた操り人形のように、その場で動きを止めている。
放たれた矢が、唸りを上げながら魔物へと殺到する。
空気が震え、矢の軌道が残像のように視界を走る。
巨大蜘蛛は、もはや回避の術を持たない。
銀光を帯びた無数の矢が、その甲殻に容赦なく突き刺さる。硬質な殻を貫くたび、鈍い音とともに肉を裂き、蜘蛛の巨体がわずかに揺れた。
矢は次々と深く突き刺さり、まるで銀の杭で地に縫い止めるように、魔物の動きを完全に封じていく。
***
蜘蛛の魔物は、エルフたちの放った矢によって絶命した。
戦闘が終わったあと、俺は自分の体に突き刺さったままになっていた蜘蛛の牙を、一気に引き抜いた。
激痛が再び全身を走る。
傷口からは、おびただしい量の血が噴き出した。
俺は即座に「身代わり術式」を発動させる。
致命的な負傷と、牙から流し込まれた強力な蜘蛛の毒を――【身代わりの首輪】を付けた哀れなゴブリンたちへと、そっくりそのまま移し替える。
外傷を移されたゴブリンと、毒を受けたゴブリン。
二匹は、ほどなくして絶命した。
……やはり、かなりの強敵だったようだ。
「動きがあまりにも早くて、弓もなかなか当たりません。この魔物は、万全の準備を整えて臨んでも、必ず戦死者が出るほどの危険な魔物です。移動中に遭遇して、誰一人犠牲になることなく切り抜けられるなんて……これは奇跡ですわ」
リフィアがそう言ってから、森の精霊たちに感謝の祈りを捧げている。
シルフィアとフローラは火をおこし、ルナールの美しい体に絡まった粘つく蜘蛛の糸を、慎重かつ丁寧に焼き切っていった。幸い、彼女の短い藍色の髪は絡まっていなかったので、傷つけずに済んだ。
体制を完全に整えてから、俺たちは再び大樹を目指す。
森の遥か上空に、ひときわ大きく威容を誇る巨大な木。
目的地までは、もうあと僅かだ。
大樹の根本までたどり着いた俺たちは、最後の魔法素材を探す。
その名は【星辰の雫】。
この古代から生きる神聖な大樹から滴り落ちる無数の雫の中で、ひときわ強い魔力を秘めた特別な一滴を、エルフたちは敬意を込めてそう呼ぶ。
エルフの姫であるリフィアが、天を突く大樹を静かに見上げ、大気中に流れる微かな魔力の流れを、美しい瞳で観察する。
「……ここですわ。ルナール、お願い」
リフィアが指定した場所に、ルナールが素材採取用の特別な水晶の容器を構え、上を見上げる。
すると、まるで天からの啓示のように。広大な木の葉の天蓋から、たった一滴だけ、きらりと光る水滴が落ちてきた。
ルナールはそれを寸分の狂いもなく容器で受け止める。
こうして、俺たちは最後の目的であった、【星辰の雫】を無事に手に入れた。
***
目的のものをすべて手に入れ、今回の探索を終えた俺たちは、転移魔法を使い、劇場へと帰還した。
「今日は助かった。皆、ご苦労だったな」
俺が四人にそう礼を述べて屋敷へと帰ろうとすると、ルナールに呼び止められた。
「……今日は、あの、……危ないところを、その身を挺して守って下さり、本当にありがとうございました」
彼女はそう深々と頭を下げてから、顔を上げた。
その銀色の瞳には、今までにない熱い光が宿っている。
「もし、よろしければ。今夜、そのお礼をさせては、いただけませんでしょうか」
俺は、彼女のその真剣な申し出を静かに受け入れた。
俺はルナールを屋敷へと連れ帰り、まずは共に風呂に入って、その日の汚れと疲れを落とした。そして、その後で、共に寝室へと移動する。
今夜は二人きりだ。
俺は、ルナールからの熱い感謝の気持ちを、この身に余すことなく受け取った。
二人の甘い愛の語らいは、深い夜の闇にゆっくりと溶けていく。




