第118話 卒業と別れ
ヴァーミリオン公爵との、腹の探り合いのような会談が終わった。
どうにか、リリアーナの件は完全に伏せたまま、彼に現状維持を納得させることに成功する。
俺は、屋敷のリビングで不安そうに待っていたセシリアに、話が穏便に済んだことだけを簡潔に報告し、短い別れの挨拶をしてから、ヴァーミリオン邸を後にした。
外は、もうすっかり暗い。
春は訪れたばかりで、日が落ちると冷たい空気が肌を刺す。
夜の静まり返った道を、俺を乗せた馬車が、ゆっくりと進んでいった。
***
時は流れ――
王立魔法学園も新年度を迎え、新入生たちの希望に満ちた声で活気づいていた。
バルトロメウス・クロウリーと婚約したエレノアは、先日、この学園を無事に卒業した。新たな生徒会長には、予定通りバルトロメウスが就任する。
そして一年後、彼がこの学園を卒業してから――
二人は正式に結婚することになる。
俺は、卒業生を祝う盛大なダンスパーティには、あえて出席しなかった。
だが、宴が終わる頃合いに――
なんとなく、転移魔法で夜の学園へと移動する。
場所は、生徒会室のすぐ近くの廊下。
午後の柔らかな日差しが、決して届くことのない、薄暗い場所だ。
部屋の中にはエレノアが一人でいる。
彼女が身につけている【支配の首輪】を通して、正確な位置と、盗聴器が拾う周囲の微かな音は、すでに確認済みだ。
パーティの喧騒から逃れ、休憩がてら――
彼女は、この思い出の詰まった部屋に、一人で来たのだろう。
俺は一応、形式的にその重厚な扉を、こんこん、とノックしてから、部屋の中へと入った。大きな窓から差し込む春の日差しが、彼女の美しい金色の髪を、きらきらと輝かせている。
エレノアは、そのどこまでも澄んだ空色の瞳で、俺のことを静かに見つめていた。
「……姿が見えないと思っていたが。来ていたのか、貴様」
「いや。今来たばかりだ。お前に、会いに、な」
俺はそれだけ言うと、彼女のそばまでゆっくりと歩き、卒業式のドレスに包まれた華奢な体に手を回し、そっと抱きしめた。
「……抵抗、しないのか?」
「――しても、無駄だろう」
彼女はその身を、完全に俺に委ねている。
「ここで一人、黄昏れていたのか。それとも、この俺との甘い思い出に浸っていたのかな」
「……両方だ」
今日は、やけに素直だな。
そんな彼女の姿に、俺はどうしようもなく愛おしさを感じた。
「……パーティに参加して、お前と最後のダンスを踊ればよかったかな」
「衆人環視の中で、貴様と仲良くするわけには、いかんだろう。お互いにな」
それも、そうか。
俺はエレノアをさらに強く抱きしめて、その温もりと香りを記憶に刻み込むように密着する。それは、二人きりのこの部屋でしか、決して許されない禁断の行為だ。
「……顔を上げて、目を閉じろ」
「……」
彼女は俺を潤んだ瞳でじっと見つめてから、言われた通りにそっと目を閉じた。
俺は顔を寄せ、彼女の震える唇に自らの唇を重ねた。
それは、一瞬のことのようにも、永遠であるかのようにも感じられた。
これは、お別れのキスか。
それとも、「お前は永遠に俺のものだ」という束縛のキスか。
口づけをした俺にも、それは分からなかった。
どちらの意味を持つことになるのかは、これからの俺の――
そして彼女の行動次第だろう。
俺は抱きしめていたエレノアの体を、名残惜しくもそっと放した。
それから何も言わずに、その部屋を後にする。
俺たち二人は、最後まで言葉を発しなかった。
お互いの、そのあまりにも複雑な気持ちを整理できないままに。
俺たちはこうして、別れた。
***
この異世界の学園にも、春休みはある。
その期間、俺は魔界の姫・ルシフィールの元へ、ちょくちょく顔を出していた。
魔界の情勢を聞いたり、彼女の警護を務めるミュリルから投擲術を習ったりして過ごす。
魔人たちの世界――
魔界では、何といっても力がものをいう。
力のある者を中心にいくつもの勢力が形成され、それぞれが次期魔王の座を狙って爪を研いでいる段階だ。
やがて勢力争いが始まり、弱者は淘汰され、真の強者が魔王となる。
ルシフィールは、おそらく次期魔王に強制的に嫁にされようとするだろう。
「その前に、人間界に逃げればいいさ」
俺は沈んだ顔の彼女に、そう提案する。
魔界に生息する魔物や魔人が人間界へ移動するには、「湧き点」を通過するか、
人間の魔術師に召喚されるしかない。だが、力の強い魔人ほど湧き点を通れなくなり、人間による召喚も困難になる。
人間界に逃げてしまえば、そう簡単には手出しできなくなるだろう。
唯一の懸念は、「転移の魔人」アシュラフだ。
ゲーム世界では、あいつは魔界から魔人たちを人間界に呼び出すために、俺――ゼノスを殺している。
すぐに動くことはないだろうが、時がくれば襲ってくるかもしれない。
もっとも、ゲームとはシナリオがかなり変化しているので、その通りに動くとも限らない。だが、注意しておくに越したことはないだろう。
***
新年度が始まった。
だが、学校の雰囲気はどこか、少しばかりギクシャクしている。
リリアーナ姫の捜索を大義名分とした、王家による貴族への強引な捜査は、ついに王都を越え、地方の貴族たちの領地にまで及ぼうとしていた。
王家が、貴族に与えられた“神聖不可侵”であるはずの領地に、捜査員を派遣するとなれば――
これはもはや、ただ事では済まされない大問題になる。
相手方も、おいそれとは受け入れないだろう。
だが、王家もどうやら覚悟を決めたようだ。
その要請を突っぱねるのであれば、武力行使もやむなし――と。
すでに、そのための軍の編成にまで着手しているという。
これを機に、王家に反抗的な不穏分子を一気に叩き潰す腹積もりのようだ。
帝国との和平を実現するために、自国の内乱を引き起こすというのは、一見矛盾しているようにも見える。
だが、国内の意思統一が完全にできていなければ、そもそも和平交渉など進むはずもないのだから、仕方がない。
そんな中――
我らが戦争継続派の筆頭、グリムロック辺境伯は東の戦線で絶好調だった。
長年の宿敵である帝国兵を蹴散らし、その戦線をさらに拡大している。
新たに獲得した領土は、王国全体から見ればごくわずかなものだ。
だが、それでも「戦場でこうして勝っているのに、なぜ今さら帝国と講和などしなければならないのだ」という国内の世論を形成するには、十分すぎるほど役立つ材料になる。
そんな一触即発の緊迫した政治情勢の中――
グリムロック家の家令、オスカー・ブラックウェルが、再び王都にある俺の屋敷を訪ねてきた。
しかも、今回は、よく分からない『おまけ』を一人、伴って。
「うわーい! この、大きくて、カッコいい屋敷が、ぜーんぶ、ボクのものになるんだぁ! よーし、頑張るぞー!」
その甲高い、耳障りな声でそう叫ぶ、見知らぬ小さな子供。
……なんだ、あの見るからに、ムカつくクソガキは?
俺は、そのふてぶてしい闖入者が映し出された映像を、冷たい目で見ていた。




