第117話 古代の盤上遊戯における、高度な戦術
婚約者であるセシリアの父親、ヴァーミリオン公爵に突然呼び出された俺は――
その重厚な応接室で厳しい詰問を受けていた。
壁に飾られた歴代当主たちの肖像画の目が、まるで俺を非難するかのように、じっとこちらを見ているような気がする。
「誤解ですよ、公爵閣下。俺は、あの『アースガルドの天使』を攫ってなどおりません」
「……ふん。本当に、貴様の仕業ではない、というのか?」
公爵は俺のことを明確に嫌っているとまではいかない。
だが、『気に入らない』とははっきりと思っているようで、その口調はひどくぞんざいだ。彼のプライベートな映像で脅しているのだから仕方ないことではある。
だが、こうして未来の義父になるかもしれない男から尋問官のような強い圧をかけられるというのは、あまり胃に優しくない。
前世の記憶を思い出してから、かれこれ一年。
この剣と魔法の世界にもだいぶ慣れたと思っていた俺だが、久しぶりに明確な心理的圧迫を受けていた。
だが、それをこの男に悟られるわけにはいかない。
俺はあえて口の端に不遜な笑みを浮かべ、余裕の表情で応対する。
「ええ、もちろんです。そもそも、今このタイミングで王女を攫うなどというのは、我々にとっては悪手でしかありませんのでね。そのような下手な手は打ちませんよ」
現に、王女が誘拐されたことで、この現体制に何らかの不満を持つ、我々のような貴族たちの王都にある拠点は、次々と王家の騎士団による強引な強制捜査が入っている。
このまま王女が見つからなければ、その捜査の手は、やがて地方の領地にまで伸びてくるだろう。
「ふん。それが分かっているということは。やはり貴様が本当の犯人ではないのか。――突然攫われて、何の手がかりもないと聞いた時、真っ先に貴様の仕業だと思ったが……。では、一体犯人は誰なのだ? このままきな臭い状況が続くのは、我々にとっても好ましくないことは明白だ。姫は今どこにいる? 貴様の方で何か目星はついているのか?」
矢継ぎ早に質問が飛んできた。
どうやら、このあまりにも良くない現状をひどく憂慮しているらしい。
そして、俺にさっさと姫を救出させて、この面倒な事態を一刻も早く収めてほしい、と考えているようだ。
それは俺も同感だ。
だが、しかし。
事を穏便に収めるのは、もはや極めて難しい状況だった。
まず、第一に。
攫われたはずのリリアーナ姫は、今、俺の家にいる。
そして、好き勝手に元気に遊んで暮らしている。
彼女をどこか適当な空き家にこっそり閉じ込め、そこに護衛騎士であるセレナ・クリスタルライトを上手く誘導し、偶然「発見」させる、ということは、それほど難しくはない。
だが、問題は、あの『爆殺天使』が、俺を本気で殺そうと、今もなお狙っているかもしれないということだ。
もし彼女が王宮に無事保護されれば、間違いなくこう証言するだろう。
――私を攫い、監禁していたのは、あのゼノス・グリムロックです、と。
そうなると、最悪の場合、いきなり王家と我がグリムロック家との間で戦争に発展する可能性もある。
東の帝国と常に小競り合いを続けている、我がグリムロックの辺境領が、その背後から王家の軍に襲われることになるのだ。そこまでいかなくても、一触即発の極めて危険な状態になることは間違いない。
そして、まだ幼いこの国の姫君を卑劣にも攫ったとなれば、我々に味方するものなど一人もいないだろう。待っているのは袋叩きだ。
いつの世も、この『大義名分』というのは、何よりも重要なのだ。
かといって、リリアーナ本人を脅して口止めするというのも難しい。
子供というのは、時として、大人には理解できないほどの、リスクを考えずに、その口を簡単に開いてしまうことがある。
どれほど言い含めて言い聞かせたとしても。彼女がお構いなしに、俺が犯人だと叫ぶ危険がある。
そう考えると、彼女は、まだしばらく、我が家のあの快適な地下室で大人しく遊ばせておかなければならないだろう。
「居場所までは残念ながら。ですが……リリアーナ姫を攫った、その真犯人は、分かっています」
俺は公爵に、この事件の本当の「真相」を教えてやることにした。
「なにっ!? わかっているのか! 一体、誰なのだ!」
「犯人は、『リリアーナ姫』、ご本人です」
俺はこれから、この事件の「真相」を、俺の都合のいいようにでっち上げて、この目の前の気難しい公爵を納得させることを試みる。
「……姫自身が、犯人だと? それは、一体どういうことだ? 自分でその姿を隠しているということか……? あの、リアム王子たちにも内緒で、か?」
「その通りです。リリアーナ姫は、兵法における、『離れ隠しの計』を用いました」
俺はさらに、それっぽい架空の計略を提示する。
「はなれがくしの、計? なんだ、その計略は? 聞いたことがないぞ」
「ええ。古代の、とある盤上遊戯における、極めて高度な戦術の一つですのでね」
「盤上遊戯だと? そんなもの、机上の空論ではないのかね?」
「そうでもありませんよ、公爵閣下。盤上遊戯というものは、なにも戦場だけを模しているわけではないのです。この今の盤面を、ご覧ください。リリアーナ姫がその姿を消したことで、王家の和平推進派は、我々のような政敵の拠点を、大義名分の下に、堂々と強制捜査できるようになりました。――自ら誘拐されたと見せかけ、その身を隠すことで、戦況を有利に進めているのです。彼女はまだ幼いながら、その知略と行動力は、常人のそれをはるかに抜きんでている、と言って、過言ではないでしょう」
俺のもっともらしい解説に、公爵もようやく理解を示したようだった。
「……まさか、あの、天使と見まごう純真無垢な姫君が、自ら誘拐された振りをするとはな……。だが、それが分かったところで、このままでは、我々がまずいという状況に変わりはないだろう? こちらとしては、これから、一体どうするつもりだ」
「どうもしません」
俺の、そのあまりにも素っ気ない答えに、公爵が訝しむ。
「……何?」
「この程度の逆境を、自らの力で乗り切れないような無能な味方など、我々には必要ないでしょう。むしろ、これから我々と共に大きな事を成すにあたって、邪魔な味方を、姫君が自ら減らしてくださっている。そう捉えるべきかと。それに、そもそも我々にとって肝心なことは、『戦争継続派が最終的に勝つ』ということではありません。その戦争がどのような形で終結したとしても、その後で我々が、『しかるべき地位を維持し続けている』こと。――それこそが最も重要なのです」
ヴァーミリオン公爵は、俺のその言葉の真意を、しばし咀嚼するように黙り込んだ。
無能な味方は切り捨て、ふるいにかける――
それは公爵好みの考え方だろう。
これで納得してもらえると思うが……。
一拍置いてから、ヴァーミリオン公爵は静かに話し出す。
「……東の帝国との間で、常に緊張状態を保ち、小競り合いを続けるのが、我らにとっての最善ではある。だが、もし、こちらに全く勝ち目がなければ、その時は、臨機応変に、立ち回れ、と、そういうことか」
「ええ。王家がこのまま強引な強制捜査を続ければ、必ず、他の貴族からの大きな反発も広がるでしょうから。悪い事ばかりではありません。我々は、このまま高みの見物を決め込むのが、よろしいかと」
ここで、俺たちの密談は終わりとなった。
俺は、応接室を後にする。
なんとか彼を納得させることはできた。
だが、あのリリアーナの存在を、俺は完全に持て余してしまっている。
早く何とかしなければならない。
俺は静かに、そう、焦っていた。




