第11話 策謀の始まり
アシュラフは、ルカ・ドルトンの髪を掴んだまま――
一瞬で俺の指定した高度へと転移した。
俺も後を追い、同じ高さに転移する。
眼下には、遥か彼方の世界が広がっていた。
街の明かりが星屑のように瞬き、その広大さに思わず目を細める。
地上が豆粒のように小さく、風が唸り、肺が凍りつくような冷気が肌を刺す。
その冷たさは、まるで刃物のように頬を切り裂くかのようだ。
「ッヒィ……!!」
ルカの喉から、蛙が潰れたような悲鳴が漏れた。
彼の顔は恐怖に引き攣り、生気を失っている。
学校での威勢はどこへやら、完全に怯えきっているのが見て取れた。高所の恐怖に、彼の顔は土気色に染まっている。
俺の魔力量がゼロと測定されたのは、間違いじゃない。
魔力は通常、体外に放出して初めて測定されるものだからだ。
俺は”放出系”の魔法を一切使えない。
だから学院の魔力測定器は、俺の魔力量を『ゼロ』と弾き出した。
その結果は瞬く間に学園中に広まり、『敗北のゼロ』という不名誉な渾名となって俺にまとわりつくようになった。
しかし、魔力そのものがないわけではない。魔力自体は保有している。
それを己の内に留め、循環させることはできる。
身体強化、そしてこの浮遊。
さらにアシュラフの魔法構成を見て盗んだ、この転移も問題なく使える。
俺の能力『魔封印』は、周囲の魔力を消失させる極めて特殊なものだ。だからこそ、俺自身の体内にある魔力は誰にも測ることができない。
宙を漂いながら、俺は冷静に自身の能力を考えていた。
難解なはずの古代魔法の原理も、俺は短期間で模倣できる。アシュラフが使う魔法も、一度見れば構造を理解し、自分の魔力で再現できるようになった。
転生した俺の才能は、どうやら常識を遥かに超えるもののようだ。
ルカのような三下には、到底理解できないだろうが。
俺とアシュラフは「浮遊」の魔法で宙に浮かび、髪を掴まれたままのルカを見下ろす。アシュラフの無表情な顔と、絶叫するルカの対比が、どこか滑稽に見えた。
まるで、冷酷な彫像と、滑稽な人形――
「さて、アシュラフ。そいつを放せ」
俺の声は、風に乗って冷たく響いた。
感情の欠片もない、氷のような声。
「かしこまりました」
アシュラフは表情一つ変えず、ルカの髪を掴んでいた手を離した。
何の躊躇もない動きだった。
「ひ……っ!」
自由落下が始まる寸前、ルカは必死でアシュラフの腕にしがみついた。
彼の指は、アシュラフの執事服の袖を必死に掴み、爪は白く、皮膚が裂けるのではないかと思うほどだ。その必死さに哀れみを覚える。
「まっ、まてまて、まてまてっ! お、俺は浮遊の魔法を使えないんだ! 死んでしまう!」
ルカの絶叫が、空気の薄い高空に虚しく響く。
もはや、声は悲鳴というより、ひきつけを起こしたような、意味をなさない音に近かった。
「だから、なんだ?」
俺は冷ややかに問いかけた。
その言葉には一切の感情がこもっていなかった。
ルカの顔が、さらに蒼白になる。
まるで、死の影が彼の顔を覆ったかのようだ。
「こっ、降参する! 決闘は俺の負けだ!」
彼のプライドなど、この高度の前では塵も同然。
空中に放り出された恐怖が、彼の最後の抵抗を打ち砕いたのだ。
こうして、俺は決闘に勝利した。
アシュラフは、まだしがみつくルカの腕を、慣れた手つきで軽く引き剥がした。
ルカは地面に落ちる寸前の小動物のように震えている。
さて、問題はルカの口止めと、今後の管理だ。
このまま放っておけば、奴は今日の出来事を触れ回るかもしれない。
それは俺の目的とはかけ離れた結果になる。
「ゼノス様」
不意に、アシュラフが俺を呼んだ。
その声は、いつも通りの静謐さだが、どこか僅かな期待を宿しているようにも聞こえた。彼の深い瞳が、静かに俺を見つめる。
「よろしければ、この者を頂けないでしょうか? 私の奴隷にして管理いたします」
アシュラフの提案に、俺は一瞬眉を上げた。
まさか奴隷に欲しいと自分から言い出すとは。
――こいつ、何か企んでるのか?
その真意を探るように、俺はアシュラフの表情を探ったが、変わらず無表情だ。
まあ、いいか。
めんどくさい口封じの手間が省ける。
こいつはくれてやろう。
「……いいだろう。管理はお前に任せる。ただし、俺たちのことを他言しないよう、しっかりと契約を交わせ」
考えてみれば、好都合だ。
俺が直接、監視する必要がなくなった。
アシュラフは恭しく頭を下げた。
ルカは未だ高所に怯えているが、アシュラフの言葉を聞いてさらに恐怖に顔を歪めた。得体のしれない魔人の奴隷になるなど、想像を絶する事態だろう。彼の顔には、絶望の色が深く刻まれていた。
「ひっ……いや、やめろ、お前……何をっ……うわあああああああああ!!」
アシュラフはルカに魔力を流し込み、無理やり奴隷にした。
ルカの悲鳴が、再び高空に響き渡る。その声は、やがてか細い呻き声となり、ついには聞こえなくなった。魔力の流れが彼の全身を駆け巡り、抵抗する力を奪っていくのが、俺にも感じ取れた。
アシュラフの施した奴隷契約は特殊なもののようだ。
通常の魔力奴隷とは違い、こちらの指示には絶対服従だが、それ以外の自由意志は残されているようだ。
俺たちのことを他言しないように命令し、ルカは解放された。
彼が完全に自由になったわけではない。
アシュラフとの契約に縛られ、新たな生を歩むことになったのだ。彼の目には、もう以前のような傲慢な光はなかった。
翌日の学園。
授業中、俺は普段通り席に座り、つまらない講義をそれでも真剣に聞いていた。
根は真面目なのだ。
陽の光が窓から差し込み、教室の埃がキラキラと舞っているのが見える。
隣の席のルカ・ドルトンは、まるで蛇に睨まれた蛙のように怯えきっていた。彼の顔色は青白く、少しでも俺の視線を感じると、肩を震わせて視線を逸らす。その挙動は、まるで飼い慣らされた小動物のようだ。
昨日の出来事を口外していないのは確かだ。
クラスメイトたちは不思議そうにしながらも、詳しい事情は知らない。
彼らの間では、様々な噂が流れていた。ひそひそと交わされる声が、教室のあちこちで聞こえる。
「なあ、聞いたか? ルカのやつ、ゼノス様にボコボコにされたらしいぞ」
「魔力ゼロの敗北者が、どうやって魔力持ちを……?」
「いや、なんでもゼノス様が家の腕利きの部下を使い、ルカを完膚なきまでに叩きのめしたって話だ。さすが武闘派の辺境伯家らしいやり方だよな」
そんなひそひそ話が、教室のあちこちから聞こえてくる。
都合のいい誤解だ。
その方が俺の本当の力は隠せる。
俺はその噂を訂正しなかった。
訂正するような友達もいないが……。
俺の本当の力が知れ渡れば、それはそれで面倒なことになる。現状の誤解が、俺にとって最も都合がいいのだ。俺の口元には、微かな笑みが浮かぶ。
その日の授業がすべて終わり、帰ろうとすると、廊下で呼び止められた。
ざわめき立つ生徒たちの声が、一瞬遠くなる。
「ゼノス・グリムロック様。少し、お話が――」
振り返ると、そこに立っていたのは俺の婚約者。
セシリア・ヴァーミリオン。
燃えるような真紅の髪と、深い蒼色の瞳が印象的な彼女は、氷のような冷たい視線で俺を見据えていた。
その瞳の奥には、俺に対する拒否反応だけがはっきりと見て取れる。そして、何かを決意したかのような、強い光も。
彼女の纏う空気が、周囲の喧騒を消し去るかのようだ。
俺に何を話すつもりなのか。
まあ見当はつく。
きっと狙い通りに事は進むだろう。




