第1話 魔力ゼロの悪役貴族、追放と死の宣告
目の前の魔力測定器が、ゼロを示していた。
測定器の画面の数値はゼロのまま、ピクリとも動かない。
完全なフリーズ状態だ。この俺に向かって「お前に魔力など存在しない」と、無慈悲に宣告している。機械の分際で、偉そうに。
おかしいな、昨日までは確かにあったのに……。
故障か?
いや、他の生徒の測定では正しく作動していた。
これは――
冷たく、そして明確に突きつけられた現実。
その時、俺は自分が転生者であることを悟った。
前世の俺は、どこにでもいる平凡な高校生だった。
冴えない成績、特に秀でた才能もなく、ある日突然、信号無視の暴走トラックに轢かれてあっけなく死んだ。よくあるテンプレート通りの転生者だ。
前世の死因なんてどうでもいい。
問題は、目の前の現実だ。
測定器の数字は依然として、ゼロのまま動かない。
「……え、マジでゼロ?」
心の底から湧き上がる呟きは、誰にも聞こえない。
聞こえるはずがない。
この講堂は、先ほどから異様なざわめきに包まれているからだ。その音は、無数の貴族子弟たちのひそやかな囁きと、魔法具の微かな起動音、そして彼らが纏う絹の衣擦れの音で構成されていた。
ここは、王立魔法学園「アルカナム」。
年に一度の魔力測定が行われる日だ。
入学した貴族の子弟たちが自身の魔力を数値化するこの儀式で、高い数値を出せば周囲の尊敬を集め、将来が約束される。逆に低ければ、それなりの扱いを受ける。だが、「ゼロ」というのは、学園の長い歴史の中でも前代未聞だった。
俺の身分は、アースガルド王国の辺境伯――
グリムロック家の次男、ゼノス・グリムロック。
グリムロック家は、王国と長年敵対するアドラステア帝国との国境警備を担う、武門の最前線にある。代々強大な魔力を持つ者を輩出し、その力で王国の防衛を支えてきた家だ。
そんな家の次男である俺の魔力が、ゼロ――?
「嘘だろ、俺、ラスボスだよな?」
そうだ。
俺はこの世界のことを知っている。
ここは前世で狂ったようにやり込んだゲーム、『光と闇の戦記 〜王子リアムの大冒険〜』の世界だからだ。このゲームのラスボスこそが、何を隠そう、このゼノス・グリムロックなのだ。
ゲーム終盤、王国軍の前に立ちはだかる闇の召喚師。
膨大な闇の魔力を持ち、魔界の悪魔や魔族、魔獣を自在に召喚し、リアム王子率いる光の勢力を幾度となく窮地に陥れる、「絶望の化身」たる存在。
それがゼノスだった。
俺はラスボス……のはずだ。
なのに、魔力はゼロ。
闇属性どころか、魔力そのものがないと判定された。
文字通り無なのだ。
測定器の淡い光が、俺の虚無感を強調するように点滅していた。
このゲームは、主人公であるアースガルド王国の王子、リアム・アースガルドが、3年間の魔法学園生活を経て世界大戦へと突入し、最終的に俺、ゼノスを倒して世界を救う物語だ。
その学園生活の初日。
この魔力測定で、リアム王子は光属性の膨大な魔力を示し、学園中の注目の的になる。そして、俺――ゼノスは、闇属性の規格外の魔力で周囲を震撼させる。
……はずだった。
それが、まさかの魔力ゼロ。
この瞬間、俺の頭の中では、ゲームのシナリオが粉々に砕け散る音がした。
ラスボスなのに魔力ゼロ?
それはもうラスボスじゃない。
ただのモブ貴族。
いや、それ以下だ。
冷や汗が背中を伝う。
このままでは、ゲームの進行どころか、俺の命が危ない。
この世界では、人間以外の亜人種は差別され、魔力を持つ平民でさえ奴隷として使役される。そんな弱肉強食の世界で、魔力ゼロの貴族など、何の価値もない。ましてや武門のグリムロック家で、だ。
内心の焦りが限界を振り切っていたが、俺は表面上、至ってクールに装っていた。
ふ、と冷たい笑みを浮かべ、測定器から離れる。
その瞬間、硬質な革靴が床を擦る音が、妙に響いた。
「ふむ……このような結果か。興味深い」
まるで最初からこの結果を予期していたかのような、達観した態度。
いや、達観しているフリだ。
内心は「冗談だろ、おい!」と叫び散らしている。
喉の奥で、苦いものがせり上がってくる感覚があった。
周囲の貴族子弟たちの囁きが、嘲笑に変わっていくのが肌で感じられた。
好奇の目、憐れみの目、そして軽蔑の目。
彼らの視線が、まるで棘のように背中に突き刺さる。
視界の端には、俺の婚約者であるセシリア・ヴァーミリオンの姿があった。
燃えるような紅い髪が特徴の公爵令嬢で、その瞳は俺に対して明らかな軽蔑を向けていた。
深紅のドレスが、彼女の怒りを象徴するかのように艶めかしい光を放っている。勝気な彼女のことだ、魔力ゼロの婚約者など、プライドが許さないだろう。
いや、彼女の家柄であるヴァーミリオン公爵家は、アースガルド王国の軍部に強い影響力を持つ。魔力ゼロのゼノスなど、もはや価値がないのだ。
これから、どうしよう……。
「……今はどうしようもない、か」
婚約者から軽蔑されても仕方ない。
だって、ラスボスなのに魔力ゼロなんだから。
講堂を後にする俺の背中に、ひそひそ話が降り注ぐ。
それは、鋭い刃物のように心臓を抉った。
「辺境伯の息子が、まさか魔力ゼロとは……」
「グリムロック家も終わりだな」
「これで、ゼノス様との婚約も破棄されるわね、セシリア様」
ああ、わかってる。
全部わかってるさ。
なんとか魔法学園での初日を終え、王都グラウにあるグリムロックの邸宅へと帰宅した。王都の喧騒は遠く、邸宅はひどく静かに感じられた。
広々とした自室のベッドに横になり、漆喰塗りの天井を睨む。
これからどうするべきか。
部屋には、夕暮れの淡い光が差し込み、俺の焦燥感を際立たせていた。
転生特典、チート能力、覚醒。ゲームの世界なら、何かしらあるはずだ。
だが、今の俺には魔力ゼロという現実と、ラスボスという設定が重くのしかかっている。
「ラスボスが魔力ゼロって、そんなの無害な一般人じゃないか……討伐する必要とかないよね? いや、それ以前に貴族社会から『追放』だよな……これ」
考えていると、コンコン、と静かにドアがノックされた。
「ゼノス様、旦那様がお呼びです。執務室へお越しくださいとのこと」
執事の声。
その響きはいつもと変わらないが、俺の耳には、まるで死神の呼び声のように聞こえた。
やはり来たか。
最悪の事態は予期していた。
しかし、これほど早いとは。
親父からの呼び出しに、覚悟を決めるしかない。
俺は立ち上がり、重い足取りで執務室へと向かった。
廊下の絨毯が、足音を吸い込むように静かだった。
執務室の重厚なオーク材の扉を開くと、そこには親父である辺境伯ガイウス・グリムロックと、兄である嫡男レオン・グリムロックが座っていた。
部屋の中は、重い沈黙と、僅かに埃っぽい匂いが漂っている。壁には歴代当主の肖像画が並び、その視線が俺に突き刺さるように感じられた。
親父の顔は険しく、硬く結ばれた口元が怒りを滲ませている。
兄は腕を組み、冷たい視線を俺に向けている。
その瞳は、まるで氷のようだ。
「ゼノス。座れ」
親父の声は、普段の威厳ある声とは違い、どこか冷たかった。
まるで感情を削ぎ落としたかのような響きだ。
俺は言われるがまま、向かい側の硬い木製の椅子に座る。
座面の冷たさが、背筋を走った。
沈黙が数秒続いた後、親父が口を開いた。
その声が、部屋の重い空気を震わせる。
「魔力測定の結果は聞いた。まさか、グリムロック家から魔力ゼロの者が出るとはな……」
親父の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
当然だ。
この家は魔力こそが全て。
血の証であり、存在意義だ。
昨日まではちゃんと俺に魔力があったことは親父もわかっている。
だが、今はない。
それがすべてだ。
「ゼノス、お前をグリムロック家から追放することに決めた」
やはり。
予測はしていた。
だが、いざ耳にすると、背筋に冷たい雫が伝い、皮膚が粟立つ。
喉がひどく乾いた。
「しかし、ただ放り出して済ますわけにもいかん」
親父の言葉に、俺は思わず顔を上げた。
冷たい床に視線が落ちていたが、反射的に見上げた。
ただの追放ではない?
……どういうことだ?
全身の筋肉が硬直する。心臓が嫌な音を立てていた。
親父の視線は、隣に座る兄へと向けられた。
「レオンと決闘しろ。魔力ゼロの貴様では、レオンの相手にはなるまいが……せめて、グリムロックの血に恥じぬ最期を遂げろ」
決闘――?
魔力ゼロの俺と、グリムロック家最強の魔力を持つ兄とで……?
「いや、無茶だろ……」
俺の口から、掠れた声が漏れる。
部屋の重い空気に吸い込まれるように、か細く。
勝てるわけがない。
魔力ゼロの俺には、死ぬ未来しかない。
これは、『追放』ではなく、死の宣告――
『処刑』だ。
ラスボスに転生したと思ったら、ゲーム開始数時間でバッドエンド直行となった。
冗談じゃない!
内心の叫びは、虚しく響くだけだった。
部屋に差し込む夕日の赤が、まるで血の色のように見えた。




