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夜のプールサイド

夏休み、深夜の学校に忍び込み、プールで肝試しをする四人の高校生。ありふれた怪談を試すだけの、ただの遊びのつもりだった。しかし、ふと水面に目をやると、そこに映っていたのは自分たちの姿ではなかった。水面に浮かぶ無数の苦悶の表情。逃げようとする彼らの足を、水底から伸びる冷たい何かが掴む。

「マジでやんの?用務員の爺さん、めっちゃ脅してきたぜ」


「当たり前だろ、夏だぜ?こういうのはノリと勢いが大事なんだよ」


深夜零時を少し回った頃、生ぬるい夜気の中、俺たちのひそひそ声だけが住宅街に響いていた。俺、高木彰人あきと。言い出しっぺで楽観主義者の拓也。拓也の彼女で、少し怖がりだけど結局ついてくる麻美。そして、一番ビビってるくせに、こういう時絶対に参加する祐介。高校二年の夏、俺たち四人は、ありきたりだが最高にスリリングな冒険に乗り出そうとしていた。深夜の母校への侵入、そしてプールでの肝試しだ。

目的は、用務員の田所さんから聞いた、古びた怪談の検証だった。


「夜中にあのプールで泳ぐとな、昔そこで溺れて死んだ生徒の霊に、仲間が欲しくて足を引かれるんだ。何人も、そうやって…」


そう語る田所さんの顔は、作り話とは思えないほど真剣だった。その話が、逆に俺たちの好奇心を煽ったのだ。

通用門のフェンスは、少し力をかければ乗り越えられる高さだった。昼間は生徒たちの喧騒で満ちている校舎も、今は月明かりの下で巨大な影として黙り込んでいる。時折、風で窓がカタカタと鳴る音に、祐介が「うおっ!」と情けない声を上げる。そのたびに俺たちは笑い声を殺した。この背徳感とスリルが、たまらなく楽しかった。

プールサイドにたどり着くと、塩素のツンとした匂いが鼻をついた。昼間の熱気をまだ残したコンクリートの感触が、素足に伝わる。静まり返った水面が、雲間から覗く月を鈍く反射して、不気味に揺らめいていた。昼間の、あの賑やかで青く輝くプールとは全く違う、別の場所に来てしまったかのようだ。聞こえるのは、遠くで鳴く虫の声と、俺たちの高鳴る心臓の音だけ。


「じゃあ…一番乗りは俺な!」


一番の怖がりであるはずの祐介が、虚勢を張ってTシャツを脱ぎ捨てた。麻美にいいところを見せたいのだろう。準備運動もそこそこに、ためらいがちにプールサイドの縁に立ち、意を決したように勢いよく飛び込んだ。

ザッバーン!という派手な水しぶきが、張り詰めた静寂を豪快に破った。


「うわ、冷ってぇー!でも、超気持ちいい!」


水の中から顔を出した祐介が、満面の笑みではしゃいでいる。その姿に安心したのか、拓也も「じゃあ、俺も!」と続いた。俺も、二人に倣ってTシャツを脱ぎ、ゆっくりと水に入る。心臓が止まるかと思うほどの冷たさが、一瞬で体を駆け巡った。だが、その衝撃が、逆に火照った体を覚醒させるようで心地よかった。


「麻美は入らないの?」


「うーん、私は見てるだけー。みんなの勇姿を撮っといてあげる」


プールサイドに腰を下ろした麻美は、スマートフォンを俺たちに向けている。彼女の存在が、この肝試しをどこか安全な遊びの範囲に留めてくれているような気がした。

三人で水を掛け合ったり、誰が一番長く潜れるかを競ったり。背泳ぎで夜空を見上げれば、都会では見られないほどの満点の星が広がっている。なんだ、たいしたことないじゃないか。田所さんの話も、やっぱりただの脅かしだったんだ。これはきっと、忘れられない最高の夏の思い出になる。そう、確信していた。

しばらくそうやって遊んでいた時だった。ふと、拓也の動きが止まった。彼は、何かを探るように、じっと水面を見つめている。


「おい…彰人、祐介。なんかおかしくないか?」


拓也の声は、いつものおちゃらけた調子とは違い、少しだけ緊張をはらんでいた。


「何がだよ。ビビってんのか?」


祐介が茶化すように言う。


「いや、そうじゃなくて…水面、よく見てみろよ」


拓也が指さす方へ、俺も視線を落とす。月明かりに照らされた水面には、俺たちの顔がぼんやりと映っている。別に、何もおかしなことはない。波紋で揺らいでいるだけだ。


「何だよ、拓也。脅かすなよ」


俺が笑い飛ばそうとした、まさにその時だった。プールサイドから、麻美の甲高い悲鳴が聞こえたのは。


「きゃっ!みんな、早く上がって!おかしい!水面がおかしいよ!」


麻美の切羽詰まった声に、俺たちはもう一度、真剣に水面に意識を集中させた。ゆらゆらと揺れる水面。そこに映る俺の顔。だが、その輪郭が、じわりと滲むように歪んでいく。まるで、水彩絵の具が水に溶けていくように。俺だけじゃない。拓也も、祐介も。水面に映る俺たちの顔が、まるで知らない誰かの顔のように、苦しげな表情へと、ゆっくりと、しかし確実に変わっていくのだ。

そして、気づいた。俺たちの顔だけではなかった。俺たちの周りの水面、いや、プール全体の水面に、無数の顔、顔、顔が、まるで水疱瘡のように浮かび上がってきていた。男も、女も、大人も、子供もいる。皆、一様に目を見開き、口を苦痛に歪ませ、声なき叫びを上げている。それは、まさしく溺れ死ぬ、その瞬間の絶望と苦悶の表情だった。


「うわあああああっ!」


最初にパニックになったのは祐介だった。彼は狂ったように水面を掻き分け、プールサイドに上がろうともがく。俺も拓也も、脳が理解を拒む光景に、本能的な恐怖に駆られて後を追った。早く、早くこの水の中から出なければ。

だが、上がれない。


「足が…!おい、誰か掴んでる!離せよ!」


拓也が悲鳴に近い声を上げた。見ると、彼の足首に、水の中から伸びた何本もの青白い手が、まるで蛇のように絡みついている。その手は、水面下で蠢く無数の影から伸びてきていた。


「俺もだ!くそっ、何だよこれ!」


俺の足にも、ぬるりとした、それでいて抗いがたい力強い感触がまとわりつく。冷たい。まるで氷のような手だ。それは一本や二本じゃない。水中で蠢く無数の影から伸びる手が、俺たちをプールの底へ、底へと引きずり込んでいく。水面に浮かぶ苦悶の顔たちは、まるで俺たちを歓迎するかのように、その表情をさらに深く歪ませていた。


「助けて!麻美!先生を呼んでこい!」


俺は必死にプールサイドの麻美に向かって手を伸ばした。だが、麻美は腰が抜けたようにその場に座り込み、両手で顔を覆って震えているだけだった。彼女の瞳には、俺たちには見えない、もっと恐ろしい何かが見えているのかもしれない。


「ごぼっ…!」


祐介が水中に引きずり込まれ、一瞬だけ水面に現れたその顔は、先ほど水面に浮かんでいた無数の顔と全く同じ、苦悶に満ちた表情だった。そして、すぐに泡だけを残して消えた。

次は拓也か、俺か。恐怖で心臓が張り裂けそうだ。水が口や鼻に入り込み、息ができない。体が必死に酸素を求めるが、肺に入ってくるのは冷たい水だけだ。意識が遠のいていく。薄れゆく視界の中、俺は見た。

光の届かないプールの底に、大勢の生徒たちの姿が、まるで水草のように揺らめいていた。彼らは皆、死んでいるはずなのに、その光のない目で、じっとこちらを見上げている。その顔は、水面に浮かんでいた、あの苦悶の表情そのものだった。そして彼らは皆、ゆっくりと、こちらに手を伸ばしていた。寂しさを紛らわすために。新しい仲間を、また一人、また一人と、自分たちの永遠の闇へと迎え入れるために。

ああ、田所さんの話は、本当だったんだ。

それが、俺の最後の思考だった。

翌朝、出勤してきた田所さんが、プールサイドに脱ぎ捨てられた三つのTシャツと、持ち主のいないスマートフォンを発見した。スマートフォンには、一枚の写真が残されていた。プールで楽しそうにはしゃぐ三人の少年たち。しかし、その足元の水面には、彼らの姿とは別に、無数の青白い手が伸び、彼らの足を掴もうとしている瞬間が、くっきりと写り込んでいたという。

警察による大規模な捜索が行われたが、三人の高校生の行方はようとして知れなかった。ただ、プールを満たしていた水は、全て抜き取られた。空になったプールの底には、何十年分もの間に溜まったであろうヘドロの他に、何も見つからなかったそうだ。

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