第2話 「風の精霊と異世界Vtuberの始まり」
朝靄の中、馬車は緩やかに丘を登っていく。窓から覗く景色が、徐々に変わっていくのを見つめながら、私は深いため息をついた。豊かな森が薄れ、痩せた土地が広がっていく。時折目に入る作物も、元気がない。乾いた大地が、私の心を映し出しているかのようだ。
「これが...私の領地になるのね」
呟きながら、手の中のユグドラシルマイクを強く握りしめる。昨日の出来事が夢ではなかったことを、このよく知る形状をしたマイクが証明している。婚約破棄、前世の記憶の覚醒、そして汚名返上のために手にしたチャンス。全てが現実なのだ。マイクの冷たい感触が、私の不安を和らげるような気がした。
「もうすぐ領地の境界線です、アイリス様」
向かいの席に座る執事のヴィルヘルムが、静かな声で告げる。彼の隣では、メイドのリリアが小さく頷いた。二人とも、宮廷から私に随行させられた人員だ。表向きは「お世話係」だが、おそらく監視役でもあるのだろう。その事実が、私の心にチクリと刺さる。
「ありがとう、ヴィルヘルム」
私は微かに頷き返す。心の中では、様々な感情が渦を巻いていた。未知の土地での新生活。不安と期待が入り混じり、胃の辺りがキリキリと痛む。前世でVtuberとしてデビューした時の緊張感を思い出す。あの時は画面越しだったけど、今回は生身の人間たちとの対面だ。その重みが、私を押しつぶしそうになる。
馬車が丘の頂上に達したとき、私は思わず息を呑んだ。
「これが...私の領地?」
眼下に広がるのは、想像以上に広大な土地だった。遠くには暗い森が見え、中央には細い川が蛇行している。点在する集落も確認できる。しかし、全体的に見れば、まだまだ開発の余地がある荒れ地が大半を占めていた。乾いた大地に、かすかに生える雑草。遠くに見える畑には、元気のない作物が並んでいる。
「はい、アイリス様。この谷全体があなたの領地となります」
ヴィルヘルムの声に、私は無言で頷いた。ここで、私は何をすべきなのか。どうやってこの地を発展させ、人々の生活を向上させればいいのか。そんな思いが胸に去来し、肩に重圧がのしかかる。前世でのVtuber活動の経験が、どこまで役に立つのだろうか。
馬車が中央の村に到着すると、老年の男性が数人の村人を従えて近づいてきた。村長らしい。彼の顔には、年月が刻んだ深い皺が刻まれている。その目は、経験に裏打ちされた鋭さを感じさせた。
「ようこそいらっしゃいました、新しい領主様」
村長の言葉は丁寧だが、その目には警戒の色が濃い。周囲の村人たちも、好奇心と不安が入り混じった表情で私を見つめている。その視線に、私は身が縮む思いがした。
「はじめまして。アイリス・ヴァンローゼです」
私は精一杯の笑顔で挨拶をしたが、村人たちの表情は柔らかくならない。むしろ、私の若さと華やかな出で立ちに、さらに身構えているようだ。彼らの目には、「こんな若い娘に、本当に村を任せられるのか」という疑念が明らかに浮かんでいる。
「では、お館までご案内いたします」
村長の案内で、私たちは領主の館へと向かった。道中、村人たちの囁き声が耳に入る。
「あんな若い領主様だとは聞いていないぞ」
「あまりに田舎でガッカリされてるんじゃないかね?」
「なにもしてくれないほうが、やかましい領主様より大分いい」
その言葉に、胸が痛む。確かに、彼らの言う通りだ。私には開拓の経験もないし、領地運営なんて全く分からない。でも...。
私は歩みを止め、振り返って村人たちを見た。
「皆さん、確かに私にはまだ経験が足りません。でも、皆さんと力を合わせて、この地をもっと良くしていきたいんです。どうか、力を貸してください」
私の言葉に、村人たちは驚いたような顔をした。しかし、すぐにまた警戒の色が戻る。簡単には信用してもらえないようだ。
今はこれ以上の言葉は出てこない。村の人たちが何を求めていて、どこまで手を出したものか
考え込みながらも促されるままに館に入ると、重々しく扉の閉まる音が背後から聞こえた。村人との心の距離を表しているようだった。
広々とした玄関ホールは、かつての栄華を思わせる装飾が施されているものの、どれも一昔前のもののようだ。領主が来るからと真剣に掃除をしたのだろう。使われていない割には空気は澄んでいる。
「アイリス様、村人たちの反応は...」ヴィルヘルムが心配そうに声をかける。
「ええ、予想はしていたけど...」私は深いため息をつく。「どうすれば、彼らと打ち解けられるかしら」
「時間がかかるでしょうね」リリアが静かに言った。「でも、アイリス様なら、きっと...」
その言葉に、わずかな勇気をもらう。そうだ、まだ始まったばかりなんだ。これから少しずつ、村人たちの信頼を得ていけばいい。
「ありがとう、リリア。二人とも、これからよろしくね」
私たちは互いに頷き合った。これから始まる新生活に、期待と不安が入り混じる。
その夜、眠れぬまま過ごした私は、早朝、館の裏手にある丘から不思議な声が聞こえてくるのに気づいた。前世の記憶が蘇って以来、耳が精霊の声に敏感になっているのかもしれない。
「散歩がてら、見てくるわ」
寝間着のまま、こっそりと館を抜け出す。朝露に濡れた草が、素足をくすぐる。冷たい感触に、私は小さく身震いした。朝もやが立ち込める中、丘を登っていく。周りの景色がぼんやりと霞んで見える中、私の心臓は高鳴っていた。
丘の頂上に辿り着くと、そこには小さなユグドラシルの苗が植わっていた。世界樹の幼木が、この辺境の地に...。
「まさか、ここにも...」
驚いて近づくと、風がそよぎ、光の粒子が舞い始めた。何かを私に伝えようとしているようだ。咄嗟にユグドラシルマイクを取り出す。
「こんにちは...聞こえますか?」
「聞こえるよ。私は風。あなたは誰?」
風の精霊との会話が始まった。その声は、風のようでいて、どこか懐かしい。まるで、前世の記憶の中にある誰かの声のよう。
「私はアイリス。あなたには...名前はないの?」
「名前?そんなものはないよ。私は風だから」
風の精霊の言葉に、私は少し考え込んだ。確かに、精霊に名前があるとは聞いたことがない。でも、このまま「風さん」と呼ぶのも何だか違和感がある。そして、ふと思いついた。
「もし良ければ...私の知っている名前で呼んでもいい?」
精霊は首を傾げたが、やがて嬉しそうに頷いた。その仕草が、どこか懐かしい。まるで、前世の...。
「春風そよか。そう呼んでもいい?」
「春風そよか? ワタシ? わ、私は…...」
その瞬間だった。ユグドラシルの苗が急激に成長し始めた。枝葉が伸び、幹が太くなり、みるみるうちに大きくなっていく。そこから溢れ出すエネルギーが風の精霊を包み込む。
眩いばかりの光に目を細める私。光が収まると、そこには人間の姿をした少女が立っていた。銀髪に翡翠色の瞳。
その姿は、私の前世の記憶にある同じ事務所の親友であるVtuber「春風そよか」そのものだった。
「ミライ...?」
涙を浮かべながら、そよかが私に抱きついてきた。温かい。生きている。本当に、そよかなんだ。私の瞳にも涙が溢れ出てくる。
「そよか! 私だって分かるのね! でも、どうして...向こうの世界の記憶が...?」
「わからないの。でも、あなたのことは覚えてる。私たち、一緒に活動してて...同じ事務所で...とてもとても楽しかった…」
言葉を詰まらせるそよか。私も涙が止まらない。前世の記憶が鮮明に蘇ってくる。一緒に歌った日々、配信で笑い合った時間、互いに支え合った瞬間々。全てが走馬灯のように駆け巡る。
感動の再会の後、私は深呼吸をして冷静さを取り戻した。
「そよか、一緒に館に戻りましょう。ヴィルヘルムとリリアにも状況を説明しないと」
そよかは少し躊躇したが、やがて頷いた。「そうね。みんなで力を合わせていかないと」
館に戻ると、案の定、心配そうな顔のヴィルヘルムとリリアが待っていた。
「アイリス様!どこへ行かれていたのです?」ヴィルヘルムの声には怒りよりも安堵の色が濃い。
「申し訳ありません。ちょっとした散歩のつもりが...」言葉を途中で切り、そよかを紹介する。「こちらは春風そよか。私の親友で、風の精霊なのだけど」
「精霊様? いえ、これは...高位精霊? しかし、そんなはずは...」
驚きを隠せない二人に、私は丁寧に状況を説明した。前世の記憶、Vtuberとしての経験、そしてそよかとの出会い。信じがたい話だったが、目の前で風を操り、アイリスと別世界の思い出を楽しそうに話すそよかの姿を見て、二人も事実を受け入れざるを得なかったようだ。
「皆さん、力を貸してください。この領地を、そして人々の生活を良くするために」
私の言葉に、ヴィルヘルムとリリアは固く頷いた。
説明を終えた後、私たちは館の応接室に集まり、今後の方針について話し合いを始めた。重厚な木製の机を囲んで座り、お茶を飲みながら意見を交わす。窓から差し込む朝日が、部屋を柔らかく照らしている。
「まずは村人たちとの関係を改善しなければ」とヴィルヘルムが切り出した。彼の表情は真剣そのもので、長年の経験から来る洞察力を感じさせる。
リリアが頷く。「でも、どうすれば彼らの心を開いてもらえるでしょうか。昨日の様子を見る限り、簡単ではなさそうです」
「えぇ、開拓民として集められてから今日まで、これという支援も受けずに放置された土地でございます。裕福になるという当初の夢は、開墾の疲労に吸い上げれて枯れ果てていることでしょう」
静寂が流れる中、私は前世の経験を思い出していた。「Vtuberとして活動していた時、最初は視聴者の心を掴むのに苦労したわ。でも、歌を通じて少しずつ...」
その言葉を聞いて、そよかが目を輝かせた。「そうだ!歌ってみない?私たちの歌なら、きっと村人たちの心に届くはず」
「歌...ですか?」ヴィルヘルムは少し困惑した様子だったが、すぐに表情を和らげた。「確かに、音楽には人の心を動かす力がありますね。しかし、領主様が歌うなんて...前例がありません」
リリアも考え込んだ後、賛同の意を示す。「でも、それが逆に良いかもしれません。領主様の新しい一面を見せることで、親近感を覚えてもらえるかもしれません」
「そうね...」私は少し迷いながらも、決意を固めた。「でも、どこで歌えばいいのかしら」
そよかが提案した。「バルコニーはどう?風の力で、声を村中に届けられるわ」
全員で顔を見合わせ、頷き合う。これが最良の方法かどうかは分からない。でも、まずは試してみる価値はある。
「よし、やってみましょう」私は決意を込めて言った。
そうして、私たち四人はバルコニーへと向かった。朝日が眩しく輝き、村全体を照らしている。遠くで村人たちが畑仕事を始める姿が見える。
そよかが口ずさみ始めると、懐かしいメロディが蘇る。前世の仲間たちとの思い出が次々と蘇ってくる。私も声を合わせ、歌い始めた。
「新しい風が 吹き始める
この世界を 変えていくの
君と僕の 想いを乗せて
未来へと 羽ばたいていく」
歌い続けるうち、ふと気づくと、バルコニーにまでユグドラシルの木陰が届いていた。
「すごい...こんなに大きくなってる」
驚いて見上げると、ユグドラシルの枝から6色の光が溢れ出し、そよかの前に降り注ぐ。光が消えると、そこにはショルダーキーボードのような不思議な楽器が現れていた。
「これは...精霊宝具」そよかが呟く。「ユグドラシルに認められた者だけが手にできる特別なアイテムよ」
そよかの演奏と私の歌声が、風に乗って村中に響き渡る。人々が作業の手を止め、驚きの表情で私たちを見上げている。子供たちは歓声を上げ、お年寄りは懐かしそうに目を細める。
歌が終わると、村の広場には大勢の人が集まっていた。彼らの目には、もはや警戒の色はない。代わりに、好奇心と期待に満ちた眼差しで私たちを見つめている。
「すごい...こんなに人が」私は驚きを隠せない。
そよかは嬉しそうに笑う。「ねえ、ミライ。これが私たちの『異世界Vtuver』の始まりだよ」
その言葉に、私は目を輝かせた。そうだ、これこそが私たちのやるべきこと。歌と魔法で、人々の心を繋ぐ。新しい形のコミュニケーション、新しい形のエンターテイメント。
心の中で、新たな決意が芽生える。この荒れ地を、かつてない豊かな土地に変えてみせる。そして、人々の心に希望の種を蒔いていこう。
それは、きっと長く険しい道のりになるだろう。でも、そよかと共に、一歩ずつ前に進んでいく。そう誓いながら、私は再び歌い始めた。村人たちの中から、小さな拍手が起こり、次第に大きくなっていく。
この日を境に、私たちの新しい挑戦が始まった。歌と風の魔法を使って、人々の心に寄り添い、この領地を少しずつ変えていく。そして、いつかはこの世界全体を...。
その思いを胸に、私は村人たちに向かって話し始めた。「みなさん、これからよろしくお願いします。一緒に、この地をもっと素晴らしい場所にしていきましょう」
新たな風が、確かにこの地に吹き始めていた。