第1話 「婚約破棄と記憶の目覚め」
リヒトアンガー皇国、クリスタルガーデン宮殿。その名の通り、宝石のように輝く噴水が立ち並ぶ中庭に、緊張感が満ちていた。
私、アイリス・ヴァンローゼは、その中心に立っていた。銀色の髪が風に揺れ、碧眼が不安げに揺らぐ。第一王女にして皇太子の婚約者。少なくとも、つい数分前までは。
「アイリス・ヴァンローゼ」
皇太子アルフレッド・ヴィクター・エルメリンクの声が、厳かに響き渡る。その瞬間、私の心臓が痛いほど高鳴った。
彼の紫紺の瞳が、一瞬だけ揺らいだ。それは私の気のせいではない。確かに見た、後悔の色が。
「お前との婚約を、ここに破棄する」
その瞬間、世界が止まった。
周囲がざわめく。華やかな衣装に身を包んだ貴族たちの間で、小さな悲鳴や驚きの声が上がる。その音が、少しずつ大きくなっていく。まるで、遠くで聞こえていた波の音が、徐々に近づいてくるように。
「え...?」
私の口から漏れた声は、自分でも信じられないほど小さく、か細いものだった。
「理由を...お聞かせいただけませんでしょうか、殿下」
必死に理性を保とうとする私の声は、微かに震えていた。
アルフレッドは一瞬ためらった。その仕草に、どこか後ろめたさが感じられた。
「理由か...それは、お前にはこの国の未来を託すだけの器がないからだ」
その言葉は、鋭い剣となって私の胸を貫いた。
「器...ですか?」
私の問いかけに、アルフレッドは冷たく頷いた。
「そうだ。お前には、皇太子妃としての資質が欠けている。それだけのことだ」
その瞬間、私の中で何かが切れた。理性の糸が、プツンと音を立てて切れる。
頭の中で、赤い霧が立ち込める。怒りと悔しさ、そして言いようのない悲しみが、私の中で渦を巻いていた。
「資質...ですか」
私の声が、少しずつ冷たくなっていく。
「では、殿下。私に欠けているその『資質』とやらを、具体的にお教えいただけませんか?」
アルフレッドの表情が、一瞬だけ曇った。
「細かいことを言っても仕方がない。要するに、お前には皇太子妃としての才覚がないのだ」
その言葉に、私の中の何かが爆発した。
「才覚...ですか? 失礼ですが、殿下。私はこれまで、皇太子妃としての務めを果たすべく、懸命に努力してまいりました」
私の声が、少しずつ大きくなっていく。
「政治、経済、外交...あらゆる分野で研鑽を積んできました。夜遅くまで資料を読み漁り、早朝から外交官たちと会議を重ね、時には国境の村々まで足を運んで民の声を聞いてきました」
私の言葉に、アルフレッドの表情が硬くなる。
「その努力を、殿下はご存じないのでしょうか? それとも、ご存じだったうえで、私の努力など無意味だとおっしゃるのですか?」
アルフレッドの顔が、怒りで真っ赤になっていく。
「努力? そんなものは、才能がなければ意味がない」
その言葉に、私の怒りは頂点に達した。同時に、言いようのない悲しみが私の心を覆う。
「才能...ですか。では、殿下。その才能とやらは、どうやって測るのですか? 血筋ですか? それとも、見た目ですか?」
私の言葉に、アルフレッドの表情が一瞬崩れた。
「アイリス! 分際をわきまえろ!」
その声は、怒りに震えていた。
「分際...ですか。そうですね、殿下。私には分際がありませんでした。皇太子妃になれると思った私が、馬鹿だったのですね」
私の言葉に、周囲が一斉に息を呑む。
「アイリス・ヴァンローゼ! お前を国外追放...」
その瞬間だった。
ゴォォォン!
突如として、大地が揺れ動いた。まるで、私たちの足元から何かが生まれ出ようとしているかのように。
「な...何だ!?」
アルフレッドの声が、驚きに満ちている。そして、次の瞬間。
バキッ!
中庭の中央にそびえ立つ、世界樹ユグドラシルの巨大な枝が、轟音と共に折れ落ちた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。その巨大な枝は、まるで意思を持っているかのように、真っ直ぐに私めがけて落ちてくる。
「っ!」
私は反射的に目を閉じた。痛みが走る...そう思った瞬間、不思議な感覚に包まれた。
痛みはない。代わりに、温かく、柔らかな感触。まるで、誰かに優しく抱きしめられているような...
恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
ユグドラシルの枝が、まるでベールのように私を包み込んでいる。その枝から放たれる柔らかな光が、まるで木漏れ日のように私を照らす。光の中で、枝から生えた新芽が、私の頬をそっと撫でる。
「これは...」
私の呟きに、誰も答えない。皆、唖然とした表情で、この光景を見つめている。
そして、その瞬間。私の頭の中で、何かが弾けた。
記憶...いや、別の人生の記憶が、洪水のように流れ込んでくる。
目の前に、見覚えのある配信画面が浮かび上がる。そこには、銀髪の少女が映っている。その少女は、私によく似ている。いや、私自身だ。
「こんにちは! 今日もキラキラみんなのアイドル、輝希ミライ!」
その声が、頭の中で響き渡る。そう、これが私の声。でも、同時に別の誰かの声でもある。
記憶が次々とよみがえる。大勢の視聴者と交流し、笑い、泣き、そして...
「あ...私は...」
言葉が、自然と口からこぼれる。
「私は...Vtuberだった?」
その瞬間、私の体から六色の光が放たれた。風、炎、水、土、闇、光...それぞれの属性を持つ光が、まるでオーロラのように私を包み込む。
「なっ...何だこれは!?」
アルフレッドの驚愕の声が聞こえる。しかし、私にはもうそれどころではなかった。
前世の記憶。Vtuberとして活動していた日々。大勢の視聴者と交流し、笑い、泣き、そして...突然の病。そして、この世界への転生。
全てが一瞬で鮮明に蘇る。
「そうか...私は、ここに来る前は...」
言葉が途切れる。しかし、もう全てを理解していた。
私は、かつて「輝希ミライ」という名のVtuberだった。そして今、その記憶と力が、この世界で目覚めたのだ。
光が消えると、そこにユグドラシルの枝は無く、代わりに綺麗に磨かれた短い杖が置かれていた。いや、この形状を私は良く知っている。
「これ、ごっぱちマイクじゃない?」
懐かしい。私もデビュー当時はこれ一本で、大事に大事に使っていたマイク。重さも丁度良い。思わず状況も忘れて鼻歌が出てしまうほどだった。
そんな私を後目に、周囲の人々は驚愕の表情で私を見つめていた。その中に、呆然とするアルフレッドの姿もあった。
「アイリス...お前、一体何を...」
彼の言葉を遮るように、私は静かに、しかし力強く、マイクを口元に言い放った。
「殿下、先ほどの婚約破棄、しかとお受けいたします」
アルフレッドの顔から血の気が引いていく。
「だって...私には、もっと大切な使命があるみたいなんです」
私の口元に、小さな笑みが浮かぶ。それは、かつての「輝希ミライ」の、自信に満ちた笑顔だった。
「この世界を...革命してみせます」
そんな言葉が口をついて出た。周りの貴族たちは困惑の表情を浮かべている。
その中で、一人の老紳士が、興味深そうな目で私を見つめていた。宰相のクラウス・フォン・ヴェストファーレンだ。彼の口元に、かすかな笑みが浮かんでいるような気がした。
「アイリス・ヴァンローゼ」
クラウスの低い声が、静寂を破った。
「お前の言う『革命』とやら、非常に興味深いな。ぜひとも、その詳細を聞かせてもらいたいものだ」
その言葉に、アルフレッドが驚いたように振り返る。
「宰相! まさか、この者の戯言を...」
クラウスは、アルフレッドの言葉を軽く手で制した。
「殿下、我々は常に新しい可能性を探るべきです。たとえそれが、『戯言』に聞こえようとも」
その言葉に、アルフレッドは言葉を失った。
クラウスは再び私に向き直り、微笑んだ。
「さて、アイリス。お前の『革命』、この老いぼれにも分かるように説明してくれるかね?」
私は深く息を吸い、決意を込めて答えた。
「はい、喜んで説明させていただきます」
クラウス宰相の鋭い眼差しに、私は少し緊張しながらも、しっかりと言葉を紡いでいく。
「私の言う『革命』とは、この世界に新しい形のコミュニケーションと娯楽をもたらすことです。それは...」
ここで私は少し躊躇した。Vtuberという言葉をそのまま使っても、誰も理解しないだろう。かといって、詳しく説明するには時間がかかりすぎる。
「...魔法と技術を融合させた、新しい表現方法です。人々に笑顔と希望を届け、同時に社会の問題にも目を向けさせる。そんな可能性を秘めているんです」
クラウスの目が僅かに細まる。「ほう...具体的にはどういったものだ?」
「例えば...」私は言葉を選びながら続ける。「多くの人々に同時に語りかけ、その反応をリアルタイムで受け取ることができるんです。それを政策に活かせば、新しい形の民主主義にもなり得る...」
しかし、ここで私は自分の言葉に困惑した。確かに前世ではそれが可能だった。でも、今の私にはその力はない。それどころか、そのための道具さえまだ存在しないのだ。
「いえ...申し訳ありません」私は深く頭を下げた。「今の私には、まだそこまでの力はありません。ですが、必ずやその力を手に入れ、この国のために役立てたいと思っています」
アルフレッドが冷ややかな声を上げる。「つまり、ただの夢物語だったというわけか」
しかし、クラウスは静かに首を横に振った。「いや、お待ちなさいませ殿下」
「ここにいるアイリスは、我が国の宝であるユグドラシルに認められ、精霊と契約を結ぶものであれば誰もが感じているだろう、数百の精霊に見守られている」
その言葉は、皇太子アルフレッドに向けられているようで、その実はそこにいる貴族全員へのものだろうことは、その声量からも明らかだった。クラウスはさらに続ける。
「アイリス、お前の言う力を得るには何が必要なのだ?」
私は真剣な表情で答えた。「精霊の魔法と未知の技術を融合させた新しい道具を作り出し、多くの人々の協力を得る必要があります。時間はかかるでしょう。でも、必ず実現してみせます」
クラウスはしばらく黙考した後、ゆっくりと口を開いた。「よかろう。お前の言葉に嘘はないようだ。ならば、お前にチャンスを与えよう」
「宰相!」アルフレッドが驚いた声を上げる。
クラウスは毅然とした態度で言い放った。「殿下、新しい可能性を探ることも、我々の務めです。アイリス、お前に相応しい辺境領地を与えよう。そこで、お前の言う『新しい力』を育て上げるのだ」
私は深々と頭を下げた。「ありがとうございます、宰相。必ずや、この機会を活かしてみせます」
クラウスは微笑んだ。「期待しているぞ、アイリス・ヴァンローゼ。お前の『革命』が、どのような形を取るのか、楽しみでならん」
私は顔を上げ、決意に満ちた表情で答えた。「はい。時間はかかるかもしれません。でも、必ず結果をお見せします」
そして、私は心の中で誓った。
(待っていてね、みんな。必ず、あの日々を取り戻してみせる。そして、この世界に新しい希望を...)