Phase.09 『丸太小屋』
暫く扉にもたれかかっていると、やがて何かがぶつかってくる事もなくなった。しかし、なんとなくだけどこの小屋の周りでは、狼共がまだこちらを睨み付けて潜んでいるだろう気配は、感じる。
「これは、まだ暫くここで大人しくしておいた方がいいな……いてて」
狼に噛まれた右足に痛みが走る。ズボンが濡れている感覚。見ると、噛まれた辺りが赤く染まり濡れていた。
俺は噛まれた部分、ズボンの裾をゆっくりと慎重にめくり上げる。傷口に擦れて、痛みで声が漏れる。
「こ、これはヤバいな。病院に行かなくちゃ駄目なレベルの怪我だ……」
ザックを漁り、タオルとペットボトルに入ったお茶を取り出した。そして、お茶を傷口にかけて洗うと、怪我した場所にタオルを巻いた。
「ぐっ……いってーー。お茶は弁当を食うからって持ってきていたけど、なんとなくタオルも持ってきておいて良かった。これなら、包帯の代わりになる……よしっ!」
身体はまだ小刻みに震えていた。それも無理はない。もう少しで、狼に襲い掛かられて喰われるところだったのだ。しかし、俺は死にたくはない。無我夢中だったけど、あの絶望する状況下で上手い具合にこの丸太小屋を見つけて中にも入る事ができ、助かる事ができた。本当についてた。
だから、なんとしても助かってみせる。少し走ってここへ来てしまったけれど、考えてみればもとの世界へ戻れる女神像まで、ここからはそれほど離れていないのだ。これしきの事で諦める訳がない。
木刀を杖代わりにして、立ち上がる。やはり、右足に激痛。もう片方の手に握る懐中電灯で小屋の中を照らした。
「扉には鍵がついていない。何かで押さえないと……」
小屋の中、まずは目の前の大きな長方形のウッドテーブルが目に入った。そして椅子が四脚。
俺はまず近くにあった椅子を掴み、扉の前に運んで抑えた。そして、その隙にウッドテーブルで扉を抑えようと動かそうとしたけど……お、重い。仕方がないので、残りの椅子も扉の前に運んで積み重ねて置いた。
うちの会社で使っているような椅子なら、きっと扉をまた体当たりされたりしたら簡単に動いてしまうだろう。だけど、この小屋の椅子はウッドチェアでしっかりした作りで重い。これなら、四脚全てを積み重ねて置いておけば扉を塞いで置くことはできると思った。うん、少なくとも狼からは大丈夫だろう。
「ゴホッ……ゴホッ……」
小屋の中は蜘蛛の巣、そして埃が凄かった。もう何年も使われていないように見えるが……こんな小屋があるという事は、この異世界にも人がいるという事だろう。
ドワーフ、エルフ、獣人なんかがいる世界かもしれない。だとすれば、会ってみたいと思った。例えばゲームやアニメなんかでは、エルフが登場すると必ず美形だったりする。……つまり、エルフの女の子は美女ばかりなのだ。それで、出会って恋におちて……なんとも夢がある話だ。
「ふーーむ。……って、こんな時に俺はいったい何を考えているんだ。はは……」
こんな時だからこそと思った。とんでもない思いをしたけれども、こんなくだらない事を考えて鼻の下を伸ばしていられるなら、俺はまだ大丈夫だ。まだ、気持ちはしっかりしている。
俺は小屋の中に大量にある埃が舞い上がらないように、ゆっくりと窓の方へ移動しそこから外の様子を覗いて見た。窓にはガラスがハマっておらず、木の板で蓋がされていた。内側からは簡単に開くようになっている作りだったので、それを持ち上げる。
「ま……真っ暗だ。真っ暗で何も見えない」
何とか小屋の外は見える。だが周囲には草が茂っていて隅々までは見えない。森に至ってはもう真っ暗でどうなっているのか何も見えない。
「くそ、月明りだけじゃ何も見えないな。しかも森に潜まれていたら、まったく解らない」
少し開けた窓の隙間から外に向かって懐中電灯で照らし出す。一瞬、森の方で獣の目のようなものが光っているように感じられたが、よくは解らない。
俺は溜息をつくと、腕時計を見た。――時計の針は、夜中の2時半を回っていた。
「もうこんな時間か。とりあえず、朝までここにいてやり過ごすしかないか。この異世界には、狼やスライム以外にも鹿もいた。あの狼の群れだって朝までここにいて、小屋から外に出てくるかどうかも解らない俺を待っているよりも、あの鹿とか他の獲物を襲いにいくに決まっている」
とりあえず、この小屋で朝まで息を殺してじっとしている事にした。朝になれば、狼の群れも何処かへ行ってしまっているだろう。そうしたら、あの草原まで一気に駆けて女神像までたどり着けるはずだ。
身体は相変わらず恐怖で震えていた。だが、本当に自分が助かる気があるのなら最後の手がなくなるまでは絶望せずに諦めず、考えて考えて足掻くべきだと思った。
……それにしても毎日毎日、面白くもなくやりがいもない今の仕事の為に、俺の住む練馬から高円寺まで通勤し、毎日毎日疲れて帰ってきては、家にこもってオンラインゲームの毎日。このまま更に歳をとって、人生何もなく終えて行くのだと思っていた。
まさか、異世界が現実にあってそこへ行けるなんてな。
身体がまだ震えている。手を見ると、小刻みにぶるぶるとしているのだ。
スライムに襲われた。狼の群れに追い掛け回され殺されかけた。それで、恐怖で身体が震えているのだと思った。
だけど、この小屋で息を殺し朝まで時間を潰していると、この震えは恐怖だけではないような気がした。