Phase.58 『10万』
会社に戻ると、5連休もしておいて昼休みの時間も守れないなんて仕事を舐めているのか? やる気がないのなら家に帰れと山根にネチネチと怒られた。
これには、北上さんも助け船を出せずに、じっとこちらの成り行きを見つめていた。
その後やっと自分のデスクに戻れると、隣のデスクにいる翔太に目線を送った。しかし翔太は、こちらに気づいているはずなのに全くこちらを見ようともしなかった。からかわれた事に腹を立てているんだ。俺はからかってなんていないんだけど……
業務が終わったのは、定時を1時間も過ぎた頃だった。サービス残業という奴で、給料はつかない。山根は、クククとイヤらしく笑っていたけど、昼休みを30分程オーバーしていた俺には言い返せなかった。これは流石に当然の報いか。
帰る準備をすると、翔太も丁度出ようとしていたので声をかけた。
「翔太、昼の話だけどな、俺はからかうつもりなんてなくて本当に……」
「ああ、もういいって! はいはいはい! それじゃ、俺今日はもう忙しいからよ! おつかれ!」
「おい、待てって!!」
「離せって! お前だって忙しいっつって一人でサッと帰っていたろ!! 自分は良くて、相手は駄目って考え方なのか?」
「おい、そんなつもり……」
「兎に角、今日はもういいって! また明日、じゃあな」
考えていたよりも、翔太は怒っていた。こうなってしまったら今は何を言っても無駄。また明日、話をしてみようと思った。
それと翔太の事もあれだけど、俺はかなり焦っていた。アプリが起動しない事に関してだった。会社を出る前に、トイレの個室に入ってもう一度起動して転移できるかやってみたけどやっぱり駄目だ。
どうしよう、俺はかなり動揺していた。このまま『異世界』に戻れなかった場合、未玖はどうなってしまうのだろうか? 駄目だ! 俺は確かに戻ると約束をしたんだ。なんとかしないと!!
会社を出ると俺は練馬にある自宅に向かわずに、秋葉原へと向かった。アプリが起動しないんだったら、もう一度あのメイドさんがいる店に行って相談してみるしかない。そう思ったからだ。
秋葉原に到着すると、俺は急いで例の『アストリア』という店を目指した。あの丸太小屋で未玖は、今も俺が戻るのを待っている。そう思うと、走らずにはいられなかった。
息を切らして汗だくになった所で、店があるビルの前に到着した。階段をあがって店へ――
扉を開ける。すると、平日だというのに店の中には何人ものお客さんがいて、椅子に座ってそれぞれお茶をしながら会話を楽しんでいた。
部屋の奥、カウンターに目をやると俺の知っているあのメイドさんがいた。そして俺の来店に気づくとにこりと微笑む。
「いらっしゃいませ、ご主人様。本日はどのような御用でしょうか?」
「あの……実はですね。アストリアの事に関して話したい事がありまして……」
店には他の客もいる。『アストリア』の事を話してもいいのかと思った。しかし他の客は、誰も気にしていないように思える。俺は彼女にスマホに入れてもらった『アストリア』のアプリが起動しようとしても、全く起動せず、その表示も薄くなっている事を見せて伝えた。
すると彼女はまた微笑んだ。
「椎名様は、アストリアを気に入られたのですね」
頷く。
「ああ、あの異世界へ行きたい!」
「あれから一週間位でしょうか? 危険な体験もされている事とは思います。命を落とすかもしれないと、お気付きになられたでしょう。それでも、『異世界』へ戻りたいと思われますか?」
「勿論だ!」
勢いあまってカウンターを両手で叩いてしまった。周囲の客が一瞬驚いて俺に注目したが、直ぐに申し訳ないですと頭を下げると、何事も無かったかのように周囲の客はまたそれぞれにお喋りやら何やらし始めた。
「す、すまない。ちょっと興奮した。申し訳ない」
「ええ、別に問題はありません」
丸太小屋。あそこで俺が戻るのを待っている人がいる。未玖の顔が俺の頭から離れない。俺がいない間に、何事も起きていなければいいのだが。その事を考えると、心配で落ち着いてなんていられなかった。俺は続けた。
「それで――『異世界』へ戻りたい。どうすればいい?」
「戻りたい……ですか。フフフ」
メイドさんは、にこりとまた微笑んだ。
「それでしたら、問題はありません。椎名様に戻る意思と覚悟がございましたら、直ぐにでも戻れますよ」
「え? ほ、本当か!! 本当に、そうなのか!! それだったらすぐに……」
「それにはまず、椎名様にはこの場でキャッシュで10万円お支払い頂きたく思います」
「え?」
「最初にご来店頂きました時に申し上げましたが、椎名様が本日急に『異世界』へ行く事ができなくなった理由は、何もアプリの不調ではありません。お試し期間が終了したからでございます」
「お、お試し……」
はっとした。そうだった。最初に、このメイドさんは『異世界』に転移できるアプリを10万円っていう値段で提示していた。
俺が躊躇していると、ただでも言いと言った。お試し期間という事で……なるほど、つまりそういう事だった。
「じゅ、10万円払えば転移アプリを使えるようにしてもらえるのか?」
「もちろんでございます。ですが、10万円お支払いしてもらえればそれで終わりという訳ではありません。月額、10万円という事になります」
月額10万円……マジか……でも『異世界』の魅力、夢のようなファンタジー世界への転移……それを考えると、万年平社員の俺にとっては大金であっても破格の値段だと思った。
未玖が、あの丸太小屋で一人不安に俺の帰りを待っている。迷う必要なんてあるのだろうか。




