Phase.35 『プレデター』
森の中は、想像していたよりも恵みに溢れていた。これで、狩りもできる事になればわざわざもとの世界から食糧を持ってこなくても、十分にやっていける。
まあ、そう言ってもお菓子や珈琲なんかはもとの世界から持ってこなくちゃなんともならないだろうけど。
未玖は丸太小屋から割と近くに洞窟があると言っていた。だけど、そろぞろ1時間程になる。まあ、途中の川で魚を獲って遊んだり、未玖が食べられると言った木の実や果実を見つかては採取していた時間も含めてだけど。
「ゆきひろさん、あそこです」
未玖が指をさした先に、何やら大きな重なりあった岩があった。未玖が、丸太小屋に来る前に寝泊まりしていたという洞窟がここか。
先に行こうとした未玖の手を掴んで引く。
「え? どうしたんですか?」
いきなり腕掴み、強めに引っ張ったんで不安になったのか、少し震えた声で未玖が聞いた。しかし、俺は引っ張って抱き寄せた未玖の顔に手を伸ばし口を塞いだ。
「ッシ! 静かに!」
何かを察した未玖は、頷いた。俺は未玖から手を離して森の中――少し向こうに見つけたそれを指でさした。
「あ、あれは!」
「あれが何か解るか?」
俺は遠目にそれを見ても、それがなんなのか解った。だがあえて未玖にも聞いて確認をした。
「サ、サーベルタイガーです」
「やっぱり……」
虎や豹よりも巨躯。上顎から下に向かって生える二本の角のように大きな犬歯。サーベルタイガーだ。あんなものに襲われたら、とんでもない。狼の群れは狼の群れでまた違った恐ろしさがあったけど、これはもっとヤバい気がした。
如何にも猫科特有の瞬発力のありそうな身体。体重も500キロ以上は優にありそう。もう、猛獣とか魔物とか言う前にあれはモンスターだ。
「未玖……絶対に動くな。身を低くして奴が通り過ぎるのを待とう……」
「は、はい」
見つかれば終わりだ。未玖が逃げ切るまでの時間稼ぎをするにしても、今の俺なんかじゃきっと瞬殺だろう。俺が瞬殺されてその後、直ぐに未玖も殺されて食われる。あっという間だろう。
サーベルタイガーを目にして初めて、自分が今とんでもなく思い切った事をしている事に気づいた。丸太小屋の周辺でも既にスライムや狼、ゴブリンに遭遇している。この森にはこれだけの植物や動物、魔物だって沢山生息しているのだから、比例して危険な魔物だっているはず。それが自然だ。
なのに俺は、未玖を連れて丸太小屋からこんなにも離れて来てしまった。この『異世界』は、どんな世界なのかまだ得体が知れない。危険な魔物だって普通にいるし、ここまで来るにはまだ俺には早すぎると思った。
そう、早すぎる。決して無理だとは思わない。準備が足りていないのだ。
サーベルタイガーからは、結構な距離がある。しかもこちらが風下。これ位距離があれば、じっと草場に隠れて待てば見つからない。
「いいな、そのままじっとだ。怖いだろうけどじっとしていろ。余計な事は考えずに草木と同化するんだ」
「は、はい。解りました」
未玖はしっかりしていた。二カ月間もの間、こんな魔物がひしめき合う世界で生き延びていたのは伊達ではないと思った。
――――息を殺す。
ろくな準備もしていない状態で、こんな森の中で奴にもしも見つかったら最後だ。それを考えると吐きそうになる。だけど身を低くし草場の影で息を潜める中、未玖の小さな手を握っているとなぜか勇気が湧いた。とても小さな勇気。決して大きなものじゃないし、実際あんなでかいサーベルタイガーなんてもんに噛みつかれたら、漏らして泣き叫ぶだろう。
だけど、未玖を逃がす間の時間は何としてでも作る。作ってみせる。だぜ、知り合って間もない少女の為に、ここまで思う事ができるのだろうかと考えた。
……きっとそれは、彼女が年端もいかない小さな少女で、俺がこんなんでも大人であるという事だろうと思った。子供に危険が迫っている時、大人なら身を挺しても助けに行くだろ? それが自分の子供でなくても常識だと思った。
生きた心地がしない――そんな風に思いながらの時間の経過は通常よりもかなり遅く感じられた。アインシュタインの相対性理論。
気が付くとサーベルタイガーは何処かへ消えていた。腕時計を見ると、1時間位じっとしていた感覚があるのに、10分も経過してなかった。
「ど、どうしますか? ゆきひろさん」
「冒険にしてもちょっと遠くまで来すぎてしまったな。ここまで来るのはもっとこの異世界の事を知って、それなりの備えができてからじゃないと危険だな。今だってもし、ここが風上ならニオイで気づかれて殺されていたかもしれない」
「……はい」
「だけどここまで折角来たし、未玖が数日でも住んでいたという洞窟を見てみたい」
「す、住んでいたというか寝泊まりをしていた程度ですよ」
「それでも見たい。未玖はいくつかここ以外の洞窟や洞穴を見つけたって言っていたけど、俺はこの洞窟がこの世界で初めて見る洞窟なんだから。さっと見たら、気が済むから」
「は、はい。それじゃあ行きましょう」
いなくなったと思っていたサーベルタイガーがふいに目の前に現れる事だって考えられる。肉食獣っていうのはだいたいそうだ。俺のアニメ&映画知識だけど。
先導しようとした未玖の手を引いて、俺が先頭になり洞窟まで近づく。洞窟の周りには沢山のシダ植物のようなものが生えており、中からはひやりとした空気が流れてきた。
俺は、唾をごくりと飲み込むと洞窟へと足を踏み入れた。




