Phase.178 『追ってくる恐怖』
木の倒れる音がした。それはベキベキベキという凄いというか、恐ろしい音。
その音に驚いた僕達3人は、一斉にそちらの方を振り向く。するとその木々が倒れる森、暗闇から恐ろしい巨体の怪物が姿を現した。
大きな身体、ゆうに3メートルはあると思う。そして土気色の肌の色と、凶悪な顔。牙。右手には、丸太のような棍棒を持っている。僕は思った。まるで鬼だ。
「あ、あれは鬼!?」
すると小早川が言った。
「オ、オーガじゃない。トロルだ……見ろ、物凄く頭は悪そうだ」
グヘヘ……グヘヘヘ……
小早川の言葉に、僕も有明もトロルに目を移す。目は正気のものではなく、口からは牙が飛び出ていてヨダレを垂れ流している。流したそれが腹におちて身体を伝っていた。
……確かに……確かに、頭は悪そうだ。だけどとても凶暴で残虐性の高い化物に見える。手加減なんて一切してくれそうにない。
グヘ……グヘヘ……
トロルは僕達3人をじっと見つめていた。そしてゆっくりとこちらに近づいてくる。
「ひい、ひいいい!! に、逃げろおお!!」
最初に悲鳴をあげたのは、小早川だった。有明はじっとトロルを見て、その場で震えたまま固まっている。
それで解った。この二人は、この異世界へ転移してから本当にまだ一度として危険な魔物と遭遇をしてはいなかったんだ。僕も吐きそうになった。それ位、トロルの姿は、恐怖そのものとして十分な存在をしていた。
だけどこのままここにいれば、確実に僕らはあのトロルに殺される。有無も言わずにあの丸太のような棍棒で叩き潰されるだろう。もしくは、腕や足を乱暴に掴まれ引っ張られ、残酷に引きちぎられるだろう。容易に想像ができる。
小早川が叫んだ。
「やばいやばい!! あっち!! あっちからも、別のトロルがこっちに向かって来る!! ひいいいい!! 逃げろ、逃げないと殺されるうううう!!」
小早川の常軌を逸した叫び声に周囲を見回すと、本当に僕らは複数のトロルに囲まれていた。
そのトロル達の中には、血を浴びているものもいる。何かを背負っているみたいで、よく見てみると鹿や猪の死骸で、その中には首の無いグシャグシャに身体を潰された人間の死体もあった。異世界人ではない。服装で僕らと同じ場所からきた転移者だと解る。
「ぎゃああああああ!!」
奇声にも似た悲鳴を上げて、僕らを置き去りにして逃げ去る小早川。だけどこの恐怖には抗えない。
ウガアアアアアア!!
そんな全速力で走る小早川を見て、逃がすまいとトロル達が動き出した。手には、大きな棍棒。
僕は、恐怖で固まっている有明の腕を思い切り掴むと、彼の耳元で大声で叫んだ。
「有明君!! 何をしている、逃げよう!! 逃げないと僕らはここで確実に殺される!!」
「え? あ、う、うん」
有明の腕を掴んで走り出す。正面にはトロル。後ろからもドスンドスンと、破壊力のある重い足音を響かせながらも何かが僕ら目掛けて突進してきている。
正面にトロル!! そいつが僕ら目掛けて棍棒を振り上げたのを見ると、僕は「こっちだ!!」と言って有明の手を引いて、避けて走った。
1匹目、2匹目のトロルをかいくぐると、その後はもうがむしゃらに走る。駆けて駆けて駆けまくった。それでも後方からは、何匹ものトロルが僕達を追いかけて大きな足音や邪魔な木をへし折る音を立てて追跡してくる。
僕は生きた心地がしなかった。さっき食べた弁当も全て吐き出してしまいそう。
そうなったのは、醜悪なトロルだけではなく、極めつけだったのが、トロルが背負っていたグチャグチャに潰された人間の死体。殺された人間を見るのも初めてだったし、あんな無残な殺され方……気がおかしくなってしまうと思った。
だけど結果、おかしくはなっていない。
恐怖とショックで固まってしまっていた有明の腕を引いて、こうしてトロルから逃げている。その事に自分でも驚いた。身体が動くことに……そしてどうすれば、逃げ切れるか……そして生き延びられるか、自分でも驚く位に頭の中はフル回転している。
本当なら僕も恐怖で、小早川のように一人で後先考えずに逃げ出していたか、有明のように固まってしまっていただろう。
でも僕は吐きそうな位の恐怖の中で、生き延びる為にはどうすればいいか――それを考えて行動する事ができている。
きっとこれは、僕の今までの境遇の賜物かもしれない。あまりそう考えたくはないけれど、僕は毎日毎日毎日毎日、市原達に虐められていた。市原に対して僕は何もした記憶もないのに、市原はまるで僕を親の仇のように虐めて虐めて虐め抜いてきた。
だからだと思う。ずっと恐怖と絶望にさらされていたから、僕はその中でも考えを鈍らせず身体を動作させる事ができた。
僕の存在していた真っ暗な世界とはまるで違う場所を、懐中電灯で辺りを照らす余裕もなく全力で突っ切る。
「いたっ!! うわああああ!!」
「え? うわあああ!!」
石かそれとも木の根か枝か……解らないけれど、それに躓いて転がる。そのまま坂になっている場所を有明と共に転がり落ちていく。
驚いて悲鳴をあげたのは最初だけ。その後はもう何が何だかよくわからないし、そんな余裕も無かった。
土や落ち葉、泥にまみれてずっと下まで転がり落ちる。
ようやく止まった所――目の前には、沼があり草の茂みがあったので、僕はすぐさま草の茂みの方に目を向ける。そして急いで、近くで転がって呻いている有明の身体を掴んで引きずり、一緒に茂みの中に身を隠した。




