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記録

作者: 音海時雨

※こちらの物語は音海時雨のアルバム「るる」「記憶」を予め聴いてから読んで頂くことを推奨しております。











嗚呼。君は流れる雲のように穏やかで、また僕も穏やかな日々を過ごして行けるのだ。

僕はこの心臓一つ、君にあげてもいいくらいなのに。そんなことをあの月に向かって呟いている。

僕はまだ、弱虫だ。きっとそうだろう。

記録




















 風が透き通る。

 雲が泳いでいる。

 今年は多く積もった雪も、すっかり溶け始めている。

 懐かしい地面が見えてきて、僕はひたすらに道を歩く。

 太陽が僕を包み込んで笑う。今年も春がやって来た。

 目を覚ますと、そこには今まで居た彼女が居なかった。

 「るる、君は何故。」


 三月二十五日のことだった。君は病院に運ばれた。

 意識不明の状態だった。

 聞けば、記憶を失ってしまっているらしい。

 僕はそれが信じられなかった。医師に、

 「るるさんの顔、見たいでしょう。病室入っていいですよ。」

 そう言われたが、今は見る気になんてなれずに病院を出て近くの公園のベンチに座った。

 こんな話、どこかのドラマとかアニメだけだと思っていた。まさか現実に起こるなんて思ってもいなかった。

 冷たいこのベンチに花びらが一枚降ってきた。

 もう色なんて分からないくらい気分は沈んでいた。

 公園で遊んでいる子供たちの声、夕暮れと共に烏が鳴いて皆が帰っていく。そんな中僕は一人この場所で俯いていた。

 ただ少しの希望すらもう無くなったと思った。

 サッと風がちらついては木が揺れる。

 少しだけ風に押されて頑張れと言われている気がしなくもなかった。少しだけ前に出るとか小さなことから始めてみようとかそんなことを思った。


 朝ごはんもなかなか喉を通らない。最近は何もしたくないという日ばかりだ。

 ただ、やっと今日からるるのいる病院に通って会いに行こうと思う。身支度をして、玄関を出て息を吸った。

 外はすっかり春という景色が目に見えて分かる。空には雲一つ無い青空。

 僕はこのアパートの階段を下りて歩く、歩く。行く道先の途中にはお花達。夏を待っている木々たちと雑草。足を進めて十五分。君の居る病院に着いた。

 三○五号室の扉を開けるとそこには美しく眠っている。ベットの元へ向かって椅子に座る。

 暖かい椅子の座り心地。僕も少し眠ってしまった。三十分くらいして目が覚めた。君はすでに起きていた。何か声を掛けよう、と思って、

 「おはよう。」

 と声を掛けた。すると君は怯えながら、

 「……おはよう…ございます…。」

 と言った。

 こんなに怯えられるなんて思って無いから多少ショックを受けた。

 「僕のこと分かる?」

 なんて聞いても分かり切った答えしか返ってこないが聞いてみることにした。答え合わせのつもりだ。

 「…いいえ。分からないです…。」

 答え合わせはもちろん合っていたが、それ以上にやっぱりショックを受けてしまった。

 だけどもう諦めて何とかしていこうと思った。

 窓には久しぶりの雨が降っていた。









 ここ数日るるの居る病院に通うことが多くなっていった。

 るるも少しずつ僕のことを覚えていった。顔くらいはもうとっくに覚えているだろうか。

 まぁ、そんなことはどうでもいい。

 君の左手にはいつも針が刺さっていて薬が投与されてる。

 僕は点滴が嫌いだ。長い間針が刺さっている時間を過ごさなければいけないから。

 僕にはそれが苦痛で仕方がなかった。君は記憶を失っているから、左手に刺さっているものが点滴ということも知らないのだろう。

 十七歳にもなって点滴という言葉すら知らない。そんなことあってたまるか。

 あの八月の思い出とか、海の思い出とかも全部忘れてしまったんだ君は。そんなことを考えると僕だけが知っている思い出みたいで、悲しくて、虚しくて、苦しかった。

 考えれば考える分だけ涙が溢れそうになった。

 だけど君の前で涙を流すほど僕は弱くないはずだ。だから今は泣くことを辞めて涙を枯らせよう。

 気晴らしに病室から一回出ようと思って、

 「るる、何か食べたいものはある?」

 そう聞くとるるは、

 「何か、パンと飲み物が欲しい。」

 これを口実に、僕は一回病室から出て病院の中にあるコンビニに向かった。

 るるの好きなパンは焼きそばパンだった。そして好きな飲み物はカフェオレ。

 その二つを持ち、さらに僕はおにぎりを買った。

 もう二週間はこのコンビニと病室を行ったり来たりしてるものだから、店員に顔を覚えられた。店員は、

 「いつでも来てくださいね。」

 と言われているから気軽に行きやすい。だけどあまり行き過ぎてはるるを待たせてしまうし、不思議がらせてしまう。

 だから一日に三回行くことが限界だった。

 病室に戻る途中、看護師が僕に話しかけてきた。

 「今日も来てたんですね。るるさんの体調はどうですか?」

 「るるは今までよりかは少しだけ素っ気なくて、でも体調面では変わらず元気だと思います。」

 「それならよかったです。るるさん、記憶を失ってしまってるようですから、かなりの時間はかかると思いますし、あなたもるるさんの記憶が無いとどう接したらいいか分からないこともあるでしょう?そんな時はいつでも声かけてくださいね。相談にも乗りますからね。」

 この病院は本当にいい人達ばかりだ。いつも助けられて気が沈んでしまった時でも少しは気が明るくなる。

 その看護師の言葉に相槌を打ちながら答えた。

 「よく考えて言葉を発することは本当に沢山あります。目を覚まして一言目はまだ敬語だったりもあります。自分だけこんな思い出を持っているみたいで悲しくなってしまうんですよね。」

 僕はまた少し涙目を浮かべてしまった。せっかく収まった涙だと思ったけど、やっぱり戻ってきてしまった。

 「やっぱりそうですよね。でも逆に自分だけが知っているその思い出を追体験するのはどうですか?思い出を上書きしてみたらいいと思いますよ。」

 これはいい考えだ、と思った。

 「いいですね。るるが退院したらやってみたいと思います。本当にいつもありがとうございます。」

 「いいえいいえ。全然ですよ。」

 そして僕はエレベーターに乗って、るるの病室がある三階に向かった。


  病室に戻ると君は窓の外を見ていた。

 「ただいま。焼きそばパンとカフェオレ買ってきたよ、あとおにぎりも。」

 すると君は少しだけ嬉しそうに、

 「おかえり。ありがとう。焼きそばパン食べたかった。おにぎりはいらないかな。」

  おにぎりはいらない、ということを言われるのは想定内だった。

  るるの朝ごはんは大体パンだったから、おにぎりはいらないだろうという予測を立てていた。

  その予測が当たって少し嬉しかった。おにぎりは僕が食べよう。

  二人で昼ご飯を食べる。

  「この焼きそばパンおいしい。」

  君がそう言って微笑みを零した。おにぎりが数倍美味しく感じる瞬間だった。

  あっという間にご飯は食べ終わった。

 今日でもう二本目の点滴を飲み干したるるは元気そうだった。今日の分の点滴を終わらせたるるはやっと左手に刺さっていた針から解放された。

 「今日天気が良いし、屋上に出てみない?」

 僕の言う提案にるるは、

 「いいね。しばらく外の空気吸えてなかったし行きたいかも。」

 そう言ってくれたからるると一緒に屋上に向かった。

 今日は天気が良い。心地の良い風と少しばかり流れる雲を見ながら二人で過ごした。

 「外の景色ってこんなに綺麗なんだね。」

 「そうだよ。今日も綺麗だけど、もっと綺麗な日もあるんだよ。」

 「そうなの?気になるー。」

 「るるが退院したら見に行ったりしようね。」

 「うん!」

 近い未来のことの約束をすれば何となく気分は落ち着く。安心する。

 ここ東京の景色はもう見慣れてしまっているけど、その見慣れた景色の中に毎日グラデーションが加えられる。青とか、オレンジとか。

 僕もるるも東京生まれで、東京の南千住で育っている。

 中学、高校一年の頃はよく下校途中に友達とか、るると一緒に千住間道の通りにある体育館に通っては遊んでいた。

 よく遊んでいたのは、バレーとバスケだ。どちらも得意というわけではないけど遊ぶ程度では好きなほうだった。

 ずっと走り回っていては疲れてしまうから地べたに座り込んで休憩をしていた。

 その時の地面の冷たさは汗を流した後に座ると、とても気持ちの良いものだった。

 今でもその感覚を忘れないでいる。そういう細かい物事が僕の中では思い出になっている。

 るるもきっと記憶がある時までは同じだったと思う。

 忘れられないあの温度と、スポーツ飲料の味。青春の味だ。

 「そろそろ肌寒くなってきたみたいだし、病室に戻ろっか。」

 薄いカーディガンしか羽織ってなかった君に言った。


 病室に戻って、外の陽が落ちてきていることに気づいて、

 「今日はもう暗くなってきたから帰るね。また明日来るね。」

 そういうと君は寂しそうに手を振りながら、

 「またね。」

 それだけ言い残して目を瞑った。

 僕は病室から出た。

 夏が近く感じた。









 桜が少しずつ散り始めた。気温も本格的に夏になり始めている。

 僕はアラームを止めて洗面所に向かう。顔を洗う。

 朝ごはんを食べることもせず、着替えるだけ着替えて家を飛び出した。

 そうだ。今日は君が退院する日。やっと退院できる。

 走って君のいる病室へと向かった。

 「おはよう!」

 元気な声でるるに言った。

 もう、顔を見るだけで本当に叫びたくなるくらい嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった。

 「おはよ!」

 るるも元気な声で返してくれていた。

 少し前に病院の屋上から桜の景色を見ていた時、君は寂しそうな顔をしていたのは覚えている。

 あれから数日は、朝「おはよう。」と言っても、「おはようございます。」この敬語から始まっていた。

 でも、今日は「おはよう!」この元気な言葉を聞けたのはとても嬉しかった。

 今日は散々世話になった看護師も来てくれていた。

 「るるちゃん、約一ヶ月お疲れ様。よく頑張ったね。これからは二人で頑張っていくんだよ。応援してるよ。あなたも支えてあげてくださいね。」

 「はい、本当にありがとうございました。これからも支え続けていきます。お世話になりました。」

 僕は軽い笑みを浮かべて看護師と握手を交わした。

 「看護師さん、今までありがとうございました。たまに夜寝れない時に話したこと、楽しかったです!お世話になりました。」

 そしてるるも軽い微笑みを浮かべて握手を交わす。

 看護師は一階の玄関までお見送りをしてくれた。

 「それでは、お疲れ様でした。お元気でね!」

 そう言って看護師は手を振った。

 僕らも木の陰になって見えなくなるギリギリまで手を振っていた。

 看護師が見えなくなって、スッと手をおろした瞬間に一気に心が安心へと変わっていく感覚がした。

 横を見るとるるが楽しそうに歩いている。この横に並んで歩いている感覚、いつぶりだろうか。

 道端に咲く花とか木とか風で少しばかり揺れる。

 夏の匂いはもうすぐそこまで来ている。

 「るる、自分の家分からないよね?」

 「うん」

 「そうだよね、じゃあ一緒に行こう!」

 「ありがとう。私、何も分からない。食べ物のことも、この世界のことも。そして君との思い出のことも。」

 「分かってるよ。大丈夫。思い出沢山作っていこう。」

 るるは涙を一滴零して、

 「本当に?いいの?」

 と聞いてきた。 

 「もちろんだよ。沢山思い出作ろう。」

 優しい声で言った。

 「うん…!」

 この何気ないこの会話が幸せで、その幸せが溢れそうで溢れた幸せも受け取っておきたい、そんな感覚で体が満ちた。

 るるが入院していた頃は、本当に生きている意味が分からないくらい彷徨って、迷走していた。

 眠れない夜もあった。目にクマをつけてるるに会いに行ったことも何度もあった。

 そんな日は大体、君も目にクマがついていて可愛らしい、愛おしいと思っていた。

 「外の景色ってこんなに綺麗なんだね。」

 病院の屋上でも同じようなことを言っていたこの言葉がまた出てきた。

 「そうだよ。この前、病院の屋上でも同じこと言ってたよね。」

 二人して笑いながら少し笑いが落ち着いた後、るるは目を輝かせながら、

 「でもさ、あの時は桜が綺麗だったでしょ?今はこの緑と色とりどりのお花が綺麗でいったんだよー。君が今日の景色も綺麗って言うから、今のこの景色にも綺麗って言ってあげないとなって思ったからさ。」

 あっという間に僕はその言葉に納得して、

 「確かに、毎日が見慣れてる景色でも、そこに毎日いろんな色が付いてるもんね。毎日綺麗っていうのはすごくいいと思う。」

 「そうだよそうだよ」

 君は繰り返しそう言った。

 他愛のない話をしつつ、道案内をしながら道を進んでいるともう二時間経っていた。

 「この信号をね、右に曲がるでしょ?」

 「うん」

 「でね、この先のちょっとした坂道を登ってすぐ左にあるアパート、それがるるのお家だよ。二○一号室ね。」

 「私ってこんなところ住んでるんだ。すごいなー。」

 病院から見る景色とは全く違うからか驚いていた。

 「ね!沢山いろんな景色があるって言ったでしょ!」

 「ほんとにすごいね!」

 るるは興味津々だった。

 家の鍵を開けて、

 「お邪魔します。」

 僕が言うと、

 「おじゃまします。」

 ちょっとだけ怯えながら言った。その姿を見て思わず笑ってしまった。

 「違うよ、るるはただいまでいいんだよ」

 「あ、そうなの?じゃあ、お邪魔しますってどういう時に使うの?」

 「お邪魔しますは、他人の家に上がるときに言うんだよ」

 そう教えてあげた。

 「へぇー。そうなんだね!」

 高校生なのに、自分の家を「ただいま」と言わずに「お邪魔します」と僕の真似をしてしまうところが本当に面白く思ったけれど、あっという間にそれすらも愛おしさに変わっていった。

 るるの家は二つ部屋があってそのうちの一つが六畳と言ったところだ。その六畳の部屋に必要最低限度の生活をするかのような家具の数。

 シンプルで、おしゃれでとても居心地が良く感じる。

 そしてるるの家は、とても懐かしい匂いがしたんだ。なんというか、香水じゃない、柔軟剤のような香り。

 どこか、胸を刺激してでもそれが心地良い。言葉にするのが難しい。

 部屋には日差しが入り込んでいる。

 「自分の家に帰ってくるのは久しぶりだね、今日はゆっくり休めるんじゃない?」

 僕はるるがもう約一、二か月振りに家に帰ってきたことで、自分の家が一番落ち着くだろうと思って聞いた。

 「うん。すごく落ち着くかも。」

 「やっぱりそうだよね。」

 やっぱり自分の家は誰でも落ち着くんだ。そう感じた。

 テーブルの上をよく見ると僕とるるが二人で映る写真と、その横には薬とコップが置いてある。

 るるは確か頭痛持ちで、よく頭痛薬を持参していたからきっと頭が痛くて飲んでいたんだと思う。


 前に、お花を見に少し遠くに出かけた時があった。

 それが丁度、この写真に写ってる時のことだ。東京から約三時間くらいの場所だろうか。

 そのお花畑はもう、天国かのような綺麗さで君の肌が透き通って見えるほど美しかった。

 その時にるるが、

 「やばい、頭痛くなってきた。」

 と言い出したから、

 「大丈夫?頭痛薬持って来たっけ?」

 「うん、もちろんだよ」

 「あ、良かった。近くにある自動販売機で水買おう。」

 僕は早足で自販機に向かってお金を入れて、天然水のボタンを押した。

 「ゴトンッ」

 落ちてきた天然水を手に取ってるるの元へと向かった。

 戻るとそこには蹲ったるるがいた。

 「お待たせ、お水買ってきたから早く薬飲んで。」

 「…うん。ありがと。」

 頭痛薬を二錠、手に取って口に含む。

 そして水を少量口に含んで「ゴクリ」と薬ごと飲み込んだ。

 その後にまた水を飲んで、何とか立ち上がる。

 「もう薬飲んだし大丈夫だよ。」

 「本当に?まだ休んでた方がいいんじゃない?」

 「んーん。大丈夫だよ。お水買ってきてくれてありがとう。」

 その大丈夫にすべての安心を託すことはできなかったけど、るるが大丈夫と言うなら大丈夫だろう。そう思った。

 しばらくお花を見たり、周辺を来たついでだと散策を始めた。

 町の商店街。街灯が等間隔に並んでいる。

 るるは髪飾りを買っていた。 「これどうかな?似合う?」

 「めっちゃ似合ってるじゃん。可愛いよ。」

 「ほんと!やったー、じゃあこれ買おーっと」

 照れて顔が赤くなっている。瞳は輝いている。

 もう本当に可愛くて叫びだしたい気持ちでいっぱいだけど、周りに人も沢山いるから叫ぶことはできない。

 その代わりに胸の内では、

 「かわいいー!」

 と僕の顔が赤くなるまで叫んでいた。

 僕は特に何も買うことなく、帰りの電車が来る駅へと向かった。

 駅の改札前で切符を買って、駅のホームへ向かう。

 電車に揺られて約二時間。家に着く。


 「そんなことがあったの?」

 るるは意外と興味津々に聞いてきた。

 「そうだよあったんだよ。めちゃくちゃ楽しかったんだよ。」

 「いいなー、またそんな感じでいろんな所に行きたいなー」

 るるからそう言ってくれたのは珍しくて嬉しかった。

 「これから旅に出たりしようよ。」

 「旅に出よう!」

 二人は旅に行こうと言って窓から入り込んでくる日差しを見た。







 そういえば病院の帰り道にあるお店から流れてるメロディが聞こえた。

 あまり繊細な音楽とは言いきることはできないが、でも何処かに楽しそうな雰囲気は感じた。

 そしたらるるが、

 「こんなメロディの曲、一回だけ作ってみたいかも。」

 僕は正直驚いた。

 まさかるるが曲を作りたい、なんて言うとは思いもしなかった。

 よっぽど、この流れている曲に影響を受けたのだろう。

 僕も音楽を作る側の人間ではあったけど、最近はるるのことしか音楽にしていない。

 「君を音楽にする」ことは僕と君が生きていた証を誰かに自慢したかったからとかじゃなくて、ただ僕が書きたいからだった。

 描きたいのはこの夏で、君は夏が似合う。いつになっても夏が似合ってしまう。

 僕はそう思えた。

 「メロディ、作ってみたら?」

 「えー?でも作り方分からないし。」

 「なんか適当に音を当てはめるだけ、それだけでも音楽には変わりないよ。」

 我ながらいいこと言った、そう思った。

 その言葉が君に響いたのか、

 「ふふーん、ふふーん」

 鼻歌でいきなり歌いだした。

 その鼻歌のメロディーは車が走る音と、木が揺れる「さらさら」という音と相まってとても良いメロディーだと感じた。

 「ねぇ、なんか変じゃない?」

 「そう?僕はめっちゃ良いと思ったよ」

 「そうかなー」

 「周りの景色とか見ながら聴いてると心地良くなる」

 褒めれば褒めた分だけ顔が赤く染まっていく。

 「音楽は才能だ」という言葉、何処かで聞いたことあるが僕はそんな風には思っていない。

 誰でも鼻歌を歌えばそれは音楽だ。その時点で、誰かが生み出した時点でそれは誰かが生み出した価値だ。素敵なものだ。

 所詮、才能は大衆から目につけられたものが才能と呼ばれやすい。

 そう位置付けるとそんなに沢山目につけられていないものは才能がないということになってしまい兼ねない。

 だから生まれたものすべてに価値があると位置付けたい。

 僕はそう思っている。

 絵画の世界だってそれは同じだ。

 どの業界においてもきっとそうであると思っている。

 だから僕は音楽を創り続けている。

 作り続けることが努力であって、価値である。

 「その鼻歌、音楽にしてみたら?」

 「え、できる訳ないよー。どんな歌詞書いたらいいかも分からないし。」

 「じゃあ分かった。これからるるは数日に一回でもいいから日記つけてみたらいいんじゃない?その付けた日記をメロディに乗せていく。どう?」

 「日記付けるの良いかも」

 「でしょ。日記帳買いに行こっか。」

 「うん」

 あのお店で流れていた曲名も知らずに書店に向かった。


 「どの日記帳にしよう。」

 「これはどう?」

 僕が指さしたのは所謂、ノートタイプってやつだ。

 一年前、僕が日記を書いていた頃はこのノートタイプを使って書いていた。

 使い勝手も良かったし、何より見返しやすい。

 「良いかも、これにする」

 るるは手に取って、本も欲しいと言っていたから小説コーナーに向かった。

 真っ先に手に取った本は「転生」という本だった。

 「この本、読んでみたいかも」

 レジに向かって行った。

 その「転生」ていう本、僕の家にもある。

 とあるバイトをしていた少年の希望を描いた転生の中にある、現代のロボット社会というコンセプトらしい。

 とても作りこまれていると言えば嘘になってしまうが、言葉の一つ一つに力を感じてしまう作品ではあった。

 結末は以外ではあったけど、それもまたいい味を出していて面白かった。

 いろんな生き方をしたいから、どんどん命を捨てては転生を繰り返す。

 こう、文字だけで見ると現実味が欠けてしまうが小説の中では何か不思議で現実に起きているかのようだった。

 きっと普通の小説と書き方が違ったからだと思う。

 本当に面白い内容だった。




 「買い終わったよ」

 「じゃあ、帰ろうか。」

 あのお店で流れていた音楽の名前、何だろうと思っていたのは僕だけじゃなくて君もだった。

 帰り道にて。








 昨日は帰るのが遅くなるから、るるの家に泊まった。

 少し前はよくお泊り会のようなものをしていた。

 るるが入院してからはしなくなったんだ。それは当たり前か。

 るると一緒に寝るのは久しぶりだから緊張してしまったけど何とか眠れた。

 昨日の夜はスナック菓子と一緒に炭酸飲料を開けて食べたり飲んだりしていた。

 夜中の一時くらいまでだろうか。僕の知っている、るるとの思い出を話していた。

 話しながら一つ一つの思い出を懐かしいと思いながら話を進めていた。


 散々話して眠りについて、そして朝になった。

 僕は昔から朝が本当に苦手で目覚ましのアラームをどれだけかけても結局アラームを止めて、また眠ってしまうんだ。

 そして何度寝かした後、自然に目が覚めた。

 昔もそうだったけど、お泊り会をした時も大体朝目が覚めればるるは横にいない。

 君が早起きできるのは本当に羨ましい。

 朝ごはんの匂いがする。

 また昔を思い出しては懐かしいと思うばかりだった。

 リビングへと繋がるドアを開けるとそこにはキッチンで料理をしている君がいた。

 「おはよう。」

 「おはよう。起きたんだね」

 「ごめんね一人で作業させちゃって。手伝うよ。」

 「あ、もうできるから大丈夫だよ。先顔洗ってきなー」

 この会話がお決まり。一人で作業させてしまっていることは本当に申し訳ないと思っている。

 「わかったー」

 るるに言われた通り、先に顔を洗う。

 顔を洗い終わってリビングに戻ればご飯はできている。

 「いただきまーす」

 朝ごはんは食パンとスクランブルエッグ、ウインナー、トマトがお皿に乗っていた。

 とても健康的で美味しい。

 るるは料理が得意で、味付けも盛り付けも本当に上手なんだ。

 前に一度焦がしたことがあるらしいけど、それ以外は失敗したことがないらしい。

 ご飯を食べ終わって、食器を片付ける。ワンプレートで盛り付けられていたから片付けが早く終わって良い。

 今日は散歩に行くから、二人して着替えた。




 火を止めたかを確認して、外に出る。

 歩き始めて十五分くらいだろうか。段々と少し見慣れた街が出てきた。

 朝は、綺麗な空気を吸って外の景色を見ることが好きだった。

 こんな素敵な朝をこうやって、皆平等に迎えられることが本当に素晴らしいことだと思う。

 そして君とこうして二人で歩けていることが本当に幸せに思えている。

 「街の方、行こうか」

 「そうだね」

 いつもノープランで散歩に行く。決めてしまうのは堅苦しい。

 毎回違うルートで歩いて、毎回違う景色を見ることがとてもいい。

 散歩の仕方に決まりはないけど、何も決めないで歩く。これが僕らなりでいい。

 だから今日は街の方へ行くことにしたんだ。

 割と近くに街があって、人通りもそこそこ。

 一定の間隔で並んでいるビルや建物は心地良さそうな顔でこちらをのぞき込んでいるんだ。

 その多くのビルや建物は、とても高いというよりかは四、五階建てくらいの建物があって、たまに二階建ての建物があるといった感じだ。

 今日は財布を持っていないからただ歩くだけ、ただそれだけ。

 手を空に向かって上げ、背伸びをする。

 空はどれだけ高く手をあげても空には絶対届かない。

 空ってなんだろう。急な疑問を抱いた。

 広くて、高くて、届かない。

 不思議で仕方がなくなった。

 昼は太陽が高く上がっていて、夜になれば無数にある星と月が見える。

それはそれは、心が空っぽになるほど綺麗で感情に浸りたいときに見れば、零れ落ちた涙ごと空に吸い込まれてしまいそうな程だ。

 もちろん、吸い込まれてしまうわけない。だけどそれくらい空には魔力があると思っている。




 かなり散歩をして町内を一周したが、家に帰るにはまだ早いと思った僕はるるに公園のベンチで少し休憩をすることを提案した。

 「散歩、どうだった?」

 「えー?どうだったって聞かれてもなぁ。いつも通りなんじゃないかな。」

 たしかに、町内なんだから「どうだった?」なんて聞いても同じ景色だし、いつも通りと言われても仕方ない。これは僕の質問ミスだ。

 「逆にそっちこそどうだったの?散歩。」

 「いつも通りだよ」

 「ほら、いつも通りって言うじゃん!」

 「ああ、ごめんごめん。笑」

 るるはいつも僕の質問したことを聞き返してきてくれる。その質問がたとえどうでもいいような質問でも。どんな質問でも返してきてくれるんだ。

 逆に僕が聞いた質問は絶対に素直で真っ直ぐな返答をくれる。嫌な顔を一つも見せずに返してくれる。だから、「いつも通りだよ」の言葉にも真っ直ぐな気持ちがこめられているんだろう、そう思える。

 僕らが真上を向かないと確認できなくった太陽を見て「そろそろ帰ろうか」と話して家に向かって歩く。

 最近はだいぶ暑くなってきて歩いてるだけで肌から汗が湧き出てくる。均等に立っている木にはセミがくっついているのか、「ミーン、ミーン」と夏の暑さをさらに盛り上げてくる鳴き声が聞こえてくる。

 「暑いね」

 セミの鳴き声と一緒にるるの耳元にその四文字を届けた。

 「暑いよ」

 るるも麦わら帽子の中からこちらを覗いて真っ黒で綺麗な瞳で言ってきた。

 家に帰ったら冷たい氷菓を食べたい。やっぱり、夏の醍醐味は氷菓だろう。

 君も同じことを思っているだろうか。



 晴れた夏の出来事。

 「ミーンミーン」と耳のすぐそこで鳴いているかのように鼓膜を叩いてくる蝉。

 その日はその年最高の暑さとも言えるような日だった。

 もう暑すぎてどこへ行くにも水を持っていかないと体内から水分が失われてしまうんじゃないか、というとても暑い日だった。

 君はとても涼しげな夏のセーラ服で教室の席に座っていた。

 僕は朝学校に着くのが早い方で、君も早い方だった。

 「おはよう」

 何気なく君と僕しかいない二人の教室に挨拶を交わすと、

 「あ、おはよう」

 少し戸惑いながらも返してくれた。

 その時の瞳を僕は今でも忘れていないんだ。

 …少女の名前はるる。

 僕はその瞳を見た時から君に恋をしていたんだ。

 この高校に入学して四か月程、僕はその瞳に惹かれたんだ。

 とは言っても僕は人と話すのが上手い訳でもないし、話しかけるタイミングというのは中々見当たらない物だ。

 そうやって過ぎ去っていく日々ばかりだったけど、唯一話しかけるタイミングが見当たるチャンスが到来した。

 それが、遠足というようなものだった。

 僕の通う高校は今年、たまたま他県から入学した生徒が沢山いたからこの地域に早く慣れてほしいという先生方の願いが込められていた。

 「全部で班を六つ作るから、人班当たり四~五人で作ってくれー」

 そして僕と君は偶然同じグループになった。

 これはもう話すしかない、と思って放課後に「同じ班になったし連絡先交換しない?」と聞いた。

 君は「いいよー」と言って快く交換してくれた。

 周りに人がいるものの、飛び跳ねてしまいそうだった。連絡先を交換できるのは僕にとっては嬉しい以外の何物でもなかった。

 家に帰って制服のままベッドにダイブした。そして君の連絡先を開いて「よろしく!」と送信した。

 この言葉を送信するだけでも心臓がいつもの数倍飛び跳ねているのが分かる。その心臓も落ち着いてきた頃、少し眠りについてしまった。

 あれ、寝てたのかなんて思って携帯の画面を見ると、時刻はもう七時。

 そして過疎化している僕の通知欄は「一件の未読メッセージがあります」と表示されていた。それで僕は飛び起きた。

 慌ててすぐにそのメッセージを開くと「よろしくね」と来ていた。

 何の意味もないようなその言葉ですら嬉しく感じた。既読無視をされなくて良かった、そう思う瞬間だった。

 その日の夜は中々眠りにつけなかった。なんでかって?このまま既読無視にしておくのもな、とか思ってみたり、でもなんて返そうってみたりしていたから。あっという間に日付は変わってしまった。

 やっぱり寝付けない僕はベランダに出て少し気分を落ち着かせてから眠りに着こうと思った。

 僕の家の近くには海があってその波の音が聞こえる。いつもこの時間はすでに寝ているから、夜がこんなに静かになるなんてびっくりだ。

 まるで昼間と夜では世界が変わったかのように静かだった。

 すぐに気分が落ち着いてきた。僕は部屋の中に戻り窓を閉めて、その日はやけに気になる携帯の電源を落として眠りについた。無性に暑かった。







 その日の夕焼けはあっという間に来た。さっきまで少し眠りについていたからか。

 二人してベッドの上に横になっていた。

 そういえば今日の午前中は散歩に出掛けていたっけ。帰ってきて昼ご飯も食べずに横になって眠りについてしまっていたんだ。時間が経つのって本当にあっという間なんだ。

 「目覚めた?」

 僕はるるに問いかけた。

 「…うん、おはよう。」

 るるも寝てしまっていたみたいだ。なんだか少しほっとした。もし僕だけが寝てしまっていて、るるが起きていたら申し訳ないと思ってしまうから。

 「夜ご飯、どうする?」

 時計の針が六を指していて、まだ何もご飯の準備をしていないと思うと少し焦りを感じた。

 「買い物行こっか。」

 るるはそういうと起き上がって手櫛で髪を整える。

 「着替えてくるから少しだけ待ってて」

 そういうと隣の部屋に向かって行った。るるが準備している間、僕は夜ご飯何を食べるか、ということと、冷蔵庫の中に何か食材が無いかを確認した。

 冷蔵庫に入っていたのはニンジンとかジャガイモとか。

 「準備できたよ、もう行ける?」

 るるがそう聞いてくると僕はすぐに

 「うん、もちろん」

 親指を立てて頷いた。

 家を出て近くのスーパーに向かう。

 「夜ご飯、何作る?」

 「部屋の冷蔵庫にはニンジンとかジャガイモとかあったよ。」

 「野菜コロッケとかどう?」

  野菜コロッケ…美味しそう。お腹が空いている僕は想像するだけでもお腹がなってしまう程だ。

 「いいじゃん、野菜コロッケにしよう!」

 夜ご飯が決まった。でもこれから食材を買って家に帰って作るという作業が残っていることは少しばかり億劫だった。だけど、るるがいるとなんでもこなせそうだ。

 少し歩いて最寄りのスーパーに着いた。スーパーの中は冷房が効いていてとても涼しい。

 そういえば去年の夏頃、暑くて倒れそうだった日、夏休みだったっけ。外に居ても太陽がこちらをじーっと睨んできて暑苦しくて、家に居てもじめっとした空気が体にまとわりついてくるからスーパーに逃げたんだ。

 ついでにアイスも買おう、とか思って気軽に行った。

 スーパーでさえそんな思い出話をすることができるくらいに暇な夏休みだったんだろう。あの頃は充実していたと言えばしていたのだろうか。

 そうじゃないとちょっとだけ悲しくなるから充実していたってことにしておくよ。

 「材料かごに入れたよ」

 そう言ってるるは涼しげな顔で言った。あっという間に材料を持って来た。

 「お菓子とか、飲み物とか買わない?」

 このスーパーの外を想像するとこんなに涼しい空間でも汗が滲み出てきてしまうので聞いてみた。

 「いいね。買お買お!」

 僕は迷いなく氷菓を買った。手に持っているだけでも体温で溶けてしまう。

 「るるは何にするの?」

 「私はカフェオレ飲みたいかなー」

 この言動から「この子は何時もお洒落だ」と思う。何処へ行くにも皆がおしゃれだと言えるコーディネートをする。さっき着替えていたのもそのコーディネートの為だ。

 店内に流れる音楽、所々に吊るされている掲示物、そのどれもが「今の季節は夏」ということを示していた。

 レジで会計を済ませて帰り道。お店を出た瞬間からぶわっと蒸し暑さが戻ってきて、体から汗が流れ始めた。

 少しだけ足を速めて二人で荷物を分けて持って歩いた。家がもうすぐ見えてくる。

 重い足を何とか動かして只管に歩く。こんなに近いのにとても遠く感じる。

 やっと家に着いた。本当に暑かった。

 「ただいま」

 二人で重なるその声は少しだけ夏の涼しさを感じるものだった。

 これからまだ料理という作業が残っている。

 「早く二人で作っちゃおっか。」

 るるがそう言ってくれたことでやる気が湧いてきた。

 「早く」という言葉、きっとるるも暑くて足取りが重く感じていたのだろう。そりゃあ、あんなに暑い日に外に出て歩くなんて僕ら人間には中々ハードだろうから。

 「そうだね、作ろう。」

 二人で作る料理。最後に二人で作った料理はなんだったっけ。カレーライスだっただろうか。

 小さい頃はカレーライスを作る工程一つ一つが難しくて時間のかかるように感じていた。でも今となってはカレーライスを完成させるまでの時間はそこまでかからない。作業工程も大変という作業は無い。

 きっと、大したことのない作業が詰まっているから大変に感じるのだろう。

 君と二人で作る料理は本当に楽しく作れてしまう。「料理を楽しく作る」ということが今まで無かった僕からしてみれば料理なんて苦で仕方がないんだ。

 だから、一人でご飯を作るというようなときはなるべく料理という工程を避けていた。

 だって、スーパーに行けばお惣菜が売っている。それをレンジで温めればいいからさ。

 それくらい料理を嫌がる僕だった。

 るるは元々料理が上手でとても美味しい。ずっと食べていられるくらい。

 るるの手元はあっさりと調理工程を加えられていく食材たちが並んでいる。僕も負けずに作り進めていく。

 「あとは揚げるだけだよ」

 あっという間に作り進めた。時間はまだ作り始めてから10分も経っていないくらいだろうか。

 「早いね、もうここまで作り終わったんだね。」

 どれだけ早く作り進めていてもお腹は空いていく。油が弾く音がする。香ばしい匂いがしてくる。

 「油、気を付けてね。」

 るるがそう言ってくれると、僕は跳ねる油を避ける仕草をした。その姿が面白かったのか、るるは笑い出した。

 「あっははは、何それ面白い。」

 僕は調子に乗ってもっとその仕草をした。

 「熱っ!」

 油に直撃した。熱い。

 「だから気を付けてねって言ったのに、ほら、代わるから冷やしておきな。」

 「うん、ごめん。ありがとう。」

 馬鹿だ。馬鹿すぎて笑えてくる。

 蛇口から水を出してそこに油のついた指先を水につける。

 …冷たい。

 夏の蛇口から出る水は冬に比べたら少しふるく感じるのに、今出てるこの水は何となく冷たく感じる。

君はやけどをしないように冷静な顔で調理を進めている。

「さぁ、できたよ。」

ありがとう、と僕は言い指にできた水ぶくれを見ながら食べ物の乗せられた食器をテーブルに運んだ。

少しだけ焦げのついた美味しそうなコロッケだった。


 

 




 アラームが鳴っている。

 夏の風はただ流れるように吹く。

 青い海。青い空。私の夏は青か。

 私には何もないよ。

 君に何を期待されているかは分からないけど。

 私みたいな人生の負け組は息をすることも億劫になってしまう。

 「ねぇ、貴方はなんでそんなに明るく生きていられるの?」

 「なんで、なんで貴方は笑顔でいられるの?」

 その理由を知りたくて付き合った。

 あなたにとっては大迷惑なことには変わりはないけど、そうするしかなかった。

 貴方は、「僕でいいなら。」といって告白を了承してくれたんだ。

 それからも貴方の笑顔は絶えることなく、むしろ増えていくばかりだった。

 私もそれを真似したくて笑うけど、どうにも上手くいかない。

 何となくの作り笑いが私の武器だった。貴方はそれに気づいているのだろうか。気づいてないといいな。

 後、数週間もしてちゃんと笑えるようになれなかったら諦めて死ぬ覚悟はしている。

 この世界には何も無いからね。お金も普通の生活が送れるか送れないかぐらいの給料で生きていくことなんて到底不可能なんだ。

 楽しくないからさ。なにも。

 だから、貴方といるだけで笑いが起きるような生活もしてみたかった。幸せな生活を送ってみたい。貴方と笑いあえたらきっと幸せなんだろう。

 でもそんな幸せは訪れなかった。

 貴方だけが笑う生活。これにはもう耐えられないし、何より私は人生を放棄することにした。

 私が普段飲んでいる頭痛薬を沢山口に含む。

 意識が遠くなる。視界がぼやける。

 ああ、これでやっと終わる。

 一瞬、エンドロールが思い浮かぶ。

 夏の海に水をかけてくる貴方。それをじっと見つめている私。

 それはきっと夏の思い出。私の体ごと青に染まるような感覚だ。

 貴方の声も段々遠ざかって行く。

 私の視界が消える。まるで、この瞬間に全てが埋められているような感覚だ。

 私の数十年はこんなにも思い出があった。

 後悔なんかではない。ただ、ただそう感じただけだ。

 君と過ごしたこの夏、いや、この数年間はどんなものだったのだろう。

 もし、もっと心を許していればこうはならなかったのか?

 それとも、もっと感情的に生きていれば、周りの物にもっと興味を持っていれば、貴方に素直になれただろうか。

 そう思ってももう遅いや。

 あっという間に年を取って、あの東京の公園のブランコをふたり仲良く漕いでいたのに、もうこんなに大人になってしまった。 

 子供の頃はあんなに可愛がってもらっていたのに、今ではもう放置なんだ。

 寂しいというわけでもないし今になってもう手遅れだけど、もう一度やり直せる人生があるなら、君とまた二人で笑っていたかった。

 素直に感情をぶつけ合いたかった。

 手の感覚も、足の感覚も、口の感覚も全部奪われていく。

 光の一筋も見えなくなって、暗くなっていく。

 もしまた君に出会えたら、その時は「貴方に出会えてよかった」そう伝えたい。

 どれだけ今が最悪な人生だったとしても一目惚れをして貴方と過ごせた人生なのだから。もし出会えていなかったら、もっと感情が薄れていたのかもしれない。

 だから。いつか貴方に出会えたら。それでいい。







 町中の騒めきが僕の頭の中を通り抜ける。今僕は、東京の街中にいる。

 顔の知れない人たちばかりが、街の中をすれ違う。

 気づけば僕はベンチに座っている。

 夏を知らないように、今僕は春を知ろうとしている。

 君を忘れる。そしてまた思い出す。

 君は消えた。

 なぜ消えてしまったのか。それだけが心に残る。

 夢は繰り返す。ただ君を思い出す。

 流れる風はあのピアノの音を思い出す。

 切なくなっていく音。想像の君を思い出す。

 君が遠退いて往くことが、この家の中の窓に差し込む光で分かる。

 これは、るるの光だ。優しくて柔らかい、でも眩しい光。

 これは君の存在を現している。

 君はちゃんと生きていたんだ。存在していたんだ。

 それが分かると涙が溢れてくる。視界が遮られる。

 ああ、これが僕の本当の感情か。僕に残っている物はこの感情か。

 誰も恨むことのできないこの感情を何処にぶつけろと言うのか。

 そんなこと、神様に言ったって、何も変わりはしない。きっと。

 あっと言う間に夜は来る。だけど、この僕の部屋に差し込む夕陽の一筋は消えることなく残っている。

 君は怖がりなんかじゃない。強がりなんかでもない。

 ただ純粋で、暖かい人だ。どうか、この一筋の光を君にも見てほしかった。

 これが君だということ。それをもっと早く君に教えていれば、君がこの光になることは無かったのかもしれない。

 またいつか君に会えることを信じるばかリだ。

 また、いつか。


 もうすぐ桜が咲こうとしている。

 あの桜並木を僕は歩いている。

 少し風が吹く。

 服が風で揺れる。

 風が透き通る。

 雲が泳いでいる。

 今年は多く積もった雪も、すっかり溶け始めている。

 懐かしい地面が見えてきて、僕はひたすらに道を歩く。

 太陽が僕を包み込んで笑う。今年も春がやって来た。

 僕は、夢がすぐに覚めることを知っている。



 END










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