馴れ初め1
どうしてこうなってしまったんだろう。
わたしたちは、上手くやれていたと思う。
彼女が来るまでは――。
わたしとレイナード様が婚約したのは、ともに10歳のときだった。
わたしの父の家系であるビルハイム伯爵家は代々「王国の盾」と呼ばれる国王陛下を警護する騎士団の団員を務め、騒乱の時世では多くの勲功者を輩出した「脳筋家系」だ。
騎士団長である父が国王陛下の警護で帰宅できないことが多いため、母について父の着替えや差し入れを届けに王城へと足を運ぶ回数が多かったわたしは、同い年で陛下の第一子であるレイナード様とも自然と顔見知りになり、仲良くなった。
おこがましいとお叱りを受けるかもしれないが、いわゆる「幼馴染」というやつだろうか。
幼い頃のわたしは家系譲りのおてんばで、王城の中庭のリンゴの木に登って果実を盗み食いしたり、池に飛び込んで泳いだり、ヘビを捕まえて振り回して遊ぶような、とても伯爵家のご令嬢とは思えないような子供だった。
「シア、やめたほうがいいよ。怒られるってば!」
「大丈夫よ、レイ」
レイナード様は幼いころから聡明でお行儀が良くて、わたしのイタズラやおてんばには一度も協力したことはなかったにもかかわらず、一緒にいたという理由だけでいつもわたしと一緒にお説教を受けてくれた。
子供の頃のレイナード様は小柄で、わたしのほうがはるかに体格がよかったし、家柄的本能からか「レイのことはわたしが守る!」と常々思っていた。
そして、王城をこっそり抜け出して(もちろんレイナード様は反対したけれど、わたしが強引に連れ出したのだ)城下町に遊びに行った日のことだった。
その日は大規模なバザールが開かれていて、露店でお菓子を買ったり髪飾りを見たりと夢中になっているうちに帰りが遅くなってしまった。
日が傾いて空がオレンジ色に染まりかけていることに気づいたわたしたちは「しまった!」と顔を見合わせ、森を抜ける近道で王城まで戻ることにしたのだ。
我が国は緑地や森、小高い丘や山が多くある自然豊かな国だ。
普段、長兄・次兄とともにこの森も遊び場にしていることもあって、勝手知ったる場所のつもりだったのだけれど、この選択が失敗だった。
森に生息する吸血コウモリは、明るいうちは活動しないし、おとなしい性格のため普段は出くわしたとしても向こうから積極的に襲ってはこないのだけれど、森に着いた頃にはすでに彼らの活動が始まる時間帯になっていたこと、そして運悪くその季節が吸血コウモリたちの繁殖時期にあたり、子供を守るために彼らの気が立っていたことに、子供だったわたしたちは気づかなかったのだ。
吸血コウモリは羽を広げても手のひらサイズの小さなコウモリだ。彼らに襲われて、たとえ噛みつかれて血を吸われても死にはしない。
噛みつかれた個所が真っ赤に腫れてしばらく疼くことと、コウモリに噛みつかれているという状況が気持ち悪いことぐらいだ。
対処法さえ間違わなければ平気なはずだった。
だから、吸血コウモリの群れが赤い目を光らせてわたしたちの行く手を阻んだときも、わたしはまだ冷静でいられた。
「レイ、大丈夫だからね。騒がずにそっと方向転換すれば…」
わたしは庇うようにレイナード様に手を回し、回れ右して別のルートを辿ろうとしたかったのだが、すでに青ざめて震え始めていたレイナード様の耳にはわたしの声が届かなかったらしい。
「うわあぁぁっ!」
レイナード様の大きな悲鳴が契機となり、吸血コウモリが一斉に襲い掛かって来た。
「逃げるわよ!走って!!」
わたしは立ちすくむレイナード様を叱咤して、手を引っ張って駆け出したけれど、すぐに追いつかれてコウモリたちに囲まれてしまった。
震えながら頭を抱えて座り込むレイナード様に覆いかぶさるようにして、わたしは吸血コウモリの攻撃を一身に受け止めた。
服の生地の上からも容赦なく噛みつかれ、頭にまで牙を立てられたけれど、悲鳴を上げそうになる己の口が開かないように奥歯をかみしめて耐えた。
これ以上レイを怖がらせてはいけない。
わたしが守らないといけない!
吸血コウモリたちは、一通りわたしに噛みつくと、抵抗も攻撃もしてこないわたしたちへの警戒をようやく解いてくれたらしく、ギュイギュイと鳴き声を交わしながら森の奥へと去って行った。
「シア?ありがとう…大丈夫だった?」
そう言って顔を上げた次の瞬間、そのマリンブルーの目を驚愕で見開きながらレイナード様が再び震え出した。
「シア…大変だ、血だらけじゃないか……」
わたしは、レイナード様のかわいらしいお顔も、白い腕も足も、全て無傷であることに安堵していた。
「大丈夫よ、レイ。こんなことで『王国の盾』であるビルハイム家の子供は死にやしないからっ!」
心配する彼をよそに、わたしは将来の国王陛下を守り通したことを誇らしく思いながら、すくっと立ち上がった。
いや、その矜持を支えにしなければ、わたしとて「え~んっ!こわかったよおぉぉ!痛いよおぉぉ!」と泣き叫んでへたり込んでいたに違いない。
ここでレイナード様が怖がってまた大声をあげようものなら、せっかく引いてくれた吸血コウモリたちを刺激しかねない。
わたしは、空元気な、しかしボリュームは極力抑えた声でレイナード様を明るく励ましながらどうにか森を抜けたのだった。