後編
ー*ー
正しいとか正しくないとか、彼女のためとか自分のためとか。罪悪感と正当化した考えと、それとは全然異なった厄介な感情のせいで、全然仕事に身が入らなくなった。
そんな俺を見かねて、叔父が花の手入れをしながら声をかけた。
「なにか悩んでるのか?最近ずっと上の空だぞ」
「んー…」
煮え切らない返事をする。
いう機会ならきっといくらでもある。会おうと思えば会える距離にいる。だから答えを急くことはしない。
そう思っていても、ずっと悩み続けているのはやっぱり自分自身の選択に納得がいっていないからなんじゃないかとぐるぐる抜け出せなくなっていた。
教会で星をみた日から、もう一週間ほど過ぎた。
彼女は大事な人と仲直りできただろうか。
「お使いを頼まれて欲しいんだが、そんな気もそぞろじゃ難しいか」
花でいっぱいになったバケツを抱えて、叔父は俺を振り仰ぐ。そういえばさっきから馬車にやたらと花を積み込んでいた。
「…使いって?」
「ほら、向こうの教会で今日花祭りをやってるんだよ。リースやポプリなんかを作るらしい」
「教会…?行く」
深く考えず声が出た。
花まつり。なぜだかわからないけど、彼女がいる確信があった。
その後が気になるだけ…近況を聞いて、さっさと帰ってこよう。
誰にともなくそんな言い訳めいたことを胸の内でした。
「まあ行く気があるなら任せるが。事故を起こすなよ」
叔父の言いつけに頷いて、花を積み終わった馬車を走らせた。
石畳の凹凸に車輪が当たり、心地いい音が通りに響く。踊るように軽い音が、まるで自分の心みたいだった。
教会に着くと、一番に神父が出迎えてくれた。
「お待ちしておりました。すばらしい花たちですね」
荷台に乗った新鮮な花々を見て、目尻にシワを寄せる。門の向こうの玄関扉から、この間と同じようにこどもたちが飛び出してきた。
「わーいお花いっぱい!」「またにーちゃんだ!あそぼあそぼ!」
「おまつり、手伝ってくれるの!?」
「ああいや…俺は花を届けにきただけ」
「中庭の方まで運ぶのを手伝っていただけますか?」
神父に頷いて、花籠をひとつずつ運び込む作業に取り掛かった。中庭は初めて入ったが、噴水のある小さな広場といった感じだった。露店がいくつか立ち並び、市場のように盛況とは言わないが、お客の入りはいいようだ。
「…結構人がいますね」
「ええ。日頃からお祈りや寄付をしてくださる方々です」
後ろで別の花籠を運んでいた神父がにこにこと嬉しそうに教えてくれた。
「意外でしたか?」
なにをとはっきりは言わなかったが、大方の考えがわかったのだろう。
眼鏡の奥の瞳が少しだけ開かれる。
どうに返していいかわからず黙っていると、神父は奥に視線をやってまた言った。
「蔑む人もいるように、心から受け入れられる人間もいます。どちらか片方だけが存在することはありえないのですよ。正や負、善と悪を完全に二分化することもできない。境界は常に曖昧で、どちらにもなり得るのです」
「……」
「ここには、彼らを受け入れられる人間しか招待してません。わざわざ負を取り込む必要はありませんからね。純粋に花を愛でて楽しむためのお祭りです」
神父が微笑んだ直後、一部で歓声が上がった。
人だかりができていた方に目をやると、その中心には彼女が満面の笑みを浮かべていた。綺麗な花のアーチが出来上がっていた。色とりどりの花が螺旋状に挿されて、シルクのリボンが絡まる華やかなアーチ。子どもたちが通るのにちょうど良いサイズのそれは、広場の入り口に飾られた。
眺めている俺に気づいて、少女がこちらに駆け寄ってくる。
「こんにちは!きてくださったんですね!」
「…ああ。花を届けに。祭りは順調みたいだな」
「はい!」
日の光の下でぱっと明るい花を咲かせる。この間よりずっと輝いて見えるのは…心境の変化でもあったのだろうか。赤い瞳がきらきらと眩しく踊っている。
「嬉しそうだな…」
「みんなとても楽しんでくれてるんです。あなたにも招待状を渡そうと思ったんですけど、住所がわからなくて…届けに行こうにも準備が忙しくていけなくて…」
申し訳なさそうな顔をされると逆にどうしていいかわからなくなった。ここに寄付をしてるわけでもないし、そう思ってくれていたことが知れただけで嬉しい。
「でも神父さまがあなたのお店からお花を買うっておっしゃってたから…きっと来てくださると思ってました」
「…そうか。俺も、あんたが元気そうでよかった。あれから…仲直りできたのか?」
問うと、彼女ははにかんで控えめに頷いた。
「…あなたに、お話ししたいことがあるんです」
心なしか緊張した声音。けれど隠しきれない嬉しさを滲ませた様子に、ほんの少し、寂しさを感じてしまう。
「プロポーズされたんです…先日」
薄桃色に頬を染めて、ふわりと花の香りが風に舞って彼女の髪を色付けた。
幸せそうな笑顔。ずっと、俺がそんな顔をさせたかった。
「…よかったな。おめでとう…じゃあ、式にはまたうちの店の花、使ってよ」
声が震えないうちにそう言い切るのが精一杯で、見せた笑顔も若干苦しい。心から祝福したいのに、どうしようもないほどこの心は自分勝手だった。
俺の言葉に、彼女は困った顔で笑う。
「…式は挙げないんです。誰に祝福されなくてもいいから…明日、この街を去ることになりました」
「ぇ…」
予想外の報告に戸惑いばかりが頭を支配する。
だって、いつだって会える距離にいると思っていたから。それが揺らぐ可能性を考えもしなかった。
一番最初に思ったことは、贖罪の機会が永遠に失われてしまうかもしれないこと。
そして次に思ったのは、この気持ちを…彼女に伝える機会が永遠に失われたということ。
誰かと添い遂げる誓いをした彼女に、こんな男の気持ちは鬱陶しい以外の何ものでもない。いや…幸せでいてくれるなら、こんな思いは報われなくても良い。ただ自分にとって一番大きなことは…ずっと胸の内に抱えている蟠りは…あのハンカチを、過去の行いを、これからもずっと抱えていかなくてはいけないことだ。
静かな絶望が目の前から色を消していく。忘れられない赤い瞳の残像だけが、灰色の中に残っていた。
「…そうか…じゃあ…今日が最後、なんだな」
気持ちの整理をつける間もなく彼女は去ろうとしている。
言うなら今…こんなぐちゃぐちゃな感情のままでは余計なことまで口走ってしまいそうだ。
吐き出して仕舞えば楽になれる。どうせ彼女はいなくなる。
考えたところで自己嫌悪に気持ちが荒んだ。
そんな不誠実な態度で事実を告げれば、贖罪どころか新たな後悔を生むだけだ…
「はい。最後だから、きちんと思い出を作りたくて」
今日をいい日にしたいと思っている彼女に、暗い気持ちにさせるのは気が引けた。けどそんな気遣いは建前で、やっぱり俺に話すことの覚悟は一生できないのかも知れない。
話している俺たちのところへ、あの兄妹が向かってきた。妹に手を引かれ、兄がついてくる。
少年はずっと無表情でいた。最初にみたときと変わらない、虚な瞳のまま。笑うことに慣れないのか、妹の方は泣き笑いのような微笑みだった。
「おねえちゃん…これ……」
そういって少女が差し出したのは、四つ葉のクローバーだった。摘んだばかりのみずみずしい若緑が、幼い手の中で幸せの色を光らせている。
「朝、おにいちゃんとみつけてきたの…。ほら、おにいちゃんも」
妹に促されて、兄はずっとポケットに入れっぱなしだった繋がれていない方の手を彼女に差し出した。同じようにクローバーが手に乗せられていた。妹のものより、少しだけ萎れて元気がない。
開かれた少年の手は火傷の痕が大きく広がって、不自然な染みになっていた。
「…ありがとう…。ふたりとも…とっても嬉しい」
受け取った彼女は滲むような笑顔で2人を抱きしめた。
全てが淡く優しい光の中で、溶けてしまいそうな瞬間だった。
彼女の白金の髪の輪郭は日に透けて曖昧で、全てが夢か幻のような気さえする。
「元気でね…」
「うん…!幸せになるよ…」
彼女から溢れた涙が弾けて、煌めきを散らす。
一番、望んだことは…なんだったろうか。
彼女と再会して、過去を思い出して、それから自分が心から願ったのは、彼女が幸せでいられること。
綺麗事でも、身の程知らずの欲望をひた隠しにするための思いでも、最初からずっとそれは本心だ。
「…明日、見送りに行っても良い?」
再び色づき始めた世界の中で、ただ1つずっと変わらず輝きを失わなかった彼女の瞳を見つめた。
「はい。嬉しいです」
花を渡そう。
気持ちの全てを込めて、彼女に似合う花を。
春の霞空。柔らかい花の匂いをいっぱいに含んだ風。吹かれた雲が薄くヴェールをかけていた。
昨日のうちに準備していたサプライズ。
誰に祝福されなくてもいいと呟いた彼女の、ほんの少しの憂い顔を思い出して、それを笑顔に変えたかった。
これは自己満足でしかないけれど…人に対する気持ち全部、きっとそんなもんだから。最後の別れくらい、ただ純粋な気持ちからの行為をしたい。
彼女の馬車が通りを曲がってこっちに向かってくる。
それを確認して、前方に合図を送った。昨日花祭りに招待されてた人たちが協力して隠してあった薔薇のアーチを通りに立てる。ここはちょうど街を出る橋に続く大通り。教会の子どもたちとアーチの下に立って、馬車に手を振った。
そして両脇の建物から、白い花びらを一斉に降り始める。
自分が考えた演出だが、少しロマンチックすぎたかと降ってくる花びらを見上げて苦笑した。
「みんな!」
彼女の声がして視線を戻すと、馬車の窓から身を乗り出してこっちに手を振る姿が見えた。アーチの前で馬車が止まったのを確認して、彼女に会いに歩いていく。
「これ…このお花たち全部、あなたが…?」
見上げる俺に彼女は驚きを隠せない様子でそう言った。少し照れ臭くなりつつ頷く。
「驚いた?あんたを祝福したいって思ってる人たちの、思いの丈だ。純粋な気持ちだから、受け取ってくれると嬉しい」
はにかんで見せると、彼女は堪えきれないように目を潤ませた。
「声をかけたのは俺だけど、みんな喜んで協力してくれたんだ」
「どうして…ここまでしてくれるんですか…」
答えに迷って、けど、伝えるなら今しかないと思った。
遠くに行ってしまう彼女に、自分の思い全てを今なら言える気がした。
「…あんたの大事な人が、あんたに優しくしたいと思ったのと同じ理由」
花束を差し出す。彼女に借りていたハンカチで包んだ花束。白薔薇でいっぱいの、祝福を込めたそれを受け取って、彼女は大きく目を見開いた。開かれたルビーの瞳に、過去の情景がさぁっと流れていく。
「…あのときの…」
「小さい頃、俺はあんたにひどいことをした。ずっと…謝りたかった。こんな別れ際にいうのはずるいけど、このままうやむやにしたら一生後悔する」
「……」
「すまなかった。たくさん傷つけたこと。それに、勝手にこんなことで贖おうとしてることも。許されるためっていうより、俺が罪悪感から解放されたいだけ…」
少女の瞳から、涙がこぼれた。
これで何度目だろうとぼんやり考える。やっぱり俺は、彼女を笑わせることはできないのだろう。笑ってほしくてやったこのサプライズも…
きっと、その役目を果たせるのはあの馬車の中にいる、ずっと前に彼女に償った誰か。
もしかしたらその誰かに、自分がなれたかもしれないなんて…此の期に及んでまだそんなことを想像してしまった。
何度も何度もその機会があった。いくらでも間違いを正せる機会はあったのに、俺は結局最後の最後まで引き延ばしてしまった。
「本当に、」
「嬉しい…」
すまなかった。そう言おうとした口は、彼女の言葉で途切れた。
震える声で彼女は呟いた。ハンカチに包まれた花束を目元に当てて、堪えるように息を零した。
「このハンカチを、あの時あなたに渡してよかった。あなたとまた会って、たくさん好意をもらって、今、心から幸せになれるんですね…あの時の思いが報われた気がします。だから…あなたももう許して、忘れてください」
泣きながら微笑む。
つられて、目元が熱くなっていくのを感じた。
本当に言いたかったことは、謝罪でも、罪の告白でもなくて。
笑顔が好きで、いつの間にか惚れてたんだってことだった。
「ありがとう。心から…幸せを願ってる」
馬車が走り出す。
淡い金髪が風になびいて、宝石のような赤い瞳がその繊細な輝きの合間に揺れていた。
身を乗り出して手を振る彼女の指の隙間に、太陽の光が差し込む。
銀の閃光が眼球から頭の後ろまでを突き刺すように入り込んで、残像が長い事消えずに後ろに引き伸ばされていった。
その一瞬の光が、意識を遠く吸い寄せた。
旅人と黄金色の文字』より、火傷を負った兄妹の未来を少しだけ。
次回エピローグ、最終話になります。