中編
ー*ー
その日の仕事を終えて、自室に帰ると惚けたようにベッドに突っ伏した。どこかふわふわした高揚感が心地よかった。
昼間再会した少女。もう少女と言える歳ではないかと、幸せそうに笑う姿を思い出して口元が緩んだ。
けれど彼女の姿を思い浮かべると、昔の出来事まで薄く蘇ってくる。
ベッドに腰掛けて、そばの引き出しからハンカチを取り出した。
ずっと借りていた薄黄色のハンカチ。あの薔薇と、金髪と同じ色。
昔森で迷子になって怪我をした俺に、少女がそっとそばに置いてくれたハンカチ。
故郷を出てこの都にまで持ってきてしまっていた。死んだと思っていたし、会えるはずないとわかっていても忘れられなくて、我ながら女々しいと呆れる。
これを見るたびに、思い出すのは彼女の涙だった。
初めて見た。それまでどんなにひどい扱いを受けても泣かなかったのに、俺がバケモノと蔑んだその言葉に、少女は涙を流した。
その真意はわからないけど、それからずっと、哀色の彼女が記憶から剥がれることはなかった。
「返せない、よな…さすがに」
ぽつりと呟いてみる。
昔のいじめっ子のことなんて、思い出したくもないだろうし。付けた傷は一生モノだから、いくら改心していても、いくら人を喜ばせる仕事をしていても、彼女にとっては疎ましいだけだ。俺がどん底の不幸にいたのならきっと少しは報われていたんだろう。
わかっていても自ら不幸になろうとは思わないし、きっとなれない。
だから、これは返さずにずっと隠していよう。
傷つけられた過去を忘れて、今幸せに笑っている彼女に、またその傷を思い出させることは果たして正しいことなのか。そうまでしてこの罪を清算したいという自己満足を…エゴを果たしたいのか。
答えは出ないし、なにを選んでも結局俺は自分のためにしか動けない。
ー*ー
「こんにちは。お仕事終わったんですか?」
夕暮れ時、帰路についた俺に声をかけてきたのは彼女だった。
海沿いの街道には展望用の出っ張りがあって、石造りの塀のそばにはベンチが置かれている。少女はその塀に肘をついて、通り過ぎようとした俺に顔だけをむけていた。オレンジ色の光の中、燃えるような煌めきを瞳に宿して見つめられると少し落ち着かなかった。
「ああ…。あんたは今帰り?」
「はい、まあ…そんなところです」
少し困ったように笑う。
その表情の真意は考えなくてもわかった。深く尋ねることはしないけれど、なんとなくひとりにしておくこともできなくて、彼女の隣に肘をつく。
潮風が前髪を揺らして、波の穏やかな音が心地よく耳に届いた。黄金色の煌めきをたくさん散らしながら、沈む太陽に連れられて海は少しずつ青くなっていく。
「…俺も、たまにこうやって海を眺めに来る。うまくいかない時とか、悩みがある時とか。なんもなくても、ぼーっとしたいときとか」
隣から視線を感じて、黙っているのも落ち着かなかった俺は脈絡もなくそんなことを口走ってしまう。
ひとりになりたかったのだとしたら余計な御世話だった。そんな考えに至らず勝手にそばにいたいと思って居座ってしまった自分に嫌気がして、すぐに帰りたくなる。
けれど、少女の声がそんな気を打ち消した。
「…少しだけ、悲しいことがあって」
至って明るい口調だったけれど、音に滲んだ感情はちゃんと耳に届いた。
何か言うべきか相当迷って、言葉を探すうちに彼女はまた話し出す。
「家を飛び出してきちゃいました」
「ぇ…」
「私がいると、大事な人に迷惑をかけるって…ずっと前からわかってたのに…」
声が不意に震える。はっとして横を見ると、彼女の頬に涙が伝っていた。白い光を煌めかせながら、ぽろぽろ零れて手元を濡らしていく。
ただ、悲しいだけじゃないんだと思った。ぎゅっと握りしめた手のひらと、歪められた眉。悔しさとか怒りとか、何かに必死に抗おうとする姿がとても辛く見えた。
その泣き顔は、初めて見た彼女のそれとは全然違っていた。
「なんで、あんたがいると迷惑なんだ…?」
「こんな容姿だから…私と関わるとその人まで周りから悪く言われるんです。両親を亡くして孤児だった私を拾ってくれた、とても優しい人なのに」
ずっと真っ黒な服を着ていた幼いころの彼女を思い出す。ひどい扱いを受けても表情を変えなかったのは、それ以上の深い悲しみの表れだったのだと今更気づいた。
「もうあの人のところにはいられない」
彼女にとって『その人』は、きっと今まで出会った中で誰よりも特別で、誰よりも大事な存在なんだと話を聞くだけでわかった。
小さい頃のことを知っているから、彼女にとってそんな存在ができたことは喜ぶべきことだし、俺にとっても救いになるはずだった。
なのに…なんとなく曇った心が胸のうちにあるのに気付いて、それをうやむやにするように言葉をかけた。
「何も言わずに出てきたのか?」
「…置き手紙だけ」
「…その人、今あんたのこと探してるんじゃないのか」
「そんなわけないです。口喧嘩したし、あの人が仕事に行った隙に出てきたから」
帰ってきた時彼女がいなかったら。彼女が話した通りの人間ならきっと心配するだろう。出て行った真意もきっとわかってる。
彼女だって一緒にいたいと思ってるはずなのに…心ない周囲のせいで苦しい決断を迫られて、引き裂かれようとしてる。
彼女が悔しそうな表情をしていた訳がなんとなくわかった気がする。
「…あんたが悪いわけじゃないんだから、気にしなければいいって…言えたらよかったけど」
「……」
「それができたら、今そんなふうに泣かないよな」
周りの戯言なんか、彼女もその人も微塵も気にしてないだろうけど、自分がいるせいで巻き添えにしてるという罪悪感は彼女からは消せない。
「…ごめんなさい。あなたを困らせてしまいましたね」
「いや、なにかあったんだと思って俺がほっとかなかっただけだから。ひとりになりたかったなら、むしろ悪いことした」
そう言うと、彼女は首を横に振る。ふわっと金の髪が揺れた。日の暮れた空の下でも艶めきを落とさない。
「そんなことないです。誰かに話したかったから…あなたが通りかかってくれて良かった」
「そう、か…だったら、」
だったら…
笑った顔が見たかった。
彼女ときちんと顔をあわせるのは、片手で数えるほどなのに。そのうちの2回は泣き顔なんて、複雑な気持ちだ。
「なんですか?」
「…なんでもない。今日は帰らないんだろ。行く宛てはあるのか?」
「はい」
「そうか。ならそこに送っていこう」
彼女は一度驚いた表情をして、すぐに微笑んだ。
そうして首を振ると、やんわりと断る。
「大丈夫です。これ以上迷惑はかけられないですから」
「俺から言い出したことなんだから迷惑じゃない。なんなら近くまででも、送っていく」
「…ありがとうございます」
もう海は真っ黒に染まっていて、星の光がちらつき始めていた。陽が沈むと海辺は肌寒かった。
彼女と歩き始めて、特に話すこともなく沈黙が続いていた。けれどそれを特に気まずいとも、居心地が悪いとも思わなかった。この辺りは店も明かりも多くまだ人が出歩いているからかもしれない。
話題といえば、結局自分は彼女に過去に犯した罪を話さない選択をしたわけだけど、果たしてそれが正しいのかは今も悩み続けている。
改めて見ても、なにか魔法を宿していても不思議ではない真っ赤な瞳。その神秘的な輝きは全てを見透かしているように思えてならない。
だから…ほんの少し、彼女と関わることは怖かった。試されているような気さえした。償うのか、うやむやにするのか、俺の心を見ているんじゃないかと思った。
大通りを逸れて住宅街に入ると、辺りは一気に明かりが減って静寂が訪れた。2人の足音だけが石畳の上で弾んで響く。
しばらくいくと、突き当たりに立派な門を構えた教会があって、彼女はそこにまっすぐ向かっていった。ろうそくの明かりがそこかしこに揺らめいていて、この辺りじゃ一番明るい。
「おねえちゃぁあああん!おかえりー!」「おかえりーっ」
「あ!はなたばのおにいちゃん!」
門までくると、中から数人の幼な子たちが駆け出してきた。その中の1人は、以前花束を買いに彼女と一緒に来ていた子だ。相変わらず眼帯と帽子をつけて、暗さのせいもあるが顔ははっきりとは見えない。
「…ここに住んでたの?」
「以前は。ここは身寄りのない子どもたちを預かってくれてる教会なんです」
幼な子に抱きつかれながら少女は答える。
生まれた故郷も年齢もまちまちのようだ。4、5歳の子もいれば、12歳くらいの子もいた。
「今日はこっちに泊まるの?」「またあいつと喧嘩したのー?」
「んー、実はそうなの。またみんなで星を見ながら寝てもいいですか?」
「うんっ!きょうはつきがでてないから、ほし、よくみえるよ!」
身寄りのない子供たち。その実情は知りえないけれど、ここにはなんとなくかなしい優しさが溢れてる気がする。
ふと彼女から視線を外すと、入口の方でもこちらを伺うように顔を覗かせる2人と目が合う。同じ髪色をした、兄妹…だろうか。妹のほうは兄にぎゅっとくっついて泣きそうな目をして、兄はどこか虚ろで深く沈んだ瞳をじっとこちらに向けていた。
「こんばんは。おや、そちらの方は?」
その兄妹の後ろから出てきたのは、神官の黒い格好をした神父だった。丸い片眼鏡の奥に、穏やかそうな眼差しが微笑みかける。
彼女はその人に軽く言葉を返すと、こちらを振り返った。
「あの素敵な花束を作ってくれたお店の方。ここまでを送っていただいたんです」
「そうでしたか。ありがとうございます。よかったら、少し寄って行きませんか」
「あ、いえ。俺はもう帰ります」
迎え入れるように中へと促されたが、やんわりと断る。すると子供たちがすぐに声を上げた。
「えー!おにいちゃんいっちゃうの?」「星見ないの〜?」
「お姉ちゃんの星、一緒にみよ?」
「いや、俺は…」
「ふふっ…時間がよければ、少しだけどうですか?」
まとわりつかれて戸惑う俺に、彼女は笑っていった。躊躇いながらも頷いて、手を引かれるままに中に連れられる。
廊下を歩きながら、隣にいる彼女にそっと聞いた。
「…お姉ちゃんの星、って?」
「…ああ…ミラのことです。くじら座の」
名前を聞いて、咄嗟に浮かんだのは赤い変光星。あれは確か秋の星座だったはずだが…今は春で、見られないんじゃないのか…
「…あんたの瞳にかけてるのか?赤は赤でも、どちらかというとミラはオレンジ色だろ」
「そうですね、私の瞳はもっと禍々しい赤です。でも、ミラには不思議なもの、という意味があるんですよ。それはぴったりじゃないですか?」
不思議と言われるのは悪い気はしないのか、彼女は楽しそうに言った。
それとも、こどもたちが言い出したことだからだろうか。悪意ある意味かそうじゃないか、他人の心に敏感だということは容易に想像出来る。
先に行っていたこどもたちが、少し先の部屋の入り口で手を振っていた。
追いついて、部屋の中を覗くと思わず声が出た。
ドーム型の天井で、中心に向かって幾何学模様が走り、ところどころがステンドガラスになっている。
その部屋の真ん中に映写機のようなものが置かれていて、光の行く先が天井に向けられている。
それほど大きな部屋ではないが、こどもたちが眠るのには十分な広さがあって、思い思いの場所に布団が敷かれていた。
「あれ…?おかしいですね、調子が悪いみたいだ」
機械をいじっていた神父が首を傾げながらそう呟いた。
心配そうにこどもたちが群がる。彼女も、様子を伺いに近づいていった。
「こわれちゃったの〜?」「えー、じゃあ今日は星みらんないの?」
星…ああそういうことか。ここにきてようやく、ここが小さなプラネタリウムだということに気づく。だから、今が春でもくじら座を見られる。
「…ちょっと、見てもいいですか」
声をかけると、神父は微笑んで俺を機械に促してくれた。
よく見てみると、そばに大きな箱型の機械があって、そこにハンドルがついていた。構造を理解しながら、なにが不具合を起こしているのかを注意深く探った。
箱型の機械はどうやらオルゴールで、映写機の画像を送る役目も担っているらしい。ハンドルを回すことで曲と映像が巡っていく仕組み。
こどもたちを寝かしつけるのにはいい道具だとしみじみ思いながら、中を開けて狂った歯車を指先でそっといじった。
「……治る?」
そう声をかけたのは、さっきからずっと俺の手元をランプで照らしてくれていた、あの兄妹の妹のほうだった。揺れる炎をそのままあどけない瞳に取り込んで、不安そうにする。
そんな少女に微笑んで、頷いた。
「治った」
「ほんと?」「すげー!」
「おかしいところは調節したから、これでたぶん動く。確かめてみよう」
蓋を閉じて映写機のスイッチを切り替える。
光がついたのを確認して、少しだけハンドルを回すと、ぽろぽろと音を零しながら星の明かりが天井に煌めき、巡っていった。
「わーっ!動いたぁ!」「やったー!!」「おにいちゃんすごいっ」
「すごいですね…ありがとうございます」
神父が柔らかく微笑む。こどもたちも嬉しそうに上を見上げて、はしゃいでいた。
「手際がいいんですねぇ。あっという間に直ってしまいましたよ」
「…こういう機械、小さい頃から見慣れてるんで…」
「そうなんですか?あの人と同じですね」
何気なくいった彼女の言葉。この機械はその人が作ったのかと、言われてもいないのに確信した。
神父が映写機を動かし、柔らかく微睡む音色を奏でていくのを、こどもたちと一緒に眺めた。
夜の暗さと、光の煌めきが折り重なって一面星の海を演出する。やがて星々は春を越え、夏を通り秋になる。夜空にくじら座が姿をあらわすと、ミラを指差してみんな声を上げた。
明るくなったり暗くなったり、断続的な機械のからくりがミラをよく表している。ミラが赤いステンドガラスの上を通る時、それは確かに彼女の瞳の色に、煌めきに似ていた。どの星よりも魅力的で、一瞬も同じ輝きのない、不思議な光。
「…綺麗だな」
隣には彼女がいたが、誰にともなくそう呟いた。小さく微笑む気配がした。
「…この部屋、神父様が特別に作ってくれたんです。みんな今はあんなに笑ってるけど、ここに来た時はどの子もとても暗かった。神父様は、どんな場所にも光があるってことを教えたくて、下ばかりみてたこどもたちに上を見て欲しくて、そんな思いでここを設計したんだそうです」
穏やかな眼差しで機械を動かしながら空を見上げる神父をそっと見た。片眼鏡の奥の目元がちらちらと僅かにきらめく。
哀色の教会。その片鱗を見た気がして、少しだけ胸が痛んだ。
体の一部がないこども。見た目に異常を抱えたこどもや、目立った外傷はなくとも笑いも泣きもしない透明なこども。
ここにいるのは、かつて自分が蔑み傷つけてきた幼い頃の少女。
そんな気がして、まともに星を見られなくなった。
俯いた俺に気づかず、彼女は話を続けた。
「映写機、あの人が作ってくれたんですって。私がここに初めて来た時、あの人が機械を作ってるところで…彼、最初は私のことすっごく苦手そうにしてたんですよ。やっぱり不気味だと思ってたのかもしれません」
「…けど、今は仲良くなれたんだろ」
彼女は嬉しそうにうなずいた。
「花束を、くれたんです…。ごめんね、って言いながら」
「え…?」
「あなたのお店の花束。小さいころ私にひどいことをしたって…それを悔い改めてくれたんです」
とくん、と小さく心臓が脈打った。以前言っていた。うちの店の花をもらったことがあるって。その相手が、彼女の大事なその人ってことは想像できたけど…
その人が自分に重なって思えた。きちんと清算して、間違えずに今彼女と関係を築いているその人は、けれど決定的に自分と違うことも思い知らされる。
自分も同じだと、俺はこの時言えなかった。
なにが邪魔したのか、罪を打ち明けることに強い躊躇いがあった。その感情の正体はあまりに醜く滑稽で、とてもじゃないけど彼女に晒け出せるものではない。そして、受け入れられるとも思えなかった。
ー*ー
こんなプラネタリウムがあったらいいなで考えてみたけど、
すでに実在してそうでもある