安定と不穏と不安定
好きな季節は夏。花は勿論太陽みたいに笑う向日葵。昔隣に住んでいたお姉さんが教えてくれた向日葵の話はとても素敵なものだった。
『向日葵の真ん中には種だけが入ってるわけじゃあないんだよ。大きな大きな花の中には太陽の化身が休む部屋があるの。だから太陽が隠れていたっていつでもその方向が解るんだよ』とニコリ笑って語ってくれた彼女はまるで夢みたいな恋をして遠くに引っ越していった。自分も他人も焦がしつくすような恋。黒い瞳にはいつだって一人の男しか映していない。
私はそれがとても羨ましくって、いつか私もお姉さんと同じように燃えるような恋をしたいと強く願った。彼女はお世辞にも美しいという顔立ちではなかったけれど幸福を形にしたような笑みは強く印象に残った。幼いときは良く解らなかった言葉を今なら少しだけ理解できる気がする。太陽は愛する人で化身が住まう向日葵は彼女。お姉さんが向く方向にはいつだって好きな人がいたのだと。
季節は未だ夏に遠い春の初め。冬の匂いが徐々に薄まってくる三月の下旬。私は未だこの身を焦がすような恋をしていない。平穏で安穏な毎日だ。映画の中は沢山のロマンスが溢れているし、流行りの曲は愛を語るものが多い。重ね合わせて涙することもあるけれど理想の王子さまはあやふやでぼんやりだ。
白馬の王子さまが迎えに来てくれるとは思わない。大体にしてじっと待つってことが苦手だし、学校の男子たちも幼い頃から利依を見ているせいでなんとなく食指が動かない。面食いだとは思わないけれどハードルは上がる。ブラザーコンプレックスと言われども、同学年で弟以上の男の子はいないのだ。
「もう直ぐ十七時になるけど買い物行く?」
居間のソファでごろごろと将棋の番組を見ていた私に利依が言う。
「どうしよ。今良いところなんだよね。後一時間もすれば夕食休憩だからさ、その時行こうよ。というか冷蔵庫の中に何かないの?」
「卵と白菜位。冷食はあるけど初日から味気ないな」
「まあそうだね。天邪鬼の弟くんがお姉さまの手料理食べたいって言うんだからそこはしっかりやるよ。て言っても簡単なものしか作れないけど」
「別に期待しちゃいないよ」
「おい、リクエストしといて何だ」
「朝も言ったでしょ、姉貴のご飯なら何でも良いよって」
「褒められてるんだか貶されてるんだか。メインは何がいい? 鶏肉豚肉どっちでも良いよ。牛肉は昨日食べたばかりだから無しね」
「魚という選択肢は?」
「私の定跡に其れはない」
テレビから目を離さずに応えると不満を覚えたのだろう。利依はソファに伸ばしていた私の足を強引にどけ、出来たスペースに腰を下ろす。
「ちょっと邪魔しないでよ」
「してないよ。俺も見ようと思って」
「そんなこと言ってこの前は馬鹿にしてたじゃんか」
「将棋を馬鹿にしてたんじゃなくて、姉貴を馬鹿にしたんだよ。大体頭使うのてんで駄目な癖に理解できてるの?」
「良いじゃない。解らないなりに面白いんだから。サッカーとか野球みたいに解りやすくないけど、楽しいんだから」
私が返せば素直で結構と笑って弟は言う。腹が立って縮めていた足を利依の膝の上に乗せると文句を期待していたのにすんなり受け入れられた。スルーされる嫌がらせ程恥ずかしいものはない。姉弟といえどこんなに身体をくっつけることは最近無いことだった。
「もうすぐ夕食休憩だし、場面も動かなそう。買い物行ってくる」
「俺も行く」
「良いよ。どうせ近くのスーパーだし、買うものも多くないよ」
「最近引ったくりが多いって聞くから。姉貴はボヤっとしてるし、何かあったら父さんと母さんに顔向けできない」
「心配性じゃない? 悪いことばっか想像してると疲れるよ」
「最悪の事態を想定して動いていた方が後悔しなくて済むだろ。コート取って来いよ。先に待ってるから」
利依はソファから立ち上がりテレビを消す。さっきまであった温もりが急になくなって私は少し寒いような感覚を覚えた。
いつからか弟は妙な線引きをするようになった。こちらがどきりとするくらい近づいてくる癖、あっさりと離れる。私は彼がだんだんと距離を取っていっているような気がして少し寂しい。幼い頃は、『カレンちゃん』と頻りに私を呼んでいたのにいつの間にか『姉貴』と呼ぶようになっていた。
年齢を重ねていくうちに家族と一定の距離感を持って接することは仕方がないことだと思っている。私だって両親や利依に言えない秘密が増えた。けれども実際離れられる方側に立つとどうしたって不満を覚えてしまう。我儘と言ってしまえばそれまでだがやっぱりどうしたって切ない気分になる。
いつか、お互いに彼氏や彼女が出来て姉弟で過ごす時間も無くなっていくのだろう。それならば今一緒に居る時間を大切にしなければいけない。別れはいつだって唐突なものだ。お隣のお姉さん然り、友達にだって。当たり前が延々と続くとは限らない。その時になって後悔しても仕方がないのだ。だから私は掌の中にある日常をいっそ大切にしていきたいと心から思っている。
玄関から外へ出ると既に太陽は西に沈みかけており、空気は冬の匂いを纏っていた。明日には桜の開花予想が出ているというのに、思いのほか冷え込んでいた。
「寒いね。マフラーして来れば良かったかな」
「歩いて五分やそこらだし我慢できるだろ」
「うん。でもさ、久しぶりだね。こうやって利依と買い物に出るの。普段は母さんがいるからさスーパーにもあんまり行かないし、おつかい頼まれても学校帰りだから一緒になることなんてほとんどないよね」
「姉貴が忘れっぽいから、結局俺が買いに行っていることも忘れずに」
「はいはい。できた弟が居てお姉さんは幸せですよ、だ。まあこんな機会も来年からは滅多に無くなるだろうし」
「え、あの成績で大学受かるつもりなの?」
「あんたに比べれば出来は悪いかもしれないけど、心配されるほどじゃない」
「だけど進学したからって家から出るわけじゃないだろ。ここから東京なら一時間もかからないじゃない」
「母さんから聞いてないの? 私京都の大学行きたいの。高望みかもしれないけどさ」
「あそこ文系でも数学必須だよ。赤点ギリギリの姉貴が行けるところじゃない」
「それでも、やる前から諦めていたら何にもならない。やって駄目なら考える。利依はさ、頭が良いから行動をする前に計算して無駄なことを回避してるでしょ。私は馬鹿だから結果が解るまでがむしゃらに努力するしかない。我ながら無謀だと思うけど主人公は立ち止まらないんだよ」
「漫画かよ」
「良いじゃん。当たって砕けろ、だよ」
「猪突猛進ともいうけどね。まあいいや。寒いしさっさと買い物済ませて家に帰ろう」
利依は足の歩みを早くして会話を打ち切った。私はそんな彼の後ろを小走りで追いかける。電灯に照らされて出来た影を踏んでその背を叩いた。
「いきなりどうしたの?」
「別に何でもない」
「何でもなくないでしょ。急に不機嫌になって」
「そう感じたのなら姉貴のせいだ」
「進路のこと? 黙っていたのはごめん。けど、私居ても居なくても利依には関係ないでしょ。やりたいことは自分で決めるものだもん」
「珍しく正論だな。でも姉貴、俺だって割り切れないことがあるんだよ」
「家族なんだから離れても大丈夫だよ」
私が宥めるような声音で言うと、利依は苦しそうに笑った。否定も肯定も無かった。歪められた唇は微かに震えていた。不用意な言葉できっと彼の心の柔らかな部分を傷つけたのだろう。私は珍しく感情を露わにする弟に再度手を伸ばした。
けれどもパシリと小気味いい音。払いのけられたことに気づいたのは数瞬してからだった。
「さっさと行こう。夕飯早く済ませたい」
利依が口早に言って、また背中を向け歩き始める。はたかれた手の甲がじんじんと痛んだ。決して強い力が込められていた訳ではない。けれども明確な拒絶を示した其れは、思いのほかショックだったのだ。
いや、初めに拒んだのは紛れもない、私だ。息が詰まる。得体のしれない感情が込み上げてきて、少し泣きそうになった。心にもやができている。焦燥感に似たこの気持ちは何だろう。初めての感覚に戸惑いが隠せない。
気もそぞろで作った夕飯は散々の結果で、フライパンを焦げ付かせた。六口と言われたお喋りな私なのに会話が弾まない。まるで無表情で夕飯を口に運ぶ利依を見て、思わずため息がこぼれた。
父さんにも母さんにも感じたことのない思いが、雨雲のように身体中へ広がっていく。こうして二人暮らし初日は不穏な空気を残しつつ幕を閉じた。