先生と僕
夏の日差しがカンカンと照りつけるアスファルトの道。
汗をだらだらと流しながら僕は地を蹴る。目的地は閑静な住宅街の一際大きな邸宅。それが僕の憧れの先生の住む家だ。
インターフォンを鳴らしたって返事がないのは分かりきっている。なので僕はガラガラッとドアを開けて、「せんせー! せんせーい!」と、屋敷に入るなり大声で先生を呼んだ。やはり返事はなく、靴を勢いのまま脱いでドタドタと上がり込む。
「せんせー! 返事をしてくださーい! いるのは分かってるんですよー!」
襖を開けるが、居間には姿がない。予想の範疇だ。
「書斎ですかー!?」
靴下で滑りそうになりながらも、廊下を駆け抜ける。そのせいで、書斎の前で急ブレーキをかけるとつんのめりそうになった。障子を勢いよく開ける。
「せんせー! いますかー!?」
「何なんだ騒がしい!」
「ひゃう!?」
予期せぬ方向からの大声に、僕は飛び上がってしまった。
恐る恐る振り向くと、腕組みをした先生が立っていた。いつもの仏頂面に加えて、額に青筋を立てている。先生は前髪を上げているからそれがよく分かる。
「せんせ、どちらに……?」
勢いを削がれて、僕はそうおずおずと尋ねてしまう。
「寝室だ」
「お、お休みでしたか……」
なお現在の時刻は正午を過ぎたあたりである。
「そうだ。休んで何が悪い? 私は昨日脱稿したばかりなんだ」
そう言う先生の目は充血している。
「今日は一日中寝て過ごそうと考えていたんだ。何処かの餓鬼のせいで計画は破綻したがな」
じろりと眼鏡の奥の細い目が僕を絡め取る。
「す、すみません……」
僕は深々と頭を下げる――。そしてそこからパッと顔を上げる。
「でも、事件なんです!」
「お前の謝罪は形だけなのか?」
「だって事件が起きたんです! 先生の睡眠よりもずっと重大な事件です!」
「おい、今お前私の睡眠よりもって言ったな? 何様なんだお前は? え?」
先生はヤのつく自由業ばりにガンをつけてくる。
機嫌が悪い時の先生はかなり怖い。しかしここで怯んでは、物語は先に進まない。今度は負けぬと、僕は言い返す。
「だって先生が脱稿したのは一昨日です! 先生は丸一日寝ていたんです!」
「嘘を吐くな!」
「嘘じゃないです! だって昨日僕が先生を訪ねたら、先生寝てました! 担当さんに訊いたら、昨日脱稿したばかりだからね、った言ってました! 嘘だと思うのなら日付を確認してください!」
「待て、突っ込みを入れたい箇所はいろいろあるが、そもそも何で鵜飼とパイプがあるんだ」
鵜飼というのは先生の担当編集者だ。線の細い男で、いつも先生にへこへこ頭を下げている。
「先生が締切をいつも破るので監視役としての任を承りました! その際にメアド交換してたんです!」
「……そうか」
先生は締切を半年も破る事がザラである。それを先生自身、悪いと思っているらしいが。そんなに遅れても作品を待ってもらえる。そんなところに先生の実力が垣間見える。が、そんな事は今どうだっていい。
やった! 先生に勝ったぞ!
気を削がれた先生は懐からスマホを取り出し、電源を入れた。一分後、何も言わずにスマホを戻す。
「一日経ってましたか?」
「……経っていた」
先生は溜息を吐くと、髪をガシガシと掻いた。
「すまなかったな、簑浦君。詫びに茶を出そう。ついでにその事件とやらも一応聞こう」
「さすがは先生! 大人らしいです!」
「君はその図々しさをどうにかしなさい」
「でも図々しさがないと名探偵にはなれませんからね! そうですよね、先生?」
私には図々しさはないがな、と先生はぼやく。そして僕に背を向けて、歩き出した。
歩むのに従って、結われた黒髪が左右に揺れる。その後ろ姿は、僕の憧れだ。
僕の憧れの名探偵、奏川豪――カナデガワスグルと読む――はかつて僕を救ってくれた恩人である。とてつもない大事件に巻き込まれた時、先生が助けてくれた。
あの時の先生はとってもかっこよかった。それから先生は僕の憧れとなったのだ。
先生は応接室に僕を案内するとお茶を出してくれた。湯呑に入った緑茶だ。
「あっ美味しい! これはお高いお茶ですね、先生!」
「否、ただの淹れたての茶だ。そこのスーパーで買ってきた」
「……最近のスーパーでは、安くて美味しいお茶が出てるんですねぇ」
「で、事件って何なんだ?」
「何だぁ、先生ったら興味なさそうにしつつも気になってるんじゃないですか」
「さっさと聞いてさっさと寝たいだけだ。早くしろ」
「はーい」
僕は元気よく返事をする。返事だけはいいとよく言われている。
「これは僕が出会った男が話した話なんですけどね。あるところに鏡愛好家の男がいたんです。彼は鏡の他にも双眼鏡に魔鏡にカメラなども収集してたそうなんですけど」
「極力短くしてくれ」
「先生ったらつれなーい。じゃあ、それは置いておいて。お金持ちで、そういったものを漏れなく買えちゃう人だったんですねぇ。そんな彼は古今東西の鏡を集めて飽きてしまった。もう自分の知的好奇心を満たしてくれる鏡がなくなってしまったからです。どうしたものか、と考えた彼は一計を案じました。そう、自分で作るのです!」
「もしかして、その鏡というのは一面鏡張りになった球体の事で、彼はそれに入ったんじゃないのかい?」
「よくご存じですね。僕もそういったものを見た事があるんですけど。トイレの手洗い場にたまに鏡合わせになっているものがあって、そこで遊ぶのはとても面白かったですね。という事は置いておいて。彼、友人の手を借りてその中に入ったんですけど、なかなか出てこない。友人がやきもきしていると、彼の入っている球体の中からギャォー! って怪獣みたいな声がして! 友人が慌ててその場にあったもので球体を割ったんですけど、そこには彼の姿はありませんでした。何所に行ったんだろうかと辺りを見回すと、なんと、彼は額の絵の中に入っていたんです! これ、その部屋に掛かっていたものなんですけどね。彼は額の絵の一つになってしまったんですよ。それを可哀想に思った友人は」
「額を持って旅に出るのだろう?」
「……そうです。しかし、まだ続きがあるのですよ! その友人が彼の入った額と共に旅行しているところに僕は出くわしたんです。そこで事の顛末を聞かされて、そりゃあもう吃驚仰天ですよ! その出会った男が、よく見てご覧なさいと言うものだから、僕がジッとその絵を見てみますと、絵の中の彼が『ほぅ』と笑ったのです! これは大事件! 先生、取材旅行に行きましょう! ちなみにこれは熱海です! 熱海に温泉入りに行きましょう!」
「話はそれだけかい?」
途中で口を挟んだ割には先生の反応が悪い。厭な予感がよぎるが、僕は渋々ながら頷いた。すると、先生は短く「三点」
「それは三点満点で、ですか?」
「百点満点だ」
確実に赤点の点数じゃないか。
僕が落胆しているのを見かねてなのか、先生は言葉を継ぐ。
「何でこんな話で高評価が得られると思ったんだ、君は。この話は乱歩の『鏡地獄』と『押絵と旅する男』だろう?」
「はい……」
「そこまでは百歩譲って良いとしよう。しかし、どうして最後に他の作家の作品を付けたんだ? しかもご存命だ。マイナス二点」
「蛇足がなくても五点……」
「私をわざわざ起こしてまで話す事はなかっただろうに。君は暇人か」
「違いますよぉ」
僕は涙を流して同情を誘おうとするが、目は乾いている。役者を志すのは無理そうだ。
「僕は事件を解決してくれた先生がかっこよくって大好きで、そのお姿をもう一度見たいと」
「事件って君のところの猫が逃げたのを捕まえただけだろう」
「ミィちゃんが逃げたのは僕にとって一大事なんです! そこだけは譲れません!」
「解った、解った、落ち着きたまえ」
「本当はおっきな事件を携えて先生を訪ねたかったんですけど、都合よく事件なんて起きない。そこで僕が創造したんです!」
「君の頭が弱くて助かったな」
稀代の犯罪者にでもなるつもりか、君は。
そう呆れた顔で先生は言う。
先生には僕の気持なんて解らないんだぁー!
そう思うと、目頭が熱くなった。
「ああ、もう泣くな、泣くな」
いつの間にか僕の目からは涙は零れていた。さっきは出なかったのに。
時間差なの? 僕の涙は時間差なんですか?
先生がティッシュ箱を渡してくれたので、遠慮なく数枚取って鼻をかむ。
「まったく、君は一体何歳だ?」
「十四ですぅ」
「ああ……多感な年頃なのは解るが、表立って泣くものじゃない」
「ごめんなさいぃ」
「しかし涙は女の武器とも言うか……」
「女扱いなんてしないでください!」
聞き捨てならない言葉に僕は思わず立ち上がった。
「否、しかし君、スカートを穿いているじゃないか」
「制服ですから! 本当はズボンがいいんです!」
「性別上だって」
「性転換すれば男になれます!」
「それには莫大な金がかかるぞ。というか君、この前会った頃は一丁前に、フリルが要らないくらい付いた、ドレスみたいなワンピースなんていうロリータ姿だったじゃないか。あれは何処にいったんだ。まだ一週間も前じゃないだろう?」
「僕は変わったんです! あんな女々しい恰好は先生の横に立つのに相応しくないんですぅ!」
そう、僕はカッコイイ先生の横に立つ人間として相応しいように、自分を変えようと決意したのだ。すると前まで大好きだったロリータも可愛いスイーツも色褪せて見えた。替わって、ボーイッシュファッションだったりロックバンドだったりというものに興味を持ち始めた。ヴィジュアル系バンドはまだ怖いけれど。あとミィちゃんは好きなままだ。ミィちゃんは一生愛すと誓った私――じゃない、僕だ。
「そうは言うが……一体私の何所に触発されてそうなってしまったんだい?」
「えっ語っていいんですか!? あれは」
語ろうとすると、「長くなりそうだからやめてくれ」と止められてしまった。
今度ファンレターにして書いてこよう。レターセットを十組買おう。
「君の話は分かった。理解はしてないがね」
「手紙で書いてきますね」
「お願いだから太宰治の嘆願書みたいな長さの手紙は書かないでくれよ。洒落にならない」
バレていた。
昔の癖で舌をペロッと出してしまったのを慌てて引っ込める。僕は脱「可愛い女の子」をしたんだ! 先生みたいなカッコイイ大人の女性になるために!
「決意しているところ悪いが、私はそう大した大人でもない。三十過ぎても結婚出来ていない女だ。真似してもよい事などない」
「そんな事ないですよ」
「いいかい、簑浦君。……否こう呼ぶから駄目なんだな。心愛ちゃん」
「ギャー! その名前で呼ぶのだけは! それだけはやめてください! 後生です! っていうか何なんですか心愛って! カフェに行くのめちゃくちゃ気まずいんですよ! 友達皆にココア頼まないの? って訊かれるし! 心に愛があるって何なんですか! じゃあノット心愛は心に愛がないんですか? ノット心愛の全人類は心が乾いちゃってるんですか?」
「解った、簑浦君に戻そう。この方がしっくりとくる」
「それでお願いします!」
「では簑浦君」
「はい!」
「回れ右してお家に帰りなさい」
「わっかりました! ――って帰りませんからね!?」
「私はさっさと帰って欲しいんだが」
「いーや、居座らせてもらいます」
「お願いだから帰ってくれ、本当に」
先生は頭を掻きつつ溜息を吐く。一般女性ならだらしのないと捉えられがちだが、先生がすると様になっている。なんてカッコイイんだ。
「仕方ない、簑浦君のお母様に連絡しよう」
「ママに!? それだけは! それだけはやめてください!」
「心愛呼びとどっちが嫌だい?」
「うぅぅぅ……、心愛呼びです……」
「じゃあ連絡するよ」
「解りました、帰ります」
ママには先生のところに来ている事は内緒なのだ。一度ママに先生のところに行ってくると話したら、邪魔になるでしょ! と怒られたのだ。ママも怒ると恐い。
「結構」
先生はにっこりと笑った。その顔はとても素敵な笑顔で、私は惚れ直した。
同時に、そこまで帰って欲しかったのかと悲しかった。
先生は玄関まで見送りに来てくれた。
「最近は物騒だ。日が暮れる前には家に着くようにするんだ」
「とはいっても、ここの裏ですけどね、僕の家」
「また遊びに来なさいとは言わないからな。家に帰ってよく勉強しなさい」
「はぁーい」
靴を履いて「お邪魔しましたー」と軽く頭を下げる。先生は手を挙げて応じた。いちいちカッコイイのどうにかして欲しい。
先生は引き留めてくれなかったので、すごすごと家に帰った。
寂しかったので鵜飼に教えてもらった先生のメアドにギリギリまで文字を詰め込んでメッセージを送った。多分鵜飼は先生にしこたま怒られるだろう。僕の知った事ではない。
「あーあ、なんとかして先生に会えないかなあ」
ベッドの上でゴロゴロとしていると、スマホが鳴った。なんとなく画面を見ると、知らない人からのメールだった。スパムかなぁ、先生からのメールだったらいいのになぁと思いながらメールを開けた。
[件名:簑浦心愛様
あれは仕事用のメールアドレスだからこっちを使いたまえ。気が向いた時に返信をしよう。]
「先生から!?」
願ってもみない、先生からのメールだった。私は震える指で画面をスクロールする。簡素なメールアドレスの下に署名があった。
[上川 涼音]
いや先生の本名めちゃくちゃ可愛いな。
僕はまた先生に惚れた。
〈終〉