ばあちゃんの話(下)
翌日も、娘の容態には変わりがなかった。
熱にうかされながら、案外、昨夜の爺はおかしな夢を見ただけだったのかも知れぬとも思ったが、夜の内に土間の土で汚れた足の裏を見て、母親は娘を心配げに叱りつけた。
それに、部屋の隅の虫かごから、蛍が一匹減っている。
二匹になった蛍は、それに気付いているのかいないのか、昼間の光の中じっと籠の隅に掴まって動かないままだった。
それを確認して布団に潜れば、後は、また熱で朦朧とするだけの一日だ。
一昼夜うとうとと夢うつつに過ごしていたが、真夜中、ふと、呼びかける声で目を覚ました。
「お前はずるいやつじゃなぁ……」
「へぇ……」
目を開ければ、昨晩と同じ、枕元に紋付袴の爺が正座している。眉根を寄せたしかめっ面で、じろりと娘を睨んでいた。
どうやら昨日の蛍が、三途の川まで行ったところでバレたらしい。
「虫けら一匹連れて帰る馬鹿者じゃあと言って、息子らにからかわれたわ……」
「へぇ、ごめんなせぇ……」
謝ってはみたものの、自分の行いを改める気はない。
どう考えても、死なずに済むならその方が良いのだ。
「もう同じ手は食わんで。今日こそ行くから、支度しなさい」
「へぇ、それでも、晴れ着とは言わないからせめて着替えくらい……」
「駄目だ!」
頭ごなしに叱りつけられた。
昨晩の出来事でかなり腹を立てているらしい。
娘はため息をつくと、夜着の襟元を掻き合わせた。
「これじゃあ乳が丸見えだ。紋付袴の後ろを歩くのに、そんな格好じゃ世間体が悪い。せめて一枚羽織らしてん」
「む……」
爺は一声唸ると、黙って部屋を出ていった。
わざわざ紋付袴で迎えに来る辺りも、何だかんだ言って紳士なのだろう。
だが、娘はそれに合わせるつもりはない。晴れ着もまだなら恋もまだ。青春のせの字も満喫してはいないのだ。ここで死ぬ訳にはいかない。
部屋の隅の虫かごから蛍を摘み出すと、両手に閉じ込め、襖の向こうに向かって声をかけた。
「お待ち遠さんです」
「……もう良いのか」
「へぇ」
そろり、襖を細く引き、その向こうへ掌を開く。
柔らかな光は暗い廊下をしばらくうろついた後、暑気対策に隙間を開けていた雨戸を抜けて外へと飛び出していった。
その後ろを追う光と、爺の声。
「待て待て、先に行くなと言っているのに。おい、おい……!」
おい、おい……おい……
少しずつ小さくなる爺の声を背中に、娘は布団へ戻った。
明日こそは元気になって、隣の恵介さんにお礼を言うのだ。
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虫かごの蛍は、残り一匹になっていた。
光りながら飛ぶ蛍はどれもオスだ。二匹いたところで何がどうなる訳でもない。
だが、一匹だけになった籠の中は、えらく寂しいように思えた。
熱はまだ下がらない。
朦朧としながら、幼い頃の夢を見た。
七つになったばかりの彼女は恵介さんと2人、ツツジの花を摘んでいた。
恵介さんの伸びやかな指先に挟まれた真っ赤な花びらが、唇に直接近づいてくる。
吸って、と言われて吸い込んだ蜜の甘さ。唇に纏わりつく雄しべの筋。
布団の中で、うつらうつらとそんな夢を見ていた。
ふと、呼びかけが耳に入ってくる。
「お前と言うヤツぁ……」
怒りを通り越して呆れ果てた声。
布団の中で寝返りをうてば、もう三度目の紋付袴が目の前にあった。
「大変すんませんなぁ……」
「すまんとは思っていないじゃろう」
「へぇ」
さすがの爺も、今日はもう正座をしていなかった。
あぐらをかいて肘を突き、大きなため息を吐き出す。
「もう知らん。お前の言うことは二度と信じんぞ」
「へぇ」
「今度こそ連れて行くけぇ。支度しなさい」
「へぇ……着替えは」
「待たん」
びしりと言い渡され、娘は布団の中へ顔を潜らせた。
ごそごそと手探りで夜着を整えると、布団越しにくぐもった声で答える。
「……それならすぐ行きます」
「最初からそう言っておけば良いのだ」
小さく持ち上げた布団の端から、ふわりと小さな光が舞い上がった。
「往生際が良いことじゃ。だけど、そんなに急ぐことはないぞ。ちょっと待ちなさい。おい、おい……」
爺もすぐに光の玉になり、先に行く光を追う。
前後になって窓から出ていく二つの光の玉を見送ると……娘はそっと布団から顔を出した。
今夜こそ誤魔化しきれぬやもと思っていたが、布団の中に籠ごと蛍を引き入れておいて良かった。
額の汗を静かに拭う。ひとまず今夜は乗り切ったのだ。
これで蛍は一匹もいなくなってしまった。
明日は昼間の内に蛍を捕まえておかなければ、宵には今度こそ連れて行かれる。
明日こそ熱が下がって欲しいと祈りながら、娘はうとうととまた夢の世界へ戻っていった。
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「……それで、娘はどうなったの」
乾いた喉をごくりと動かして、先を促す。
ばあちゃんは片頬だけを上げる意地の悪い笑顔を浮かべてから、「どうなったと思うね?」と尋ねた。
「布団から直接飛ばしちゃったもんな、次に爺をどうやって誤魔化すかが思いつかん」
「まあそっちはね……厠にこもるとか長持にこもるとか、あの爺ならバリエーション変えれば騙されるんじゃないかとは思うんだけどさ」
「翌日に蛍を補充できたとしても、夏が終わると詰むよなぁ」
「そうだね、それが問題だ」
あっさり頷くと、ばあちゃんは軽く首を振った。
「娘もこのままいつまでもは続けられると思ってなかった。だから翌日、幸いにも熱が下がったところで、悔いのないように恵介さんのところに行ったのさ」
「えっ!? あ、逢引……!?」
「馬鹿。まだ十二の娘だよ? これが最後になるかもしれないって、挨拶しに行っただけさ」
「……だけどさ、ちゅーくらいはしたんだろ」
「何であんたにそこまで教えなきゃいけないんだい」
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とにかく、恵介さんと別れの挨拶をした後、娘は小川へ出て蛍をたんまり捕まえて帰ったのさ。
真夜中、両親が寝静まった後、丸めた布団に布団をかけて誰かが寝ているように見せかけてね、それから籠を抱えて長持の中にこもった。
夜とは言え、風通しのない長持は暑かったがね、命がかかってるんだもの。仕方ない。
夜が更け、窓から飛び込んできた小さな光は、今度は勿体つけずにいきなり怒鳴り始めた。
「お前のことはもう知らんぞ! 人がわざわざ迎えに来てやっていると言うのに、お前ときたら!」
身なりの良い老人が、それも構わず怒鳴り散らす様は、傍で見ていても空恐ろしいものがある。
その上、この爺はご先祖さまなのだから、あんまり怒らせるのも得策じゃない。
娘はさすがに諦めて、長持から出ようとした。
だが、ちょうどその時に、爺の怒声が部屋に響いた。
「もう二度とお前なんか迎えに来ないからな! 迎えが来ないヤツぁ、死んでも三途の川に辿り着けず露頭に迷うしかない! お前もそうなるんじゃ。覚えておけよ!」
丸まった布団に向かって言うだけ言うと、爺はまた光の玉の姿に戻り、窓から外へと飛び去って行ってしまった。
そうして残されたのは、長持の中でほっと胸をなでおろす娘だけだったのさ。