序
※主題ではありませんが、赤ん坊の死ぬ場面があります。
体が熱くて目が覚めた。
熱が上がってきたらしい。
布団の中で身じろぎをする。火照った頬が、枯れた喉が、潤いを求めている。
水が欲しい、と言おうとして、家の中の静けさに気付いた。
皆、出払ってるのだろうか。
「……誰か」
掠れた声だけが室内に広がって薄れていった。答える者はない。
包まっている布団がやけに大きく見えた。
天井が遠い。中心を通っている巨大な梁が、おれを見下ろしているように見える。
部屋の中にいるくせに、どこまで行っても誰もいないような気がしてきた。
恐怖と混乱でもう一度声をあげようとしたとき、とんとん、と枕元を叩く音がしてはっと目を向ける。
枕の向こうから逆さにおれを覗き込んできたのは、見慣れた顔だった。
真っ白い髪を後ろでひっつめ、隙なく着付けた紺鼠の和服。生真面目な外見を保っている癖に、何をしていてもどこか面白がっているのが伝わってくる、変な人。
「……ばあちゃん」
「何だい、一人でびくびくして変な子だね。そんな怖がりじゃ一人で寝られないんじゃないの」
しゃがれた声。意地の悪い口調。
だと言うのに、皺の間からのぞく眼差しは優しい。
どうやら気付かなかっただけで、ずっとそこにいてくれたらしい。
安心とか、優しさが嬉しいとか……何だかよく分からない暖かい気持ちで鼻の奥がツンとした。
布団から出した手を伸ばせば、漂うい草の香り。指先に固い畳の目が触れる。
窓辺から差し込む日差しは白い。壁を隔て、向こうで鳴き狂う蝉の声。
額に張り付いた髪を乾いた指がすくう。
完璧な夏の一瞬に見とれていたが、指の感触で我に返った。このまま勘違いされちゃ困ると、おれは慌てて訴える。
「おれもう、一人で寝られるよ」
「どうかね」
「本当だよ、怖くなんてない」
「そうかい」
枕の向こう側、何か固いものを片付ける音。
コップだろうか、水があるなら欲しい。
ばあちゃんの目がおれの視線を受けて、ゆったりと弧を描いた。
「怖くないなんて言うがね、本当は怖いだろう」
「怖くないよ!」
「へぇ、じゃあ今からばあちゃんの怖い話聞いても一人で寝られるかね?」
「寝られるよ!」
乗せられている、と自覚はしていたが、どちらかと言うと嬉しかった。
ばあちゃんの怖い話は本当に怖いのだ。その怖いのが楽しくて、でも怖くて、昔はよく母親にしがみつきながらそれでも話してくれとせがんだものだった。
とは言え、今は真昼だ。どれだけ怖かろうが問題はない。
頭の端をちらりと、夜になったらどうするんだという不安が掠めたが、目先の娯楽に流されて消えた。
ばあちゃんに向け、促すつもりで力強く一つ頷いて見せる。
「……そうかい、じゃあ仕方ないね」
仕方ないなんて、まるで嫌々話すような口ぶりも、多分いつものもったいぶりだ。
もぞもぞと布団の中を動き、聞く姿勢を整えたところで、ばあちゃんは静かに語り始めた。
「話そうか。蛍の話さ」
「蛍……」
頭の中、ふわり、と小さな金色の光が浮かび上がった。
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あんた人魂って知ってるかい?
そう、死んだ人の魂さ。
死ぬと、ご先祖様が迎えに来る。だけど、向かう先は極楽だからね、身体ごとついてく訳にはいかない。だから、今まで痛かったり苦しかったりした身体はおいて、魂だけでついていく。
その時に見えるのが、人魂だ。
見たことあるかい?
いや、あんたはないか。まだ若いもんね。
はいはい、そんなむきにならなくて良いよ。別に見たことないのは恥ずかしいことじゃない。むしろ良いことさ。
ん? ばあちゃんは……そりゃ、見たよ。何度も。
年もあるけどさ、ばあちゃんの小さい頃はその日のご飯を食べるのも大変で、栄養状態が悪くてね。身体の小さい子はすぐ死んじゃうのさ。
ばあちゃんが初めて人魂を見たのは、5つの時だ。
生まれたばっかりの妹が死んだ時。
泣き声が段々弱々しくなってね、小さくなってって。何がどう悪いのか誰にも分からんの。それでも一生懸命ひっひっとひきつけてたのがね、ふっと止まって。そんで、そのまま息が止まった。
ばあちゃんのお父ちゃんもお母ちゃんも何とかしようとしたがね、お医者さんがいる訳でもない。揺さぶってやるくらいで、他に何にもしてやれることもない。すぐに妹は冷たくなってった。
そんでね、皆で動かなくなった妹を眺めてたらね、しばらくしてぽつんと開いた口の中から、小ちゃな小ちゃな小指の先くらいの光の玉が飛び出てきて、ふわーっと浮かんだ。浮かんでね、ぷわっぷわっと瞬きながら、しばらく周りをうろついてた。
それを見てる内に、外からもうひとつ光の玉が飛び込んできてね、そんで小ちゃいのがそっちに寄ってったと思ったら、そのまま一緒になって外に出て行っちゃった。
最初は何のことだか分かんなかったんだけどね、一緒に見てたお父ちゃんがまだぼんやり天井を見上げながらね、「あれが人魂ちゅうもんじゃ」って教えてくれた。「ご先祖さまが赤子の魂を迎えに来てくれたんじゃ」って。お母ちゃんがわっと泣き声を上げて顔を伏せた。
そうやってばあちゃんも知ったんだ。
あんたもきっとそのうちどっかで見るよ。
何せ、こんだけ人間がいりゃ、どっかで誰かは死んでるからね。嫌でもいつかは行き当たるさ。
ん? ……ああ、あんたは敏いね。
そう、よく似てるんだ。蛍に。
瞬いて、こう……ふわー、ふわーと浮かぶ様子がね。
いやいや、それだけじゃ別に怖くもない話だ。……怖くないだろ?
お話はここからだよ。