第二話 「契機/二ツ目」
【月雲霞】
――――降り立った瞬間、あたしの体は噎せ返るような海の香りに包まれた。
星力で作られたわけではない本物の太陽は、月から見るよりも万倍も眩く、力強く見えた。手をかざして隙間から零れる日の光は暖かく、灼くように鮮烈で、思わず目を閉じればそれでも裏側に残ってしまうことにむず痒さを覚える。
空気を胸いっぱいに吸い込んで肺の中を大きく満たすのは、視界一杯に広がる蒼から漂う、濃い生き物の匂い。思わず飛び込んでしまいそうになるほど青い水面は、太陽を弾いてきらきらと絶え間なく輝いていた。
これが地球なのだ――――と。あたしは、五感を常に刺激し続ける世界の鮮やかさに感極まっていた。
「いや、まあ感動するのはいいんだけどよ……」
「……そこで止まられるとな」
「えっあっ!? ご、ごめんなさいっ!?」
気付けば思いっきり酉船の搭乗口で立ち止まってしまっていて、あたしは多くの人の注目を集めてしまっていた。飛び退けば、あたしのことを邪魔そうに見ていた人々がつかつかと足早に去っていく。
「昊天は初めてか?」
視界に影が差す。振り向き仰げば、拓海さんだった。よくよくみれば大体180センチくらいはあろうか、あたしより頭一つ分大きいのでよけい体格も増して見える。
「はい、昊天どころか、地球自体が初めてみたいなものなので……それにしても、地球って綺麗ですね。ぼんやりした玉兎と違って、何もかもがはっきり見えるの」
言葉にすれば、思わず笑みが零れた。
玉兎にある青空はあくまでも人工のもの。星力によって維持され、再現される環境はあくまで「地球とは似て非なるもの」だ。あたしたち人間が生存することに重点を置かれたあの天蓋は、正直その景観という点において「鈍い」と言わざるを得ない程度の作りだった。
それがまあ、なんということか。偶然とはいえ、玉兎を出、地球に降り立ってみればその違いはあまりにも歴然だった。目を灼く日の光はいっそ刃のように鋭く、空気までもが鮮やかな色彩をもっているような錯覚にとらわれる。
「そんなにか……まあ、俺たちは職業柄あちこちを行き来するしな、わかんねぇのかもしんねぇ。そうだ、詩音さん」
頭をがしがしとかいた彼は、身にまとった軍服の胸元を暑そうに軽く寛げてもう一人の方を仰いだ。少し離れたところで手続きをしていたらしい詩音さんは、その声になんだと振り向く。
「出航までの間って確か三時間あるだろ? その間、こいつに昊天を案内してもいいんじゃねえかって」
「……その間にかかる金は?」
「うっ……お、俺が出すんで」
よろしい、と言わんばかりに頷く詩音さんと、自分の懐をちらりと見る拓海さんにあたしは慌てて、
「え、そ、そこまでしてもらうわけにはっ」
「いいンだよ奢られとけって。つってそんな高ェとこは厳しいけど……まあ、三時間で回れるつったらそこまで大したモンでもないだろ。せっかく来たんだし、少しくらいわがままいってもお前の兄貴も怒んねえって」
怒らないというか、既に怒られ済みではあるけども……。
昨日のうちに船内で兄と交わした会話を思い出して顔を引きつらせつつも、拓海さんのその申し出自体は嬉しかったからこくりと頷く。
「観光するにせよ、まず先に宿には寄らせてもらうぞ。荷物が重くてかなわん」
そう言って、詩音さんは手に提げた多くの荷物を指し示した。拓海さんの手にも同様に多くの荷物があるが、それはそれとして、二人ともが背負う長い包みは一体なんなのだろう。それぞれで長さは違うが、特に拓海さんのそれは手に持っている荷物よりもよほど重そうな大きさであるのに含めなかったことには、一抹の疑問を覚えた。
――――その疑問も、ほどなく氷解した。
「きゃああああああああああああああああああああッッッッ!!!!」
穏やかな漣の間を、甲高い悲鳴が劈いた。反射的にその在処を視線で追えば、それは港の端のほう、ちょうど街を囲む防壁のあたりだった。
騒然としている。その中心で、女性が襲われている。襲っているのは、人間ではなく――――汚泥を零したかのように黒く滑り、細長い手足を体幹から生やし地を掴む異形のモノ。頭と思しき部位には爛々と光る一対の赤い窪みが存在し、それは瞳のようにあたりを睥睨して――――自分の真下で身動きできなくなっている女性に、ぴたりと視線を合わせた。
それはさながら、獣が獲物を見定めるような瞬間だった。
「星喰だ」「なんでこんなところに」「壁が補修中だったって、」「一匹が入ってきたらしい」
ざわざわ、と周りの会話が嫌でも耳に入る。初めて見た存在に思考が鈍り、何も口に出すことができない。
あれが星喰。
大隕石の衝突と同時に発生し、なおもこの星を喰らい尽くさんとするモノ。
人の理解を拒み、既存の系統樹の悉くからかけ離れた、殺戮を旨とする怪物。
初めて見るそれに、周りと同じように立ち竦みそうになりながら――――しかしその口が大きく開かれた時、あたしは弾かれるように走り出した。
「ちょッ――――」
「月雲……ッ!?」
困惑と狼狽の声があたしを追う。しかしそれでも立ち止まることはできず、体を突き動かす衝動のままに加速して、加速して、加速する。
鮮やかな色彩を持って色めき立つ空気の中を、切り裂くように駆ける。吹きつける海風に靡く髪を持っていかれそうになりながら、それでも負けるものかとコンクリートを踏みしめた。
この時あたしの頭の中を占めていたのは、ただ一つの考えだけだった。
助けなきゃ。
「でええええええええええいッッッ!!」
全力で自分を鼓舞しながら、地を蹴る。スカートが翻り、束の間の浮遊感ののち、繰り出した飛び蹴りは――――果たして、今まさに捕食せんと迫る星喰の頭に突き刺さった。
ぐに、という弾性のある感触がしたと思えば、足の裏で衝撃が爆発した。足首に痺れるような痛みを感じながらも、星喰の頭と狙いが自分に逸れたことに対して奇妙に安堵する。
推進力を失った体が徐々に落下し始める。ゆっくりと見える世界の中で、しかしあれでも大した打撃は与えられなかったらしい星喰があたしに向けて一歩を踏み出し、再び大口を開けるところが間近で見えた。
――――喰われる。本能的な恐怖が今更ながらに背筋を走り、全ての音が遠ざかって、冷や汗が頬をつう、と伝ったその時。
「拓海」
「うす」
という、先ほど置いていったはずの声がすぐ傍で聞こえ。
弾ッ――――!
「(――――銃声?)」
疑問を覚えると共に、目の前で星喰が大きく吹っ飛んでいった。
どうやら弾丸を喰らい、その勢いで――――ということを理解した瞬間、全ての音と速度が元に戻った。
落下の衝撃に身構えたが、しかし予想していた痛みがあたしの体を貫くことはなく、「ぽすん」とただ誰かに受け止められるような感触だけがあった。受け止められたことで足が地面につき、上向いた視線が真っ直ぐと正面を見据える詩音さんの横顔に留まる。
「おおおおおおおッッ!!」
と思えば、雄叫びが響いた。はっと視線を正面に直せば、拓海さんがいつの間にか手にした大剣を振り切り、横薙ぎに星喰の顔面に叩きつけているところだった。
襲われかけていた女性は、他の知らない人が慌てて安全なところに退避させていった。そのことに安堵したのも束の間、詩音さんの横顔がくるりとこちらを向き、
「この馬鹿、いきなり星喰に蹴り喰らわす奴がいるか。俺たちがいなきゃどうなってたと思ってる」
「ご、ごめんなさい……でも、助けなきゃ、って思って」
はあ。
詩音さんはよく溜め息を吐くなあ、と他人事のように思ってしまう。彼はあたしが持ち直したことを確認すると、背中に回していた手を離し、改めて「離れてろ」と告げた。
「お前は星術は使えないだろ。この場で使えるのは俺と拓海だけだし、ちょうどいい。臨時収入だ」
「?」
疑問符を浮かべつつも下がれば、彼は改めて正面を見直し、左手に持っていたものを構えた。
それは、銃。俗にライフルと呼ばれるものだろう、彼はグリップをしっかりと肩に当て、スコープを覗き込んで後――――トリガーを引く。
銃口の傍に光る線が浮かび上がる。空中から出ずるそれは橙色の光を以て陣を描き出し、撃ち出された弾は理路整然と複雑を描くそれの中心を潜り抜け、
弾ッ――――!
拓海さんに向けて振り上げられた星喰の右前脚に、弾丸は吸い込まれるように突き刺さった。決して大きいとはいえない上、動きの中に在るモノを正確に射抜いたその手腕だけで、彼が恐ろしく優秀な狙撃手であることが知れた。
前脚を弾かれたことで、星喰は体勢を崩す。左前脚がたたらを踏み、その体がのけぞるように上を向きかける。
人間でいう心臓のあたり。星喰のそこには、赤く燃える火の球が在った。
「成仏しろッ!」
拓海さんが大剣を振るう。その鈍色の輝きは彼の身長ほどもあるだろう大きさで、その瞬間彼がずっと背負っていたものの正体を知った。拓海さんと詩音さんは、星喰狩りを生業とする星喰殺しだ。ゆえに“武器”を常に持っているのは当然で、それこそが彼らの背中に在るものだったのだ。
そしてその銀色の刃の中に、あたしは煌くような青い色を見た気がした。
大剣が星喰を――――両断する。決して素早いとは言えないが、その分力の限りを込めて振り抜かれたそれは見事なまでに星喰の焔をも断ち切り、砕ききった。
ぱりんっ
呆気ない音が響く。赤い炎は消え去り、汚泥を煮詰めたような体が瞬く間に灰となり、形を失って地面へと積み重なった。彼はその場で屈み込んだのち、こちらに戻ってくる。
「まあとりあえず、これでコイツの飯代くらいは賄えましたね。詩音さん」
何事もなかったかのようににかっと笑う拓海さんと、「まあな」と一つ息を吐く詩音さんに、あたしは「ありがとう」と笑顔で告げるのだった。
第二話 了