第一話 「契機/一ツ目」
【月雲霞】
「ご馳走様」「ご馳走様っした」
「またのお越しをー」
からんからん、と店の入口の鈴を鳴らして出ていくお客様を見送り、その背中に向けてあたしは「ありがとうございましたぁ!」と返事をした。
ここは「月雲亭」――――月面都市「玉兎」は下層街の一画に構える食事処で、あたし・月雲霞はその店員だった。
「おい霞、そこの机の片付け」
ぶっきらぼうにそう声をかけてきたのは、ここの店主の月雲流沙。先ほどのお客の会計を手慣れた所作で終え、厨房に戻りがてらあたしの肩を叩いていった無精髭は、名字からも分かる通りあたしの兄だった。
「そろそろ人の多くなる時間だ、ぼさっとしてんなよ」
「はぁーい……あれ?」
ちょうどついさっき退店した、男性二人組の机の片付けをしようとしたところだった。
ひらり、と滑り落ちて机の下へと舞い込む二枚の紙切れがあった。この時間はまだあまり人も多くない、トレーを机の上に置き、屈んで拾い上げる。
「『酉船乗船許可証』……?」
首を傾げる。酉船とは、ここ「玉兎」と地球側の各都市を結ぶ巨大な輸送船の名前だ。毎週月曜日に玉兎を発ち各都市を巡る、そして今日は月曜日――――
「お兄っ! あたしちょっと港のほういってくる!!」
「はあッ!? なんでまた!?」
「さっきのお客さん、許可証忘れてってる!」
前掛けを解き厨房の兄に向けて投げ渡せば、慌ててそれを受け取った彼は目を白黒させて「はぁッ!?」と素っ頓狂な声を上げた。それを置いて、あたしはだっと走り出す。
外に出れば、ぱっとけざやかな光があたしを迎えた。星力によって人工的に作られた天蓋から光が降り注ぎ、間もなく船の出航時間が迫っているということを示している。
この街は、月面に造られた都市だ。本来ならば人間に住めるような土地ではなかった月を、人々は星力、そしてそれによって編み出された「星術」という力によって整え、移住することに成功した。
その移住の目的というのはほかでもない。今から約五十年前に起こった大隕石の地球への衝突・通称<大厄災>、及びそれに付随して存在の確認された正体不明の生物――なのかも定かではない――「星喰」の脅威から逃れるためである。
あたしはずっと玉兎で育ってきているから、実際に地球で過ごしたこともないし、星喰をこの目で見たこともない。
いや、正確にはあたしは玉兎生まれというわけではなく、「地球で倒れていたところを月雲家に引き取られた」のだから、厳密には地球生まれなのかもしれない。だが記憶があるのは引き取られ、「月雲霞」という名前をもらい、月雲流沙の妹として過ごしてきたこの七年間だけだ。そんなあたしにとって、<大厄災>だの星喰だのといった話は、どこか遠い空の下で起こっているお話だった。
――――店から港まではそう遠くはない。白を基調として整理された街並みの中を一気に走り抜け、先ほど見送った二つの背中を見つけた。
港、というのは名ばかりで、実際は発着場に近い。奥に非常に大きな楕円体の乗り物――繭のようだ。これが酉船である――を臨み、その手前に許可証を提示しなければならないゲートがあった。その手前で件の二人は何やら慌てているらしい。
考えるまでもない。十中八九、あたしが今手に握り締めている許可証のことだろう。
「お兄さんたちーっ!」
弾む息を堪えながら呼びかければ、痩躯と長身が振り向いた。次いで検問を担当しているらしいおじさんが、忙しなさそうな目であたし――――と、あたしの手の中に在る許可証に目を留めたのがわかった。
「お前……あの、」
「あぁなに? その子がとりにいってたの? 今間に合わなかったら来週まで乗れなかったんだから、その子に感謝するんだぞお前ら。ほら、もう出航するから乗った乗った」
「へ? あ、あのおじさんあたしはっ」
「ほら早く早く!」
灰色がかった髪と理知的な眼鏡をかけたお兄さんの言葉を遮り、おじさんはぐいぐいと二人の背中を押した――――あたしごと。
まずい。このままじゃ諸共船に乗せられてしまう。でも今更許可証をお兄さんたちに渡す暇もなく、おじさんはあたしの話を聞かず無理矢理押し込んでくる。ばたばたと暴れてもまるで無駄だった。
「(まずい――――まずいまずいまずいまずいッ!)」
その時、ぱっとおじさんの手が背中から離れた。やったと思い、慌てて振り向けば、
無情にも、扉が目の前で閉まる。
閉じ際に見えたおじさんの顔は、「良い仕事をした」と言わんばかりに達成感に満ち溢れていた。
「………………、えぇ…………と…………」
顔が青くなっていくのが自分でもわかる。どうしよう、どうやって帰ろう……えぇと、ひとまずお兄に連絡……というかそもそもあたし、携帯家に置いてきてるじゃん……!
「……あー」
「……、」
後ろのお兄さん二人も、何とも言えない雰囲気だった。誰も口火を切らない微妙な時間が過ぎる。
「とりあえず……移動しねえ?」
周りからのちらちらという視線に耐えかねたのか、やがて長身のほうのお兄さんがそう切り出し、あたしは半泣きで頷くのだった。
***
離陸してのち、船の一画、あたしたち(正確にはこの二人のお兄さん)にあてがわれた船室にて。
酉船では、どうやら客が寝泊まりする用の部屋が許可証の購入時に与えられるらしい。玉兎から昊天まで、蒼天から鈞天までと各都市を結ぶこの船は、どうしてもその運航に日単位の長時間を要する。ゆえに原則、客には全員分の簡素な寝床と食事が提供される、ということらしいのだが。
「俺らの部屋がたまたま四人部屋でよかったッスね、詩音さん」
「まあな……流石に二人用の部屋に三人は入れなかったろうし」
詩音さん、と呼ばれたのが眼鏡をかけたほうのお兄さんだった。部屋とはいえそこまで広いものではなく、向かいの二階建てのベッドの下に腰掛けている彼に、あたしは対面するように座っていた。ほとんど膝を突き合わせるような近さなので非常に落ち着かない。
「とりあえず……そうだな。まずは、礼を言う」
「へ?」
「許可証。そこの脳筋が店に忘れていったのを、届けてくれただろう。手間をかけた」
そう言って彼は、一人ベッドの間の床で正座しているお兄さんを横目に軽く頭を下げた。あたしはといえば、明らかに年上らしい男の人に頭を下げられわたわたするほかない。
「べっ、別に大したことじゃないですから! それに、そうでもなきゃあたしがここに乗っちゃうことなんてなかったわけで……」
「そうだな。反省しろ、拓海」
「ウィッス! サーセン! すいませんでした二人とも!」
そういう意味でいったんじゃないのにぃぃぃぃぃ!
あわあわするあたしを尻目に、眼鏡のお兄さんは何事もなかったかのように話を切り替える。
「俺は南條詩音。そっちのヘマやらかした脳筋が向坂拓海。二人で細々と星喰殺しをやってる。……よろしく」
星喰殺しとは、軍に属することなく、依頼を受けて星喰を殺している傭兵のような人たちのことだ。食事処という性質上、そういった人たちもよくうちの店を訪れていたから、知識だけはあった。
「あ、あたしは月雲霞です。えぇと……月雲亭の店主・流沙の妹です。よろしくお願いします」
「……あの人の妹って割に、似てねぇんだな」
桔梗色の瞳がじっとあたしのことを見つめていた。しっとりとした紫の色に、どこか稚気にも近い海のような青を溶かし込んだ不思議な色だった。体はすごくがっしりとしていて大きいが、あまり手の入れられていないように見える胡桃色の髪と相まって、少し子供っぽさの滲み出る人だった。
「あたし、お兄との血のつながりはなくて。地球で拾われて、月雲家で育てられた? 感じらしいし……ってあれ?」
「……拓海」
「……サーセン」
はぁ~と向かいのお兄さん――――詩音さんが溜め息をつき、正座の拓海さんがしおしおとしぼんでいく。あたしとしてはそんなにマズいことを言ったわけでもなかったので、慌てて取り繕う。
「えっあっいや! 正直、月雲家に引き取られる前のことは覚えてなくて……あたしとしてはもう完全にお兄の妹だから、そんな気にしないでっ」
「その兄上のことだ。月雲、何か連絡手段は持ってるか? 俺たちは昊天で降りる予定だから、その足でもう一度乗るにしてもこの後四日間は玉兎には戻れない。その旨をまず連絡しておかないと、事件沙汰になりかねないしな」
四日間は玉兎に戻れない――――玉兎発の酉船は、地球に現在存在する三つの都市「昊天」「蒼天」「鈞天」を順に巡り、四日目に玉兎に戻ってくる。一週間のうち、残りの三日間はメンテナンスにあてられるため、その一周を逃すと帰ってこられるのは来週になってしまうのだ。
不便ではあるが、星力というまだ人類にとっては未知な部分も多いエネルギーを用いる以上仕方のないことなのだろうとは思う。ただ、それに自分が悩まされる日が来るとは思いもしなかった。
「いえ……もってないです。携帯は家に置きっぱなしなので……」
「そうか……となると、船内の電話を使うしかないな。意図しなかったとはいえ、俺たちのせいで連れてきてしまったんだ。きちんと玉兎には帰れるよう、手筈は整えるから安心してくれ」
太陽の光と樹の蜜とを同時に封じ込めたような橙色の瞳が、眼鏡のレンズの向こうから真っ直ぐにあたしを見つめた。鈍色の空をそのまま写し取ったかにも見える髪が揺れ、拓海さんの方を見やる。
「お前の旅費はもちろんこちらが持つ。なあ拓海」
「ウィッス! わかってます!」
……この二人の上下関係が十二分に理解できてしまうやりとりだった。体格は拓海さんの方が上だが、中身としては詩音さんの方が上らしい。くすりとつい微笑んでしまって、次いでなんとかなるような気がしたのだった。
こうして、偶然の巡り合わせによる小さな旅が始まった。
兄は大層心配することだろう。帰ったらこっぴどく叱られることも間違いない。それでも、せめて彼らといる間は、楽しめるだけ楽しんでおこうと思う。それが、今あたしにできる精一杯のことだ。
――――などと、この時のあたしは考えていたのだ。
まさか予想もするまい。玉兎で育ったただの少女が、星の命運をも変える旅をすることになるとは――――この偶然が、その第一歩であるなど。
見果てぬ星々の中、地球と月との間で、少女は束の間を微笑む。いずれ白日の下となる残酷な真実も知らずに、今はただ、純粋に。
第一話 了