人心核の逃避と死のジレンマ(6)
ナハトは日本に降り立った。人型ロボットと人間が混ざり合いながら雑踏を生み出していく。ビルの壁にはロボットアイドルのダンスが写し出されていた。ニュースや広告が街に雑多な情報を注ぎ込む。混沌とした活気が、人類の営みそのものであるかのように、恥じもなく存在する経済活動の坩堝。
交差点の真ん中を歩くナハト。
懐かしさはない。日本に住んでいた頃はもっと郊外で暮らしていた。ナハトにとっては、言語のわかる異郷でしかない。
ゆえに、思い入れはなく、この地を自らの血で汚すことに躊躇いはなかった。
まず試したのは、ビルからの投身自殺。
しかし、これはマザーに阻まれ、飛び降りることすら出来なかった。痙攣した身体と不規則な息遣いだけが残り、疲労だけが蓄積された。
次に試みたのは、ロープを使った首吊り自殺。
ビルの一室を無断で借り、天井にロープをかけるも、その時点で意識を失った。ビルで働く職員に見つかり、警察を呼ばれたが、間一髪で逃亡することができた。
その次に試みたのは、車の中で木炭を炊く、一酸化炭素中毒による窒息死。
ホームセンターのアウトドアコーナーで、燃料を購入し、無人タクシーの一台をハッキング。湘南まで車を走らせ、人のない駐車場で実行したが、これも失敗。
マザーによる介入により、怪力を発揮したナハトは車のドアを蹴り破り、車から脱出した。
これら三つの自殺未遂の裏で、実行していた空腹による餓死も失敗。ナハトは気が付けば、店の食品を奪取し、腹に収めていた。
まるで、自身の身体はナハトのものでないかのようだ。
実際、ナハトのものではないが、アルバの意思ではない。これは紛れもなくナハトの基本プログラムに強制された結果に他ならない。
自殺には覚悟が要る。痛みに耐える精神力が必要だ。ナハトはどの自殺試験においても、その覚悟を決めて臨んでいた。
だから、失敗したときの徒労感は中々に堪えるものがあった。
また死ねなかった。まだ終われない。何度も何度も、ナハトの意思を無視して、肉体は生存へ邁進する。
基本プログラムとはこれほどまでに強力な呪いだったのか。なぜ今までマザーはこの力を使わなかったのか。
ナハトに土壇場の怪力があれば、あそこまで、凄惨な死は遂げなかったというのに。
その日、次の自殺法を考案しているところで日付を越えていた。目の前にあるのは海。太平洋だ。
夜の闇は空と海の境界を曖昧にしている。
「ごめんな」
ナハトは宙ぶらりんな謝罪を述べた。
誰に対する言葉か、ナハトもよくわからない。
今までしつこく付きまとったヘレナに対してか。あるいは、ナハトを必要としているアーノルドか。さらに遡れば、決別した同僚、ハリエットか。今となっては傷つけた相手が多すぎて、罪状を整理するのが億劫ですらあった。
ただ、少なくとも、アルバは許しはしないだろうと、ナハトは直感していた。
頼んだぞ。
と、項垂れるナハトの肩をアルバが叩いたような気がした。
まさかここで止まるわけねぇよな。そう、ナハトを見下す、腹立たしい顔が目に浮かんだ。
ある意味で基本プログラムより質が悪い。想いなど託されたことがなかったから、ナハトにとって、それは強固な鎖となる。
波の音を奏でる海は、なにかの楽器のようだった。
静謐な夜が、現実が、ナハトを逃がさない。
「どうしろって言うんだよ……」
人間ではないのに、人間のように振る舞う怪物。人でないのだから人の気持ちがわからない。目的も意味もない、絆を持たない人の劣化模倣。不気味の谷を越えられない不出来な贋作。
およそ、生きる価値などない。
結論は既に出ていた。
アーサーより一足先に、この世を去るだけのこと。
地獄は良いところだぜ、と先輩面する程度しか、今できることはない。
ナハトはそのまま、浜辺で眠りについた。
頬には一筋の涙があった。
◆
それから、ナハトは一週間かけて、湘南から小田原まで海岸を沿って西に歩いた。
ナハトは全てを諦めていた。マザーを試すかのごとく、なにもしないことを続けていた。
何も食べず、歩きながら糞尿を垂らし、虚ろな目で進み続ける。本当に生命が危険になったとき、身体は勝手に生存へと最適行動をとる。ナハトに生きる意志はない。当てもなく無様に進み続ける。
次第にマザーが介入してくる頻度は高くなり、一日の半分はナハトの意志と無関係に、食料を求めて店を荒らすのだ。地元の警察が来たら、民家に隠れ、そこでも食料を盗む。
人間と言うより、一種の野生動物のような生活だった。
ナハトはそれでも良かった。
何も考えたくなかった。
これが、彼にとってのマザーとの闘い方だった。
生存せよというなら、お前が生かせ。できなければ、俺は死ぬぞ。
人心核アダムの中で起きたかつてない矛盾をはらんだ闘争は、ナハトの精神を木っ端みじんにしている。自分の名前も忘れそうになる。身体の周りを飛び回る蠅が、嘲笑うかのような羽音を立てていた。
この一週間は、そんな地獄だった。
もはや何を償えばいいかも、曖昧だ。
この身はただ、罪深く、許されず、どこにも行けない魂なのだ。
そして、また、浜辺で意識を失った。
◆
「うわ、臭い。鼻が曲がりそうだ……!」
倒れるナハトの隣に人の気配がした。
「…………」ゆっくりと目を開ける。誰だと問いかけようにも、喉が枯れて思うように話せない。
「お前、民家を襲ったりしているらしいな。そろそろ頃合いだ」
その人物は鼻をつまんでいるらしく、くぐもった声でナハトに話かけている。
──なんだ、こいつは。
ぼんやりと見上げると、見覚えのある女だった。
「横浜に着いた時から尾行していた。用心深いオルガ・ブラウンならばと、捉えようとしても反撃されることを考えて、手を出さないでいたんだが──」
女性はうつ伏せになるナハトをひっくり返した。文字通り汚物を見る目でナハトを見下ろす。
「このざまだ」
──確か、名前は……。
「私を覚えているか、エマ・シェルベリ。国連宙軍、軍曹……ではもうない。<キューティー>の工作員だ」
「……」
「お前のことは、アルバ・ニコライと呼んだ方がいいか? それとも──いや、そもそも今は誰だ?」
思い出すように、確かめるように答えた。
「ナハト……。紀村ナハトだ…………」
「そうか、主人格は相変わらずお前か。まあ、それはいい」
エマは、呆れるように言った。
「気は済んだか?」
「……うる……さい」ナハトはぶるぶると震える身体を無理やり起こした。充血した目でエマを睨みつけた。
「俺を連れ戻しに来たのか……!」
「連れ戻す? 少し違う。引き入れに来た」
「……?」ナハトにとっては同じことだった。
「お前はそもそも何から逃げている?」
大きな質問だった。全てから逃げたとも応えられた。
「ハワードか? 明龍か?」
「両方だ……。もう……放っておいてくれ!」
「だったら、お前の願いは叶う。我々は月面防衛戦線でも明龍でもない」
「黙れ、狂信者。お前もハワードに殺されろ」
「ふん…………、<キューティー>でもない」
「じゃあ──何に引き入れるつもりなんだ」
「組織に名前はない。ただ、皆、何となく集まっただけだ。世界で悲しいことがたくさん起きて、その皺が偶然一つに集まった」
「何を……言っている?」
「お前の力が必要だ」
「待て! 話を勝手に進めるな! お前らがやろうとしていることは、結局、月面防衛戦線との戦争だろう!? 俺の力が必要って、それ以外ないねえだろ」
「それも少し、違う。我々のリーダーの言葉を借りれば、敵は月面防衛戦線ではなく──」
エマは決意を述べるように言った。真実はすぐそばにあると、信じている瞳だ。
「ハワードだ」
「どういうことだ?」
ナハトは、月面防衛戦線とは戦えない。あそこにはヘレナがいる。ヘレナに会うのが恐ろしい。仮にナハトの能力を全て使って、月面防衛戦線に勝ったとしても、ヘレナもろとも消し去る未来だ。二人は救われない。そう思っていた。
だから、敵はハワードと聞いて、エマの所属している組織は明龍とは違うという直感を得た。
「私たちはそれぞれ別々の目的をもって集まったが、エースの目的は一つだよ。
梶原ヘレナを救い、ハワードを倒す、と」
「────」
ナハトの心臓は血液を今も送り出す。
「無理だ」
それでもナハトの心は動けない。希望はしない。どうせ消えるだけだから。何度も何度も諦めなかった彼だから、砕かれた心は元には戻らない。
だから、今のナハトに必要なのは、ロジックだった。
ハワードに立ち向かうための論理。戦う理由だ。根性論、感情論では何も変わらない。
「無理? 本当にそう思うのか?」
「なんだと……」
「お前、諦めていないだろう? とんだ茶番だよ。ただ臭いだけだ」とエマは鼻をつまんだ。
「何を分かったようなことを」
「死にたいってのも嘘だね。本当は何にも諦めていない」
「…………てめえに! 何がわかるってんだよ! なあ!」
エマはため息をついた。これだから馬鹿は困ると零して、ナハトの眉間に指を差した。
「じゃあ、聞くが──
死にたいなら、どうして弾丸を使わない」
────。
怒りに震えていたナハトだったが、観念したように口を閉じた。唇は微かに動く。自身の様子がおかしい。こんなに自分は弱かっただろうか。これしきのことで感情が動くような、脆弱な精神だっただろうか。
ナハトは泣いていた。
「だって、これを使ったら」
子供のようだった。
友達と喧嘩して、親に叱られる幼児のような涙だった。
本当は──諦めたくなかった。認めたくなかった。諦めだけは悪い彼だから。
「もう……」
汚れた服装も相まって、哀れな物乞いを彷彿とさせる容姿。だけれど、流した大粒の涙は、朝焼けに照らされ、宝石のように輝いていた。
「ヘレナに使う分がなくなってしまうから……!」
そのために、手に入れたものだから。
結局のところ、ナハトは死にたくなどなかった。「死にたい」と同じくらい「生きたい」を叫んでいた。
「これだから、嘘つきは嫌いなんだ」とエマはナハトに背を向けた。
「行くぞ、梶原奈義が待っている」
二人は輝く太平洋を見つめていた。




