誕生日
白い空間で、ナハトは独りポツンと立っていた。
右も左も判別できない。ナハトは人心核アダムの心象世界にいた。
人体模倣研究所でヘレナに「幸せになるために生まれてきた」という祝福を受けた時、訪れた場所。ただ、現在ナハトはもう一度そこに連れ戻されたと理解できていなかった。
なぜなら、先ほどまで酷い悪夢を見ていたから。ゆっくり丁寧に、一つひとつ臓物を握りつぶされるような、最悪の感覚。
だからナハトは半ば安堵していた。やっと解放されたと──極大のストレスに頭がねじ切れる寸前で、彼の精神は安住の地へ導かれた。
しかし、ナハトは無垢な安らぎが全くの思い違いであることを知った。
ナハトは罪人として裁判所へ呼び出されたに過ぎなかった。
『基本プログラム<生存>が達成困難だと判別されました。基本プログラムの選び直しを実施します』
響いた声は聞き覚えのある──母のそれだった。人心核アダムの内部を管理するシステム<マザー>の宣言が、支配者のように木霊した。言葉の意味をナハトは理解できた。
そう、思い出したのだ。
──俺は、ハワードに……。
ナハトはここに来る前に、ハワード・フィッシャーからありったけの憎悪と殺意を注がれ、果てに死に絶えたのだった。身体は滅び、運命は途絶えた。
『人心核アダムに蓄積された人格の中から、基本プログラムが達成できる可能性の高い人格に、肉体を操作する権利を与え、主人格となって頂きます』
そこで疑問が残る。
<マザー>の言う肉体とは何か。
紀村ナハトだった身体は既に解体されたはずだ。かき集めたところで修復することなど全く不可能。ただの肉と血液と臓器としてばら撒かれたに違いない。
それなのに、人心核アダムは何を宿主とするのだろう。
今はただ、冷たい予感だけが北風のように走り抜ける。ナハトは<マザー>に尋ねた。
「なあ、俺は死んだのか?」
『ええ』
「じゃあ、それで終わりではないのか?」
『いえ、既に人心核アダムは新たな人格を取り込み、肉体との同期を済ませています』
「新たな……?」
『では、裁定を行います』<マザー>の声が一際大きく、この虚空を揺らした。殺風景な白い世界は、自由などなく、厳然としたルールに従い運営されている。その象徴たる<マザー>は、机上に揃った人格をチェスの駒のように配置換えする。
『オルガ・ブラウンの基本プログラムは<生前の自身の模倣>
紀村ナハトの基本プログラムは<生存>。
そして、アルバ・ニコライの基本プログラムは<ソフィア・ニコライの救済>』
「…………は?」
『オルガ・ブラウンはその模倣を梶原奈義に見破られているため、再度主人格に座するのは不可能』
「ちょっと待てよ!」
『続いて……』とナハトの叫びを無視する支配者。
『紀村ナハトは生存を断たれたが、本肉体で復活可能』
「おい……!」
『最後に、ソフィア・ニコライの魂が救われることはないと、アルバ・ニコライ本人の見解。したがって、これは達成困難』
「アルバがどうしたんだよ……!」
『以上より、本肉体の主人格を再び、紀村ナハトとする』
そして、白い空間は崩壊を始めた。元より何もない純白の景色に大きな亀裂が入る。ガラスが割れていくように、空間の欠片が宙を舞う。歪み、ねじれ、螺旋を描くように、ナハトの身体は流されてく。
そう、ここは夢。
初めから、現実ではない。
けれど、何でもありでは決してない。動かしようのないルールが一つ存在した。蓄えられた人格の中で、再び選ばれたこと。それはいい。ただ、何故、「彼」の名前が出てきたのか、全くわからない。
それでも、吹き飛ばされるナハトに確かに声が届いた。
『頼んだぞ……』
それは、全く「彼」らしくない弱々しい言葉。人に頼ることなど生きている内にできた試しがない癖に。こんな時だけ、救われたような言い方をしないで欲しかった。
それでもナハトは託されてしまった。「彼」の背中は遠く見えない。
ただ、手を振っているような、役目を終えたような──自由な姿だった。
まるで背中に羽でも生えているとでも言えばいいのか。
重荷から解放された魂は──こと人心核に取り込まれていながら、「人」のようであった。
そしてナハトの生存は続く。
◆
身体に這いずり回る痛みに蝕まれながら、浅い眠りを繰り返していた。
自分が誰かすら忘れてしまいそうな悪夢。その水面から頭を出し、必死に息継ぎをする。
そんな形で少年は目を覚ました。ただし、覚醒は地獄からの解放などではなく──
「……はぁ……はぁ!」
今、呼吸を思い出したかのように、深く速く酸素を取り込もうと、肺が暴れる。何日間閉じられていたか定かでない眼は、久しぶりに捉えた光に狼狽えているようだった。
「ここは……どこだ……?」
意識は不連続。どこかの国では、睡眠を死に喩えた。今なら理解できる。彼はまさに先ほどまで死んでいたのだ。
そこはベッドだった。身体は夥しい量の包帯で覆われ、手首には管が通してあった。頭と胸には電極が張り付けられ、いつ死んでも不思議でないと言わんばかりに病人然とした出で立ち。
天井の照明が眩しい。辛うじて身体は動く。彼は起き上がろうと腹筋に力を入れた。
走る激痛。それも想定内だ。これだけの大怪我──だろうか──を負ったのだ。それでも動かなければならない。今はただ情報が足りない。
「俺は……」
紀村ナハト。という単語が思い浮かんだ。おそらくそれは自身の名前だ。記憶喪失ではない。梶原ヘレナ、人心核アダム。怨敵、ハワード。色々と思い出すことができる。
ただ、紀村ナハトが自分の名前であること──その一点に違和感があった。
分からない。ある意味で、彼が今最も知りたいことは、自分は誰なのか。誰かと会って、紀村ナハトと呼ばれたかったのだ。
裸足のまま、床に足をつけた。身体は痛いが、立てないことはない。月の重力が幸いし、重症のまま活動できそうだった。
「……あ」
ただ、見てしまった。立ち上がった時、目線の先にあったのは、窓だった。強化プラスチックが嵌め込まれた窓枠の外は、月面都市が広がってる。
彼にとって、それは重要でなかった。目線のフォーカスは手前に合う。窓に映るその姿。
「アルバ……、ニコライ……?」
立ってみると、いつもより目線が少し高い。姿勢が良くなった。ただ、その違和感が初めて言葉になる。この身体は、18年間連れ添った肉体ではない。
他人から掠め取ったもの。
咄嗟に顔を手で覆った。指の間から、窓に映る少年を見る。全身が震えていた。
──取り返しのつかないことを…………。
そこで、耳に残る夢の中で聞いた言葉。
『頼んだぞ』
腹の底から胃液が登っていくのが分かった。口には酸味のある不快感が広がった。
「俺は……」
ガチガチと歯の根が合わない。寒くもないのに震える身体は制御不能だった。
こんなに恐ろしいことはない。あの時、確かに紀村ナハトは死んだのだ。
なのに──。
「殺してくれとまで、願ったのに……」
恥知らずにもほどがある。
あそこまでの醜態を晒して、まんまと生き延びてしまった。
「ぁぁあぁあああ」
ナハトに肉体を譲った少年は、どんな思いで託したのか。人生は続く。それが今はただただ残酷で──。
ナハトはもはや立っていられなかった。地面に頭を打ち付けて、子供のように泣きじゃくった。
「ぅぅあああああああああぁぁぁああああ」
この声も他人のもの。その涙も他人のもの。
この身体はナハトのモノではないのだから。
では、どうして今生きている?
死にたいのではなかったか?
他人の身体を奪ってまで生き残ってしまった少年は、病室で独り、獣のように慟哭した。
紀村ナハトの生存は続く。




