Don't Worry Be Happy
月面防衛戦線とは何か、その真相に迫る。そう銘打たれた記事がネットワークに流れていた。五年前に起きた<静かの海戦争>の振り返りから始まり、世界を震撼させる極悪集団の恐ろしさを、大袈裟な脚色で記している。
まず一つの疑問は、首謀者は一体誰かなのか。
かつての戦争では、首謀者は国連に捕まり処刑された。彼はサイード・ラディンという旧アラブ系の男性だった。しかし、今となってはその名前を誰も覚えていない。
サイードが電気椅子で死んだ後、月面防衛戦線の真のリーダーを名乗る捕虜が次々と現れた。国連は彼らを処刑した。するとまた捉えた戦線メンバーがリーダーを名乗るいたちごっこ。そして、国連は一人残さずテロリストを殺した。
故にサイードという名前にはもはや意味がない。
月面防衛戦線は国連に敗れ、その大勢が処刑されたことだけが、大衆の認識だ。
『で、結局のところ、月面防衛戦線ってどんな集まりなの?』
ネットワークに流れた一つのコメント。
『月の利権を認めさせたいんだろ』
『もう奴らは国連より強いんなら、国連も言い分を聞いたらいいのに』
『というか、今のリーダーが女の子ってマジ?』
と次々にコメントが続いていく。
ニュース番組では悪逆無道のテロの数々に憤るコメンテーターと、破壊された衛星<マルス>で死亡した遺族が泣く映像が流れていた。
衛星の破壊。人体模倣研究所への襲撃。国連宙軍ロサンゼルス基地への攻撃。そして──第二次宇宙戦争。
国連の敗北は放送こそされなかったが、有識者は気づいていた。五年前ほどの大々的な勝利宣言がない。痛み分けと表現した政治家もいたが、結局は負けを認めたくないのだ。
苛烈な戦火に燃える宇宙。多くの悲しみを生み出して、月面防衛戦線に大義はあるのか。そんなことをしては、月の支持すら得られないのではないか。
提示した開戦時期を無視した行動。
そこで、一つのコメントが発信された。
『まるで悪者を演じてるみたい』
その発言は誰からのレスポンスもなく、電子の海に沈んでいく。
未だ記事タイトルの疑問に答えることができない。
────月面防衛戦線とは何か。
◆
ハワード・フィッシャーにとって、月面防衛戦線とは、実験場であり、資金源だった。
彼の計画には、クローン技術が不可欠だった。国連は倫理的な問題から、ヒト・クローン技術を完全封鎖している。したがって、ハワードは国連の力が及ばない場所でクローン技術の研究を進める必要があった。
それがハワードにとっての月面防衛戦線。
特段、月に思い入れはないし、そんな狭いスケールで世界を見ていない。むしろ月と地球の争いの歴史さえ、包括的に救うつもりでいる。
「月」ではなく、「全人類」の悲しみが男の敵なのだから。
「狂信者狩りは大方終わりだ。ご苦労様、<ドウターズ>」
ハワードは予め用意させた服に着替えた。身体のラインに張り付くような、簡易的な宇宙服。これから脱出ポッドで逃げ出すための準備である。
そこでハワードの端末に通信が入った。
「ヘレナか、先ほどはありがとう。死んでしまうかと思ったよ」
『…………そちらに向かう』
「どうかしたのかい?」
『紀村ナハトを殺す』
「……ああ、なるほど。良いだろう。切るよ。通信しているということは<神の代弁者>を使っていないのだろう。今狙われたら大変だ」
『……ありがとう、ハワード』
そこで、プツリと通信が途絶えた。ハワードは微笑んだ。人心核イヴの内側で起きた変化を祝福していた。
「面白い人形劇だ。オルガ主任」
ハワードは歩き出した。転がるフェンの死体を跨いで、勾留部屋を後にした。
「ここもハズレのようだし、そろそろ出ようか」
◆
『さあ、始まりました! ミッドナイトミュージック、パーソナリティーは私、○○○○があなたの夜を音楽で彩ります。辛いことも悲しむことも、一時忘れて、メロディーに身を委ねる時間がやって来ましたよ。
端末のモニターは切ったかい? 参考書は閉じるんだ受験生。休憩したほうが捗るぜ。
さて、まずはお便りから……。ラジオネーム○○○さんからのお便りだ。
いつも楽しく聞いています。はい、ありがとー。ええーっと……。
今、世界は戦争が起きています。宇宙には私の父がいて、デブリ回収の仕事をしています。父のことを思うととても心配です。
早く戦争がなくなればいいと思います。
みんな同じ気持ちなはずです。
こんな私の気持ちを癒す曲を流してください。
とのお便りでしたー。わかる! わかるよ!
心配だよね。でもね、あえてぼくはこの話題を軽く捉えたいと思っているんだ。心配し過ぎても、世界が変わらないなら、明るい気持ちだけは手放してはいけないからね。
それでもぼくができることは君に共感することだけだ。
悲しみを共有できて、なおかつ現実を楽観視できる、そんな曲。
お父さんにも届くといいね。
では、お聞き下さい。
Bobby McFerrinで
Don't Worry Be Happy』
◆
ナハトは脱出ポッドの準備室にたどり着いた。
必死に肺に酸素を送り込むも、全く足りない。約一キロメートルを全速力で走り抜けた。普段運動をしない身体が悲鳴をあげていた。
それでも、そうしなければとナハトの基本プログラムが絶叫を繰り返す。
なにを犠牲にしてでも生き延びろ。今はそれだけを考えろ。もはや獣のような有り様だ。人心核アダムの持つ能力など使う暇もなく、知性の欠片もない行動。
ただそれでも、なにもかも失うよりはマシだ。
生きてさえいれば、何度でも立ち上がる。
ナハトは大急ぎで脱出ポッドの状態を確認した。宇宙服が収納されているクローゼットを開いて、それに手をかけた時、部屋の扉が開いた。
その時、彼の頭に稲妻が走った。
「やあ、奇遇だな。オルガ主任」
知っている顔。忘れもしないその男。やり直せればと何度も考えた最悪の日、その発端。撃ち抜かれた脚の傷はまだ跡が残っている。第一声からクローンではないと、本物だと、ナハトの身体が理解した。
「ハワード……」
動機が早くなる。前触れもなく現れた怨敵に、ナハトは一瞬思考が止まったが、次に取る行動は、驚くほど滑らかだった。
──これはチャンスだ。
ナハトはハワードに飛びかかった。その首めがけて一直線に手を伸ばす。ここで殺してしまえば話は別だ。あれだけ探した標的が目の前にいる。クローンを寄せ集めて国連に殺させる作戦は、失敗に終わったが、今こいつを殺せばチャラになる。
血気迫るナハトの奇襲に、男は──。
「危ないな」
弾丸で応じた。渇いた銃声が狭い部屋に反響した。
──え?
膝から落ちるナハト。身体からは瞬時に力が抜け、頭を床にぶつけた。腹からはじんわりと赤い液体が流れ出ていた。
「いきなり何をする。全く、何を考えているんだ。」
涼しげな表情のまま男はナハトを見下ろした。
激痛を無視して立ち上がろうとしたが、ハワードはもう一発、ナハトの太ももに弾丸を浴びせた。
「ああああ────!!!」
「君がこそこそ動いていたことは、知っているよ。諦められないんだね」
「くそっ! てめぇ!」
ハワードはしゃがんで、ナハトの髪を鷲掴みにして無理やり目を合わせた。苦痛に歯噛みするナハトを、ハワードは汚物を見るように睨んだ。
「本当に人間みたいだ。気持ち悪い」
ハワードはナハトの首を片手で掴んで持ち上げた。
ナハトも必死の抵抗を試みるも身体に力が入らない。
「今から、ヘレナが君を殺しに来るそうだ。それまでにぼくも話しておきたいことがある」
「誰が……てめぇと話なんて……ぐっ」
「君はこれから死ぬ。だが、二度と人心核アダムが立ち上がらないよう、君には納得して死んでもらいたい。きっとヘレナは怒りのままに君を殺すだろう。それでは困る。死を受け入れてもらわなければ……」
「何を言って……」
ハワードはナハトを壁に放り投げた。背中をぶつけたあと、腹から落ちた。短い悲鳴が意図せず零れる。
「ぼくの計画を話そうか」
◆
まず、初めに──ぼくは人の心が読める体質なんだ。それも、悲しみや苦しみ、敵意と殺意といった負の感情のみ読み取ることができる。正直その原因はわからない。なぜ、人の心が読めるのか、なぜ半分の感情しか理解できないのか──ただ、ぼくはこの体質でわかったことがある。
人類は孤独に喘いでいる。
どんなに大勢の仲間がいても、どれだけ高い地位に就いても、拭いきれない根元的な孤独がある。それこそ、同一の人間でなければ、完璧に人の感情は理解できない。
どんなに言葉を尽くしても、どれだけ肌で触れあっても、愛し合った二人は永遠に理解し合うことがない世界。
この齟齬のせいで、些細な不和で、多くの血が流れてきたのが人の歴史だ。自身は理解されていないという不安が、本質的に味方がいないという感覚が、多くの悲劇を生んできた。
だから──これはぼくの運命だと考えた。
人の孤独を取り除く。ここから先の新時代、完璧に人類を理解してくれる神がいたらどれだけ救われるだろうか。
人はね、隣で自身を理解してくれる誰ががいるだけで生きていけるのさ。
そう、始めに考えたことは、ぼく自身が救世主になることだった。
傲慢だけれど、本気だった。
ぼくは人の孤独を理解できるけど、問題はぼくがこの世界に一人しかいなかったこと。
世界人口は今や110億人に昇る。その全ての孤独を癒すためにはどうすればいい? 簡単だ。
全人類一人ひとりに、「理解者」がいればいいのさ。
わかる、そうだね。理解できる。そう嘘偽りなく言える存在がパーソナルに側にいるそんな未来。想像できるかな。
今は、人体模倣ロボットで心の穴を生める人間もいるだろうが、それはお払い箱になる。
本当の理解者が側にいれば、それ以上のことはない。
だから、計画の始まりは「ハワード・フィッシャー」の量産化だ。
まず試したことは、ぼくのクローンを産み出すことさ。マイク・ドノヴァンを初めとする、君も知っている彼らだ。
今では、彼らはぼくの身代わりだけれど、当初は計画の本筋にあったんだ。
つまり、ぼくのクローンによる量産化はうまくいかなかった。端的に言うと、クローンに読心能力は宿らなかったんだ。
世間的にクローン技術は禁じられていたから、ぼくの計画はそこで一旦終わりを迎えた。業腹だったけれどね。
しかし、次に転機が訪れた。
ぼくの上司、オルガ・ブラウンは秘密裏に人工感情<人心核>を作り出していた。
ぼくはそれに気付き、協力を申し出た。
オルガ主任はオルガ主任で、人心核を使ってしたいことがあったようだけれど、ぼくには関係なかった。人心核が完成し次第、それを奪うと決めていた。ぼくには人心核が必要だったから。
なにせ、あれは宿主の脳をそのままコピーする。
クローンでは、先天的な能力を再現できても、環境依存の後発的な能力を再現できないことがわかったぼくは、人心核を使って自分自身をコピーしようと考えた。
人心核はプロトタイプのアダム、それとより収容人格の容量が増えた完成版イヴが産み出され、ぼくはイヴを頂くことを決心した。
肝心なのは人心核の内部のルール。マザーや基本プログラムを作ったぼくは、その文法をデータ化することを目的とした。
狂信者たちもアダムを手に入れたとき、そのルールを解明して、<母殺し>を産み出したが、それは今は余計かな。
ともかく、ぼくはオルガ主任から人心核を奪い、自分で取り込み、クローンを使ってぼくという読心能力者を量産するつもりだった。
これがぼくの元々の計画さ。人類がパーソナルな理解者を隣におく世界の第一歩。
ただし、予想外のことが起きた。
ぼくは月面防衛戦線で、人心核イヴの調整とクローン技術のブラッシュアップを計っていた。
そのとき、<静かの海戦争>が起きた。
国連により月面防衛戦線は崩壊する。それはいい。ぼくにとっては一時の宿り木のようなものだ。研究を進めるためには、また別の母体を探せばいい。
ただ、最も大きな誤算は、そこで彼女に出会ってしまったことだ。
そう、完璧な読心能力者、梶原奈義だ。
ぼくは戦場で彼女と出会ったとき、衝撃を受けた。
彼女はぼくの完全な上位互換だった。全ての感情を読み取れる。それはぼくでは到達できないもう一段階上の「救い」だった。
わかるかい? ぼくの計画はこのとき、大幅な修正を余儀なくされた。
新世界における人類の理解者は彼女以外にありえない。ぼくのような出来損ないではなく、梶原奈義こそが女神にふさわしい。
梶原奈義。クローン技術。人心核。
その三つが揃って始めて、人類理解者の量産化という大目的が達成されるんだ。
この世界から孤独を根絶する。人体模倣ロボットでも、出来損ないの理解者であるぼくでもない、梶原奈義によって人類は救われる。
この細やかな救いに、君は共感してくれるかな?
さあ、どうだ?
この理想のために、死んでくれ。どうせ人心核は人ではないのだから、君は新世界の恩恵には預かれない。梶原奈義に理解されないのだから、君の孤独は癒せない。
通行許可証がないんだよ。
だから、ここで死んでくれ。
頼むよ。これ以上邪魔されたくないんだよ。
死にます、と首を縦に振ってくれるだけでいいんだ。
◆
熱弁するハワードを前に、地面に伏せるナハト。一連の話を聞いて、感じたことを思うままに──偽りなく、ナハトは応えた。
「うるせぇ、死ね。糞食らえだ」
そして、ハワードは激怒した。




