道具の死と人間の生
モニタールームは端末の数々に照らされ、煌々としていた。その中の一つに〈ハービィ〉という機体の性能が映し出されている。
ルイスは、昨夜オルガに聞かされたことを思い出した。
オルガ・ブラウンが危惧する宇宙戦争への布石がその機体である。
けれど、彼は梶原奈義を前にその構想をあっさりと翻した。
それほどに彼女の力は鮮烈で、規格外で――底知れないものだと、オルガは語った。
さらにその一端は超自然的な力に支えられているとまで言及し、ルイスの頭を悩ませていた。
「どう……考えればいいのかしら」
ルイスの頭の中では様々な問題が絡み合っていた。
そんな時、ルイスは必ず問題の始まりはなにか考える。根源へと思考を巡らせることで、解決への糸口となることがある。
――始まりは……。
モニター室でルイスは独り。ゆっくりと目を閉じた。
○
五年前、ルイスは入院していた上司が危篤を超えたと聞いて、慌てて病室に駆け付けた。
廊下は走ってはいけない。そんな当たり前をこの期に応じても守る生真面目さ。それでも速足に歩く彼女の額には汗がにじむ。
廊下の最も奥まった一人部屋にたどり着いた彼女は暇を置かず、ドアを開けた。
「オルガ主任!」
そこには、すでにベッドの傍らに座っていたハワードがいた。
「静かにしてほしい。主任は眠ってらっしゃる」
「ハワード……」
そこにいた彼は、研究員の白い制服を嫌味なき純白さで身にまとい、差し込む光に紛れるように、ベッドに伏せる老人を見ていた。
白いカーテンが風に遊ばれ、ハワードの身体にまとわりついた。度を過ぎた清潔さを連想させる風貌は、どこか天の使いを思わせて――不吉さすら帯びていた。
普段からこんな男だっただろうか。
「ぼくが来たときには、既に眠っていたよ」
語る言葉がいまいち頭に入らない。それほどに目の前の男は、この殺菌消毒された空間が似合っていた。
「聞いてる?」という問いかけに、ふっと我に返るルイス。ようやく口を聞く。
「ご家族は?」
「既に帰られた。一時は重体だったのだ。本来は面会をさせたくない心境だろう。ぼくと君が主任の部屋に入れたのは、彼らの心遣いのためだ」
「そう……」
ルイスは一歩踏み出し、眠るオルガの顔を覗き込んだ。
「少し痩せたかしら。でも……本当に寝ているのね。よかったわ」
寝息は聞こえづらいが、胸部がゆっくりとわずかに上下しているのが分かった。
「……本当によかった」
漏らす言葉に涙が伴う。
仕事のオルガは凄まじかった。あらゆる問題を予測し、既に解決策を部下に指示している。他のグループが躓く課題をあたかも初めからなかったかのように障害を越えていく手腕とセンス。
彼はいつも誰もが諦める逆境を鼻で笑った。
その怪傑が病に負けるなど、ルイスには想像がつかなかった。その頭脳をどこで沸いたかもわからない理不尽になんぞに捧げてやる必要はないと、怒りに似た心配を抱いていた。
だから、オルガが病の峠を超えたことがなにより――。
「これから治療で体力を取り戻せたら6回に分けて手術を行い、様子をみて退院。医者はそう言っていたらしい」
ハワードは無表情にそう言った。先はまだ長い。けれど胸を撫でおろすルイスは、目の前の命が続いてくれるシナリオがあることが救いに感じた。
「ハワード。主席研究員である私とあなた、二人でオルガさんが戻るまでグループを支えましょう。すでに仕事は軌道に乗っているわ」
「ええ」と微笑んだハワード。
この病室から始めよう。天才科学者、オルガ・ブラウンの復活を――。
○
それからヒューマテクニカ社新事業開拓室の歯車は突然狂いはじめた。
結論から言うと、ルイスは何もわからないままかつての同僚、部下、そして上司を根こそぎ失うことになった。
あれはルイスがシンガポールへの出張を終え、本国に戻る飛行機にやっと乗ったときのメールが始まりだった。台風の直撃で空の便が滞り、帰国が一日遅れていた。
しかし、現地でも仕事はできる。端末を開いて納期の近い案件の進捗を管理する。バイオウェアの臨床実験の結果を眺め、部下の考察にコメントを書き終えたころ、「そういえば」と些事を思い出した。
――昨日締め切りのレポートが届いていないわ。
そこで初めて彼女は仕事用のメールをチェックした。そこで異変に気が付いた。
取引先や共同研究先からのメールは滞りなく届いている。
ところが、自分の研究グループからの連絡が一切ない。彼女は部下の顔を思い浮かべたが、だれもが優秀でそんな不能、不義理を働く人材には思えなかった。
なにか事情がある――。
彼女は帰国後、仕事場に戻ると驚愕した。
巨大なオフィスには部下の持ち物どころか、人がいた形跡すら失せ、実験室や作業室にはあるべき装置や分析機器がなくなっていた。建物の三階分を占領していた彼女の部署は、ただの空虚と化していた。まるで初めから彼女の仕事場などなかったかのように、広がる伽藍洞。震える唇は、なにも言葉を紡げない。
――わけがわからない。
こうなる道理がどこにある。ルイスはなにかのいたずら以外に現状を説明する案が思い浮かばなかった。
焦りは振り切れ、呼吸が止まりそうな瞬間、彼女の端末が鳴った。
メールの差出人はオルガ・ブラウンだった。
内容は端的。端的すぎて全貌がまるで見えなかった。
『話がある』
○
病院の廊下を進むルイスはもはや、走っていた。何がなんだかわからない。脳内の疑問符の数に吐き気がしてきた。
謎を取り除ける人物は一人だけ。ルイスは病室のドアを勢いよく開けた。
「オルガ主任!!」
そこには、ベッドから上体を起こし、窓を眺めるオルガがいた。
「ああ……キャルヴィンか」
「……はぁ……はぁ……あれは、なに。どうして、なんで」
「ゆっくり、要領よく話しなさい。大切な話をするときほど、リラックスして」
「そんなこと……言ってる場合じゃ……!」そこで、大きく息を吸ったルイス。
「どうしてオフィスに誰もいない、それどころかなにもなくなっているのですか! 新事業開拓室は……どうして消えたのですか?!」
「なぜ……か。簡単だ。私が指示したからだ。もうあの研究は終わりだ」
「そんなのおかしい! なんの説明にもなってない!」
ルイスの取り乱し方はまるでヒステリーだ。けれど、この場で正しいことを言っているのは自分だと、ルイスは確信をもって言える。彼女はなにも納得していない。
「新事業開拓室のもっとも期待された仕事は、人間の精神をコンピューターへ規格化すること。それによって人類は学習知識を電子化し、人材育成の大幅なコストカットにつながる。新しい時代へのテクノロジーの開発だった」
「ええ、そう! だから私たちはこれまで……」
人体に適合する新型コンピューターの開発、それを扱うシステムの創造。新たな材料の模索。これまで多くの資源と時間を使って、ようやく臨床実験までたどり着いたプロジェクト。
「無駄だ。すべて失敗に終わる」
「――え」
――今、なんて。
「精神の電子化。それは人間の内面を機械に模倣させるという意味で、これもまた一つのヒューマンミメティクスなのだろう。けれど、それは終わりだ。――正確には」
オルガは一息おいて。
「失敗に終わる、ではなく失敗に終わっただが……」
と言った。
意味がわからない。謎が謎のまま、疑問はより強固になり、彼女の精神を苛んだ。
「君には直接伝えようと思ったのだ。――今日をもってヒューマテクニカ社新事業開拓室は解散する」
その時のオルガの顔は、いかめしく歪み、なにか痛みに耐えるようだった。
致命的な決意が老人の小さな肩を震わせていた。
病か、研究への限界か。なにがこの老人を阻む壁なのか。どうしてその結論に至ったか。その内心は。オルガはなにと戦っているのか――ルイスにはなにひとつわからなかった。
そうして「面会時間の終了」だとかなんとか言う医者がルイスをオルガから引き離し、彼女はうつろな瞳で病院を後にした。
これが五年前のルイス・キャルヴィンが経験した喪失の全容である。
◆
それから彼女はオルガがどうなったか五年もの間知らなかった。知ろうともしなかった。
病気で死んだのかもしれない。もう会えないかもしれない。
いずれにせよ、拒絶された彼女にできることなかった。
――本当に?
ただただ自問自答を続けた彼女の内心から、一つの後悔を自覚した。
あのとき、チームの解散を宣言されたとき、オルガの元を離れずに何が何でもしがみつけばよかった。
オルガが多くの犠牲を払いながらなにかを成そうとするなら、その隣でオルガを支える自分であろうと、どうしてあの時思えなかったのか。
あの場にいた二人はどうしたって分かり合えてなかった。ルイスはオルガの気持ちが分からなかった。オルガもきっとルイスの気持ちが分からなかった。
――けれど、それが隣にいちゃいけない理由にならないはず。
そんな思いが今のルイスにはあった。
目を開ける。今、自分が人体模倣研究所第三十三研究棟にいることを思い出した。
少なくともわかっていることは、オルガ・ブラウンはなにも諦めてはいないということだ。五年前の新事業開拓室を犠牲にしても成し遂げたいことがあるのだ。
――ハワード・フィッシャー。
彼女は同じく五年前別れた同僚の顔を思い出した。白く、白く、潔白にして純白の男。
オルガ・ブラウンは彼を止めたいのだろう。
それが彼女が下した今の結論。当然、ルイスのできることならなんでも手伝うつもりだ。それでこそ、あの日の後悔を払拭できるというものだ。
しかし――。
モニターを眺める彼女の瞳を鋭い。そこに青白く映るのは戦闘機の輪郭だ。
「人間の思考が、そのまま、機体の動きに連動する機構ねえ」
その機体には、製造モデル番号とは別に〈ハービィ〉という通称が与えられている。
〈ハービィ〉はパイロットである人間の思考を読み取り、パイロットの思い描く動きをいち早く、機体の駆動部に伝える機構が搭載されていた。
それを開発したのはオルガ・ブラウンがCEOを務める、ヒューマテクニカ社だ。
人体模倣ロボット事業で莫大な利益を上げている。
「オルガさんは……これに六分儀君を乗せると言っていたわね」
オルガへの協力は惜しまないと決心した矢先、ハービィと六分儀学という組み合わせに、嫌な予感がしていた。
そこで、モニタールームの扉を小さくたたく音がした。キャルヴィンは、目を押えながら立ち上がり、扉横の画面を覗く。そこには梶原奈義が映っていた。
「すいません。今日サボってしまった分の資料と試験記録をもらいにきました」
「あら、メールで送るのに……。それより体調はどう? 明日は演習に参加できそう?」
「はい」
ルイスは奈義を招き入れた。椅子に座らせ、向かい会う。
施設内の奈義の立場は研究補助員であり、学府を持たない人物を研究員として採用した場合の肩書だ。
研究グループのリーダーであるルイスと、研究員としての奈義は、上司と部下の関係だ。
しかし、実際にルイスの目に映る少女には、部下に対する要求とは別の願いがあった。
どうか、健やかに育ってほしい。ルイスはこの年端もいかないテストパイロットに背負わせているものの大きさに罪悪感を覚えているかもしれない。
「質問があって来ました」奈義は顔を上げた。
「なに?」
「昨日、オルガという人に話かけられました。その人のことが知りたくて」
「そう……。どんな話をされたの?」
「私のファンになったって」
「そう……ファンね……――は?」
――また、誤解されそうな表現を選んだわね……。
皺の寄る眉間をさするルイス。どうして、あの人は言葉選びが下手なのだろう。
そんなフレーズではなく素直に言ったらいいのに――と思った矢先、疑問がよぎった。では、素直に――どういえばいいのだろうか。
――これから来る戦争に君の力が必要になる、なんて。
その要求を正直に話すほうがよっぽどナンセンスだ。
梶原奈義はまだ少女だ。
力持つ者の自覚、定め、運命を振りかざす論理を彼女にぶつけることはルイスにはできなかった。
だからオルガの使った「ファン」という言葉は、なるほどナシではない。
けれど、いずれにしても奈義に託すには重い内容だ。
ルイスの本音は、オルガの協力をしたい気持ちと同じ比重で、梶原奈義と六分儀学に幸せな未来をつかんでほしかった。
前を向くと、奈義は表情を変えていた。
「あら、どうして泣きそうになっているの? あなた」
◆
奈義はきっと――ルイスの内側から感じた温かさを一生忘れない。
奈義の読心能力から読み取れるのは、簡単な文章と単語、それと感情の明暗や指向性だけだ。
読み取れたとしても奈義に理解できない内容であったら、そこから推理するしかない。
奈義はルイスの心に渦巻く葛藤、悩みの濁流の中からとぎれとぎれに言葉を拾った。
『ハワード・フィッシャー。ハービィ。オルガ。ヒューマテクニカ。五年前。新たに来る戦争。悔しい。悲しい。うれしい。もっとオルガの力になりたい』
全てを奈義が理解することは不可能に近い。けれども拾った内容の中に『梶原奈義と六分儀学に幸あれ』という祝福が述べられていたこと。それだけで、彼女は涙した。
奈義は知っていた。
人間はただ、そう思ってもらえる人がいるだけで、そう願ってくれる誰かがいるだけで、生きていけるのだと。
目の前の女性が、奈義をそう思ってくれている事実だけで、奈義は戦える。
なんでもないです、と涙を拭いた。
「博士、一つ聞いてもいいですか?」
「ええ」
「オルガさんは私にどうしてほしいんですか?」
「……それは」
「私の力に期待しているというのは知っています。だけど私は将来のことはなにもまだ決めていません」
そう、なにも決まっていない。奈義の進路など奈義自身ですらまだ答えを出せていないのだ。学生であり、勤め人でもある奈義は、何にでもなれた。
通信教育を卒業後、大学に進学する。学生を終えて、本格的に人体模倣研究所のテストパイロットのみに絞る。操縦技術を生かして軍隊に入隊するか。どれも自分には適正があるとも思えたし、それと同時に困難な道であることも想像できた。
いずれにしても、彼女はまだ選べない。
「オルガさんが人体模倣研究所に来たわけは、ヒューマテクニカ社の新しい戦闘機の試験運転に来たの。それで、最適なテストパイロットを探しているらしいわ」
「私はそれに乗ればいいんですか?」
「まだ、分からない――だけど」
ルイスはモニターに描かれた機体を見た。
「いずれにしてもオルガさんは、あなたを戦士として成長させようとしている」
奈義は目を伏せがちに語るルイスから『六分儀学』という単語をくみ取った。オルガの保健室でのささやきは――つまり、六分儀学、彼に関することなのだ。
「私の成長? どうやってですか?」
「それは――」
ルイスは言い淀んでから、口で言葉を紡いだ。
「わからないわ」『貴女の六分儀くんへの恋心を成就させること』
奈義はルイスの嘘を聞き逃さなかった。オルガ・ブラウンの目的はそこに尽きる。これで保健室でのささやきの裏が取れた。そう、あの時のオルガの誘いは――言葉通りの意味だった。
『一度でいい。六分儀学と戦い、わざと負けてあげなさい。そうすれば、彼は君を見てくれるはずだ』
そこで納得いかないことがある。なぜ恋の成就が戦士としての成長なのか。
奈義はルイスに気取られないように疑問の答えを探す。
――それで訓練に身が入らないのはいけない、とかそんな意味だろうか。
あの老人がそんな少女漫画のような発想をするだろうか。違和感はぬぐえない。
「力になれなくてごめんなさい。明日は演習に参加してね」そう言って立ち上がり、奈義が取りに来たという今日の演習の資料ファイルを手に取ろうとしたとき、ルイスは一瞬動きを止めた。
その後、近くの紙を千切り、素早くなにかをメモした。その紙を資料に忍ばせて、ルイスは奈義にファイルを渡した。
「今の紙にはおまじないを書いたから、困ったときは思い出して」
「……はい? わ、わかりました」
その行為の意味は奈義にはわからない。けれどルイスの内心を読めた限り『ハービィ、演習、仕組まれている』と聞こえた。
「今日はありがとうございました」
「はい、さようなら」
それを極力忘れないようにと奈義は心に決め、部屋を出ようとしたとき、
「貴方に一つだけ伝えたいこと、あるの」
ルイスは独白めいた問を投げた。
「道具と人の違いってどこにあるかわかる?」
「……道具と人?」
突飛な疑問に対して、言葉をなぞることしかできない奈義。
「そう、道具と人。この世界は……人体模倣だとか言って機械が人の真似をよくするようになった。それもとても上手に。娯楽に教育、労働やスポーツ。あらゆる場面で人型ロボットに出番がある。それを恋人や友人に見立てる人もいるくらい……あなたの年ならもう知っていると思うけど、ポルノ産業にだって人体模倣が必要とされている。だから、道具と人の違いについて重要なことを忘れがちになるの」
――奈義はルイスの心を読み次に来る言葉を知っていた。それは……。
「道具には意味があり、人には意味がない。意味には死が付きまとう」
「意味?」
言葉だけは捉えることができたが、その考え方を知らなかったため、奈義は単純に首をかしげる。
「道具は生まれ、作られる意味が明確でしょう? 用途がはっきりしていれば、道具は迷わずそれに使われる。用途を遂行したら別の用途に使われるか、捨てられる。道具には必ず生まれてくる意味がある。誰かに必要とされている」
一拍おいてルイスは続けた。
「けど、人間はどう? 私たち人間に生まれてくる意味はあるかしら? 答えはノーよ。人間の生に意味はない。たまに自分の使命を定めている人がいるでしょう? あんなのは錯覚よ。その人はもっといろんなことができた。ただ一つを選んだだけ。要するに、私たちはなにをするにも意味がなく、ただそれをしてるだけ。目的も手段もないのよ」
「博士……よくわからないです」
「難しかったかしら……。もっと簡単に言うと、道具には果たすべき目的のための手段という役割がある。でも私たち人間はない。その違いはなんだか、悪いことのように感じるけど――私はそんなことないと思うの。
道具は目的を達成できなかったら、意味を失う。その時道具は死ぬの。意味を失うと死んでしまうのよ。
一方で、人間に目的はない。ただ生きるの。使命も運命も必要ない。だから死なないのよ。わかるかしら?
道具は意味を持つから、意味を失うと死んでしまう。人は意味をはじめから持たないから、死ぬこともない。
人体模倣研究所、人を真似するロボットを作る最前線で私はそう考えるようになったのよ」
――だから、とルイスは奈義を見つめた。
「梶原奈義さん、あなたは道具じゃない。果たすべき役割なんてない。あなたはあなたがしたいことをするべきよ。そうすれば、あなたの心が死ぬことは決してないわ」