決戦の前に(4)
ガンガンと鳴りやまない絶叫が響いている。
許さない、終われない、仕返ししてやる。99人分の幼い怒りが燃え上がる。常人なら気が狂うような業火のごとき怨嗟が渦を巻く。仲間を傷つけたことが何より許容できない。刺し違える覚悟──そんな明確な指針などなく、ただ自身の火傷に無頓着に、自らをくべながら延焼を続ける。
悲しいとヘレナは思った。
なぜだろう、涙が出る。きっとこの夢から覚めた時、頬は濡れているだろう。しかし、覚醒は約束されていない。なぜならここがヘレナにとっての古巣だからだ。
自身のルーツは確かに悲しみ溢れる月面であったけれど、ここまでの怒りに膨れ上がるものだろうか。
ヘレナたちに施された教育は仲間を愛し、絆を結ぶことだったはずだ。少なくともハワードは、そう語っていた。
だから、ヘレナは怒号の賛歌に混ざることができなかった。共感ができなかった。
「……みんなは何に怒っているの!? それは誰のために燃やす怒りなの!? どうして強くなりたいの!?
それは一体誰の怒りなの!?」
炎は何も応えない。99人分の狂気は、「はやくこちらに来て」とヘレナを囃し立てるばかりだ。
間違いなくあの頃の月は地獄だったけれど、絆の戦士たちは皆、仲間たちのために戦っていた。決して、月のためではなかった。そこまでの大きな責任感を持つまでになった背景を知らない。
『ヘレナは梶原奈義と出会ったから分からない』
──!
そんな幻聴だけを残して、炎は消えた。それはあたかも──突き放された子供が拗ねるようだった。
◆
炎が消えた後に残ったのは何もない空間だった。
この白い空間を、何に喩えたらいいのだろう──とヘレナは考える。
光がないのに全て見える。熱がないのに凍らず動ける。物理法則を超えた場所、というよりは──そんなもの必要としない場所と言った方が正しい気がした。
ここは天国なのかもしれない。そんな空想を抱くには十分な奇々怪々。そしてそれに違和感を抱かない自身を認識した。
──要するに、ここは死後の世界。私は死んじゃったのかな。
おそらくその理解で差し支えないはずだ。なにせ身体は既にヘレナ自身のものではない。この空間に大気のように流れるうねりが、意志が、梶原ヘレナという身体を操縦している。
その意志たちは、99人分の重量を有していて、とてもヘレナ一人では動かせない。白い空間はまさしく、ヘレナにとっての牢獄だった。
自身もその99人の一部となっている実感がある。いずれ意志もなくなり、彼ら彼女らのように様々なことが思い出せなくなる。
ここは、人心核イヴの心象領域の最下層。マザーが管理する世界の片隅だ。
「待ってね、思い出そう。私は何をしていたんだっけ?」
誰もいないのをいいことに、ヘレナは大声で思考を表現する。
「確か、人体模倣研究所で攻撃に遭ってから……国連軍に保護されて……それで」
ヘレナは眉間に指を押し付け、思い出す。
「確か……」
懐かしく、哀れな男の顔がフラッシュバックした。誰よりも人の孤独を憎み、愛と絆に全身全霊をかける、人体模倣への背徳者。人の型では心は救えないと断じた、傷だらけの殉教者。
ハワード・フィッシャー。ヘレナの育ての親の一人。
「ハワードに出会って……そこからがよく思い出せないな」
色がなく曇る視界。他人事のように勝手に動く、自分の肉体。
「ただ、ナハトは泣いていた気がする……」
そこで、空間に響く声がした。
『ヘレナ、貴女は──紀村ナハトに大嫌いと言いました。助けに来ないでと』
「誰!?」
振り向くと、見覚えのない少女がいた。99人の内誰でもない、ヘレナの知らない人格が、イヴの内側に存在していた。
『私は──ソフィア。ソフィア・ニコライ』
少女は優しく微笑んだ。
◆
『いきなりびっくりさせましたよね。ごめんなさい』
「……誰?」
幼く、そして可憐な少女。黒い瞳に白髪のミディアムヘア。堀の深い目は綺麗な二重と長いまつげに強調されている。薄い唇は生気の希薄な、まだ青い果実を連想させる未熟さがあった。
『貴女はきっとアルバ・ニコライに会ったことがありますよね?』
「うん……うん? ニコライ?」
『そう、私、妹』
ソフィアは顎に人差し指を当ててにっこりと笑った。
笑顔が似合うと、ヘレナは思った。
「…………どうしてイヴの中にいるの?」
『それはもちろん──イヴを飲み込んだからですよ。そこで私は死んでしまいました。だからそうですね、私今オバケみたいなものですね』
何が可笑しいのか。笑う少女にどう反応していいか分からなかったヘレナ。
『私、随分永い間、お話相手がいなかったんです。他の子たちは皆お話が通じないし……。だからお話しましょう?』
「……アルバは君が……ソフィアがイヴだったことは知っているの?」
『ええ、もちろん。お兄ちゃんは──私のためにいっぱい傷ついて、頑張って──』
少女は儚げに笑った。彼女は笑顔しか感情表現を知らないと言われたら信じてしまうほど、笑みの裏に含ませる内容が多彩だった。
『私、お兄ちゃんのこと不幸にさせちゃったなあって』
「そんなの……! まだ……。諦めたの? もう一度会いたくないの?」
『ふふ、おかしな人。ここは貴女の肉体ですよ?』
──!
『貴女が勝ち取り、戻るべきです。きっと──他の子たちは貴女でないと納得しないと思います』
ヘレナはこの心象世界は、椅子取りゲームのルールを採用していることは何となく理解していた。肉体を操る権限を一つの人格が有する、競争摂理が支配している。だから、ヘレナが復活するためには、選ばなくてはいけない。誰を排斥するか、何を選び取るか。
『本当は勝ち負けじゃないんですけどね。基本プログラムって知っています?』
「なんとなく……?」ヘレナは管理システムから説明を受けたわけではなかったが、直感として人格に優劣があることを察していた。
『基本プログラムというのは、人格一つひとつが持っている固有の願いみたいなものです。主人格の願いが叶わなくなったとき、達成困難と判断されたときに、主人格の選び直しが行われます』
──マザーの受け売りですけどね、とソフィアは付け足した。
「待って? 今のイヴの主人格は誰なの?」
『とってもいい質問です!』
指を立て得意げに説明するソフィア。
『基本プログラムは人格たちがそれぞれ持っている願いであり、一つの願いだけが追及される権利が与えられます。そう、願いなのです。本来は人はそれぞれ違った願いを持っているはずなのに、たくさんの人が同じ願いを持っていたらどうなるでしょう?』
「…………わかんない」
『いいですよ。少しずつ付いてきてくださいね。私、ここ永いんです。先輩ですから何でも聞いてください』
ソフィアは話すこと自体が嬉しいようで、饒舌に続けた。
『同じ願いを持った人格が複数あった場合、それらは並列で主人格になることができます。ハワード・フィッシャーはそれを実証しました』
「ハワードが?」
『お知り合いですか?』
「育ての親です。お父さんみたいなものかな?」
『そうなんですか! 世間は狭いですね』
「そんな暢気な感じじゃないけどね」ヘレナは頭を掻いた。
『話を戻します。同じ願いを持った人格が複数いれば並列できる。これは証明できたのですが、本当ならとっても難しいことなんです。だってほら、願いは結果と過程が少しでも違うと、同じとは言えないもの』
「でも現にイヴの中には99人の同じ願いの人格がいる」
『そう、彼らの願いは強くなりたい、だった。そこから転じて、貴女を取り込んだことで、梶原奈義を倒したい、に変わりました』
「どうしたら、主人格を変えることができる?」
『内側からはどうすることもできません。99人が諦めてくれない限り』
「うーん」ヘレナは腕組をして考えた。
──困ったなあ。
『そもそも貴女、主人格になった後、どうしたいのですか?』
「…………」
『そりゃあ、自分の肉体は自分で動かしたいという気持ちは分かりますが、私たちは一度死んでしまったようなものです。オバケなんです。そこから考えましょう? 生まれ変わったら何がしたいですか?』
「私は……」
『会いたい人がいる?』
「…………」
『紀村ナハト』
ヘレナは思わぬ人物の名に驚いた。どうして今彼の話題になるのだろう。
『恋バナしましょっ』
と、ソフィアはいたずらっぽく笑った。




