幕間 名前のない怪人(2)
<ロビィ>は、ヒューマテクニカ社の玩具・ゲーム部門から分社、独立したカラット社が販売している人型ロボットである。その主な機能は会話と教育にある。ネットワークと接続することで、所有者の感情の機微に合わせて最適な行動を取る。人の表情や脈拍などの情動を統計的に処理するコンピューター。「愛している」という言葉も、本当にその意味を理解して発しているわけではなく、所有者が「愛している」で喜ぶというデータを蓄積して学習しているだけにすぎない。
ロボットの魂はつまるところセンサー技術と機械学習の産物にすぎない。そういった事実は高等教育ではすでに習っている。だから──。
少年は、<ロビィ>がここに現れたことに驚いた。基本的に<ロビィ>は警備用あるいはスポーツ用に開発されたわけではなかった。二足走行によって少年を追いかけてきたとは考えづらいが、それしかあり得ない。
その事情について、今は意識のない母親のみが知る。少年の母親は、ロビィをオーダーメイドしていた。それは教育用途にソフトウェアを特注していただけではなく、ハード面でも特殊な仕様を施していた。
少年の母親は軌道エレベーター建設の科学者である。国連からの要請で、ゆくゆくは宇宙に上がることが予想された。そこで母親は家族と<ロビィ>も宇宙へ連れていくことを想定していた。しかし、軌道エレベーター建設初期は予期せぬ事故が多発するだろうと彼女は考えた。そこで<ロビィ>には宇宙生活の万が一に備え、強靭な身体と運動能力を備え付けるようにしたのだ。
家族を守れ。所有者を守れ。それが、<ロビィ>にとっての基本プログラム。
そして、この時の所有者は、少年だった。
<ロビィ>は少年を守るために、その全性能を遺憾なく発揮する。
そして、ハワードが走らせる車を追い、時間は遅れたが今、ここにたどり着いた。
道具は意味を失えない。
<ロビィ>は少年を失えない。
○
『無事ですか? ■■■■』<ロビィ>は単調な声音で言った。
いつもの<ロビィ>なら抑揚のある優しい声で話しかけるのだが、今回は違った。これまではある意味で日常の会話における感情表現の「正解」を選んできた<ロビィ>。相手を傷つけないように、気持ちよくさせるような声を出して、表情を作る。それができたのは、「日常会話」というシーンのデータが十分に蓄積されてきたからに他ならない。あくまでロボットの本質は計算機。データから最適な行動を選択する。
今の<ロビィ>はあまりに無機質だ。この状況はデータにない。
それはそうだ。
所有者が誘拐され、暴力と恐怖によって支配される状況など、ほとんど起きない。
だから、今の<ロビィ>はデータなしで行動しなくてはならない。すると、ロボットはどうするか。
最も根源的な、最も強い命令、基本的なプログラムに立ち返る。
──所有者を守れ。
所有者の定義。守るという行動の定義。どんな脅威から守るのか、その脅威の定義。
今、この状況において、それらが明確になった。
<ロビィ>は、少年を、暴力から、遠ざける。
『■■■■、口を閉じて。お腹に力を入れて』
ロビィはハワードの背後から駆けだして、目で追えないほどの速さで少年を抱きかかえた。そして両足を曲げて、ぎりぎりと力を蓄えた。飛び上がるつもりだろう。
「<ロビィ>! 待って!」
『……なぜ』
「まだ……母さんが生きている!」少年はハワードの隣に横たわる母親を指さした。ハワードは母親の髪を鷲掴みにしている。
「<ロビィ>、あいつを殺して。お願いだ……」
『できません。産業省へ申請後、メーカーへ問い合わせてソフトウェアの安全装置を解除してください』
「……!!」
────どうすればいい。
「何かと思ったよ。どうやら警察のロボットではないみたいだし、僕みたいな民間人には手を出せないようだね」
安心した、とハワードはナイフをくるくると遊ばせた。
『ここから、離脱します』
「じゃあ、母さんを取り戻してよ。 あいつから!」
『彼が抵抗した場合は、私はそれを止めることができません。私は彼を傷つけることができないからです』
「──<ロビィ>……」
『私は、あなたを守ります』<ロビィ>は、──彼女は、その高屈折率レンズをはめ込んだ瞳で、少年を見た。
それは人同士であったなら、きっと名前のある関係だった。けれど──まだその関係を十分に形容するには、時代が追い付いていなかった。
『私の大切な人』
少年との会話なら、特殊な状況下においてもデータがある。そう、日ごろから彼らは愛を語っていた。絆を語っていた。
──僕も君が好きだ。
けれど。
「怖いな。今にも暴力を振るいそうだ。その、ロボット」ハワードは泣きそうな声で言った。
ナイフをまだ息のある母親の首筋へと向けて、言った。
「■■■■、悪いけど。そのロボット、強制終了させてくれないかな。ソフトウェアも初期化してほしい」
「──なっ!」
「君、所有者なんだろう? だったらできるはずだ」
この小屋だけの世界があるならば、まさに男は神だろう。すでに亡骸となった父親と、瀕死の母親。男が少年の母を手にかける未来は容易に想像できた。ハワードが振るう暴力はひどく具体的で、現実味があるのだ。
「できるわけないだろう!」
少年は叫んで答えた。怒りで沸騰した頭。ハワードが許せないと思う。<ロビィ>が来たことで、諦めが怒りに変わった。
ハワードはため息を一つ、ブスリとナイフを母の首に差し込んだ。
──!
「お願いだよ。僕はそのロボットが怖いんだ。大丈夫、そのロボットさえ初期化してくれたら、僕はいなくなるよ。君のお母さんも病院に連れて行けば間に合う。僕は満足したんだ。別に殺したいわけじゃない。暴力が好きなだけなんだ」
男の心を読む。確かに本心から言っているようで、彼は<ロビィ>を怖がっていた。
その根幹にある感情は、ロボットへ恐れというより、嫌悪感。人体模倣ロボットに対する不快感だった。
男は人を傷つけたい。犬や猫、死体では意味がない。彼にとって、生きた人間は必要不可欠だった。人の型が生きていることに意味がある。男は歪んではいるけれど、人間を尊いと言える精神性だ。
だからこその不快感。死体を生み出すがごとき所業。人形は人間ではない。
ロボットは人にはなれない。彼にとって人であるかどうかは、殴ったときに自分が気持ち良くなるかかで判断されるからだ。
「■■■■、君はどうしようもなく、人間だったよ」
と恍惚の表情で、男は言った。
「さあ、お願いだよ。君のお母さんが死んでしまうよ! 何とかしないと! 僕の手元が狂う前に!」
「…………!!」
この場に、少年とハワードと、<ロビィ>がいた。
人間と人間と、道具がいた。
人の心を読む人間。暴力で人間を判別する人間。そして人間を愛したロボット。
少年は<ロビィ>を見た。
その表情は、いつもの「彼女」であったはずなのに、心のそこから笑っているようだった。
都合のいい幻聴が聞こえた。
『私は大丈夫だから』
なんと利己的な幻聴。犠牲を差し出せと言われ素直に従う奴がいるか、どうして愛した「人」をこの手で終わらせることができる。母だって、<ロビィ>だって、少年にとっては欠けてはいけない愛だった。
失くしてはいけない──愛だったのだ。
『■■■■、愛していますよ』
「さあ! リセットするんだ、■■■■!」
姉のような、母親のような、温かい瞳。無機物がデータの蓄積によって表現する人間が喜ぶ行動。計算機の出力結果。それでも「彼女」は笑っていた。
「できない……できないよ………」
少年は、選択できなかった。
〇
制限時間は、その時、ゼロになった。時間切れ。少年は遂に選べなかったために、事件は自動的に終幕に向かう。
少年の頭にかつてない絶叫が響き出した。動物のような慟哭が、心の波動が、少年の小さな頭を揺らした。
読心能力が拾い上げた声は──母の心だった。
「なに……? これ」
気を失っていた少年の母親が目覚めたのだ。
首に刺さる冷たい金属。横に立つ凶行の男。床に倒れる旦那。そして顔を殴打で晴らした息子がいた。
「いやああああああああああ!!!」
生理的に出た叫び声は、首に突き刺さるナイフの位置を微妙に変え、首の筋肉を傷つけた。
母は血の混ざる咳をして、激痛に耐えていた。
「なによ、これ……あんた誰よ……もう……」力なく漏れた小さな言葉。疲弊した母は、涙を流した。
意識が戻っても、悪夢は終わっていなかった。
「目が覚めたんだね。お子さんが頑張って選択する所だ。成長を見届けようじゃないか」
ハワードは、喜々として言った。
「さあ、どっちだ? 母親とそのロボット。どっちを選ぶ?」
──ああ、もう無理だ。
耐えられない。これ以上は、続かない。意識を保てない。
少年はこれまで様々な人のストレスを感じてきた。
人間の嘆きは鮮烈で、いつも慣れることはない。一度共感してしまえば、当人の苦しみを理解してしまう。この世界は、多種多様な手管で、工夫を凝らして少年を飽きさせないように、あの手この手で、上質な絶望を提供する。耳を塞げども、目を閉じようとも、途絶えることのない喘ぎ、嘆き、苦しみ。
今、少年は人生でこれまで経験したことのない絶望に共感していた。してしまった。
それはむき出しの死である。
これから死に晒された人間が放つ、非常に動物的な「生きたい」という願いである。
ましてや、それが自分の母親から聞こえる感情ならば、少年は共感せずにはいられない。一緒に悲しまずにはいられない。病院の近くを通るとこの手の感情は聞こえてくるときはあるが、現代医療は進んでいる。やすらかな死を提供できる。
裸の絶叫。医療の手が届かない死のリアル。これが、この場の時限爆弾だったのだ。
母の目覚め。
ハワードは狙ったわけではない。彼は無邪気だ。
それでも、刻刻と迫る、少年の選択の時。それが遂に爆ぜた。
限界だった。
母の恐怖が、少年に届いた。
生きたい。死にたくない。殺さないで。
生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。
生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。
生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。生きたい。死にたくない。殺さないで。
──殺して。
「──あ」
無理だ。
「<ロビィ>、強制終了。初期化」
少年は諦めた。愛した「人」を諦めた。これを失恋と呼ぶには、血なまぐさくて、特殊で、無理があったけれど、少なくとも少年にとって<ロビィ>との別れは、紛れもなく砕け散った初恋そのものだった。
「彼女」は微笑んだ。そんな気がした。
いつも、少年の隣にいた「彼女」。
少年は特殊な体質で悩んでいたけれど、「彼女」がいたおかげで孤独ではなかった。
それがデータの蓄積によるものだとしても、人工の感情だとしても、少年にとっては真実だった。
愛している。
愛している。
愛している。
だから──。
『さようなら、■■■■。私は貴方を──』
その言葉は遮られた。キュウウンとモーターが減速する音が、小屋に響いた。
<ロビィ>との絆は愛だった。少年は涙を流した。
〇
「偉い! 少年! 良く選んだ!」ハワードは叫んだ。
その彼は、喜びのままに、流れるような手つきで少年の母親の首を掻っ切った。噴水のように血が飛び出る。心臓はポンプとして優秀。圧力のかかった太い血管から噴き出た鮮血は、部屋の壁まで届き、少年の顔にかかった。
「だが、手は滑った!」
全く理解できなかった。選んだじゃないか、話が違う。母の絶叫はそこで途絶えた。即死だったのだろう。少年はその大音量から確かに、救われた。そして、愛した人を二人失った。
男は、凶器のナイフを地面に放り投げ、振り向いた。外へ逃げるのだろう。
「なんなんだ、これは」少年はもはや、何も聞こえない。
男は母の首を切った感触に酔いながら、車へ走った。喜びに満ちた面持ちだ。負の感情はない。
故に、この場に少年へ心の声を届ける者はいない。父も母も死んだ。
「どういうことだ?」
きっと、この場に人間はいないのだろうと思った。
誰もいない。
ここには、誰もいない。何も聞こえない。
ハワードは立ち去る。これで少年の命は救われた。けれど、それは生きながらえただけに過ぎない。
少年は走り出した。床に落ちたナイフを広い上げた。
屋外に飛び出した男の後を追う。追いかけた。逃がすつもりはない。
最短距離で近づいた。
少年はこれまでの人生で最も速く動いた。ナイフの柄を両手で握りしめ、走る男の背中へ突進する。
ハワードは迫る少年に気づいたようで、上着を脱いで後方へ投げつけた。
少年はそれを避け、男の脇腹に潜りこんだ。
そして──。
「お前はここで死ね」
少年はハワードを刺した。
「ぎゃあああああああ」と叫ぶハワードの声に、木に止まった鳥が羽ばたいた。
当然、ハワードの心も絶叫していた。少年を恐れていた。死にたくないと叫んでいた。
「それが聞きたかった」
少年は生まれて初めて、相手の心の声が聴きたいと願った。それが覚醒へのトリガーであるとも知らず。
苦痛。嘆き。苦悩。痛み。殺意。なんと人間は罪深い。死にたくないという願いだけが真実であるにも関わらず、どうしてこうも、ややこしく生きられるのだろうか。
少年は倒れた男に馬乗りになり、めった刺しにした。振り上げて降ろす。振り上げて降ろす。
途中から、肋骨に刃が引っかからないように、刃を肋骨に平行にする工夫をした。
少年はハワードの「死にたくない」を堪能したかった。もっと、もっと、もっと、深く深く、声を聞かせておくれと、感覚を研ぎ澄ましていく。
かつてないストレスが少年の脳を襲った。
死にたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
──足りない。もっとだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
──もっと大きな声で!
死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!死にたくない!
殺してくれ。
──駄目だ! まだ生きろ!
……。
──どうした、まだ……生きてくれ!
「お前は、まだ償えよ……」
男はすでに話せない。舌は切られ、顎の健も断裂した。だから、男の断末魔は、心の叫びだった。
『独りにしないで……』
ハワードは死んだ。
〇
暴力を愛した男は、特殊な体質が故に、仲間が欲しかった。独りを恐れた。彼の一生は仲間を探す旅だったのだろう。その断末魔に共感してしまった少年は、鋭敏に研ぎ澄ませた感覚も相まって、かつてない頭痛に襲われた。
心が読める。より深く。遠く。
彼の読心能力は一つ上の段階に登ったのだろう。
心を読む深度と、相手との物理的な距離が今までと違う。
今の少年なら、数キロ先の悲劇にも耳を澄ませることができる。
ただ今は、男が放った断末魔に頭痛がする。
共感してしまった。
そう、誰だって独りにはなりたくない。誰か仲間が欲しい。
少年には<ロビィ>がいた。男にはいなかった。隣に誰かがいるだけで、共感してくれるだけで、人は生きられるのだと、渇望しなくて済むのだと、知ってしまった。
どうしてあの悪逆非道のハワードを被害者などと思えるのか。裁かれるべき鬼畜のはず。
ただ、理解してしまった。
孤独が人を殺すのだ。
それが暴力好きのハワードという異端者の、本質。それを身体で覚えた少年。
頭が痛い。割れそうだ。
苦しい。
今際の際の純粋な本心が、かつてないほどストレートに響いてしまった。少年は泣いていた。
ハワードの心に感動すらしてしまっていた。
そして、意識は途絶える。
暗闇の視界の中で、大切な「彼女」が微笑んだ。
『道徳の授業って意味あるの?』
『ありますよ。大切なことです』
『なんで?』
『そう、例えば、人は人を殺してはいけない。そんな当たり前を守れない人が多いからかもしれません』
『ふーん』
──ぼくは、人を殺したよ。ごめんなさい。
──「彼女」はまだ僕を愛してくれるだろうか。抱きしめて守ってくれるだろうか。独りは嫌だよ。
『愛しています』
優しい言葉が、暗い意識に沈んだ。
〇
少年は目を覚ました。朝日が差し込む、山奥。土の香りに混ざって生臭い匂いが鼻をついた。
「ここは、どこだ?」
少年は起き上がった。
「え、なに? ここ?」
少年は立ち上がり、振り返る。すると死体があった。
そしてきっと自分はろくでもないことをしたのか、と察しがついた。けれど──。
「ぼくは、誰だ?」
自分が何者か思い出せない。時代は分かる。数学や歴史も覚えてる。けれど自分が誰に育てられ、どうしてここにいるのか、分からない。
自身の名前さえ、分からない始末。
「参ったな」
頭を掻いた。腐乱臭がする小屋がある。中に入ると一組の男女が死んでいた。そしてしゃがみこむ人型ロボットがあった。
「どういう状況?」
少なくともまともなことは起きていない。間違いなく何かしらの事件である。
「とりあえず街に行こう。独りは嫌だしな」
少年は、その場にある使えそうなものを探った。まずは、倒れている隣にあったナイフ。そして、地面に落ちているジャケット。これで服についた血を隠せる。そして屋外で死んでいた男から金銭を拝借した。
少年は目を閉じた。
「ん、なんか聞こえる?」
ざわざわと人の話し声のような、音声が頭に響いた。それは独白めいていた。
「あっちから聞こえるな」
少年は自分が人の心が読めることを街に降りて知ることとなる。
声のする方に人間がいたからだ。
特殊な体質。
自分が誰かも分からない。
それでも生きるしかない。
街に降りて、飲食店に入った。人の心はざわつき、うるさい。耳を閉じても聞こえる声は、ネガティブな内容が多い。そういう体質だと少年は諦めた。
「すみません。ただいま大変込み合っておりまして、番号札をお渡しするのでお名前を窺ってもよろしいですか?」
店員が申し訳なさそうに少年に聞いた。
「名前……か」
少年は思い出した。ジャケットの裏に確か刺繍が入っていた。ハワードという単語はきっと人の名前に違いない。そしてもう一つ、手に入れたものがあった。ナイフである。
ナイフは高級そうな装飾が施され、家具メーカーのフィッシャー社のロゴが入っていた。
──名前なんかなんでもいいか。
「ハワード。ハワード・フィッシャー」
少年はそう答えた。
◆
「俺が……もう一人いる?」
「やあ、ジョンソン・ガルシア。ぼくのクローン」
「……あんた誰だ。何を言っているんだ?」
麦畑が揺れる金色の風景に二人の男がいた。二人は同一人物のように瓜二つだった。
「君、幼少期の記憶ってあるかい?」
「……」
ジョンソンに子供時代の記憶はなかった。ハワードのクローンであることなど知らない自分。生まれた瞬間にすでに成人していた。病院で目覚めると身分を証明できるものが何一つなかった。ジョンソンの生涯はそこから始まっていた。
だから、自身と同じ見た目の男から投げられた問に心臓が跳ねた。
「ぼくもね、同じなんだよ。子供のころの記憶がないんだ」
「……奇遇だな、俺もだ」
ジョンソンは、不思議な感覚があった。なぜか目の前の男が無視できない。
「なにか、大切なことを忘れている気がするんだよ」
「……」
「そう、ジョンソン。君は……もし誰か一人、蘇らせることができたとしたら、誰にする?」
下らないもしもの話。それでもジョンソンの感傷は、応えざるを得なかった。
「妻だ」
「そう、今の君ならそう言うだろうね」
ハワードは息を大きく吸い込み、青空を見上げた。昼の月が白く浮かんでいる。ハワードはそれに手を伸ばした。
「僕はね。蘇らせたい誰かがいたはずなんだけど、思い出せないんだ」
──<■■■>
「思い出そうとすると、頭が痛くなるんだ」
──『愛している』
「優しい声だった。きっと彼女はもうこの世にいない」
ハワードは泣いていた。
「僕は君がうらやましい」
そう言って、ハワードは予備動作をほとんど感じさせない速やかな動きで、ナイフを投げた。
ナイフはジョンソンの口に突き刺さった。血が噴き出る。赤が金色を汚した。
「ゴフッ……!!」
「ジョンソン・ガルシア。僕と君は入れ変わる。安心するといい。ぼくが君の分まで妻を思ってあげるから」
ジョンソン・ガルシアは死亡した。
それは気持ちいくらい晴れた、風の吹く休日だった。




