爪を研ぐ者たち(2)
日光が降り注ぎ、潮の香りが風に運ばれる。前時代的な風力発電のプロペラがゆっくりと回る風景は、自然の緑と空の青に覆われている。日本の本州から切り離された小島。忘れられたかのように人口が少ない。人体模倣によるロボット技術の発展も、エネルギー革命による交通機関の台頭も、この島とは無縁のようだった。
日本、小笠原群島のひとつ。
通信インフラのみが現代に追い付いてさえいれば、あとは何もいらないと、ルイス・キャルヴィンは考えている。ここには生産性にうるさい製造管理者もスポンサーもいない。人型ロボットが入り込む余地など、医療のみだ。生活には必要のないオーバーテクノロジーはお呼びではなかった。
そこを隠れ家に選んだ明龍情報七課、ルイス・キャルヴィンは、緩やかに流れる島の時間とは裏腹に、切迫した諸問題と向き合っていた。
ハワードと止めるという大目的を前に、彼女が解決しなければならない謎は多い。
そのひとつが紀村ナハトという少年についてだ。
◆
まだ軍事衛星が破壊されるより以前、ルイスはハワードの居場所を探していた。梶原奈義の精神を蝕んだ男は、少なくとも<静かの海戦争>を生き延びていたことは明らかだった。ハワードが生きている以上、月との戦争は終わっていないと──ルイスと、奈義と、明龍のリーダー、フェンだけが確信していた。
フェンの命により、来る第二次月面戦争へ対策するために、明龍情報七課が発足した。彼は、奈義を隠すために、地球へ降ろし、僻地へ住まわせた。
それに同行したルイスは、地球で情報を集め、ハワードの捜索を進めた。
しかし五年が経っても、目立った成果は得られなかった。
そして遂に起きてしまった軍事衛星への襲撃。ハワード・フィッシャーが開発した新兵器<神の代弁者>を操る人型戦闘機の実践投入により、ルイスたちに残された時間はわずかであることがわかった。
すでに状況は始まっている。
そこで、フェンは言った。
『もはや私たちだけでは、ハワードを止めることはできない。オルガ・ブラウンの力が必要だ』
その言葉を聞いたとき、ルイスの心臓が跳ねた。その名は、天才科学者であり、人体模倣の体現者であり、ルイスの憧れの人であり、「人間の愛」が分からない怪物のそれだった。
一言に表して愚者。なんでもわかって、なにも知らない。だから、ルイスは手を引いて間違いを笑いながら正してやりたい、最愛の人。
オルガ・ブラウンが再び盤上にあがるこの意味。
フェンはそれをひどく屈辱的に感じているようだったが、背に腹は代えられないと、ルイスに事情を説明した。人心核というコンピューターの中で今も、オルガ・ブラウンは生きている、と。
『人心核を探せ。人員は任せる』
フェンのそんなシンプルな命令。
しかし、ルイスは疑心暗鬼だ。彼女はその人心核がなにであるか、詳しく知らない。オルガ・ブラウンに似せた人工知能とでもいうのだろうか。
奈義はヘレナをエージェントに選んだ。奈義もルイスと同じように人心核が戦況を変えると本気で考えていなかったのだろう。ヘレナを地球に派遣することで、宇宙で起きる戦争から回避させる思惑があった。
ルイスは、最後にオルガ・ブラウンと会い、別れた地、合衆国西海岸にある人体模倣研究所に、ヘレナを向かわせた。現地にたまたまいた明龍の工作員、紀村ナハトをガイド役に、任務を行った。
そう、紀村ナハトだ。
運命の出会いと言えば、陳腐に聞こえてしまうだろう。予想だにしていない奇跡は、誰のものかは判らない。ただ、現実として梶原ヘレナは紀村ナハトと出会ったのだ。
任務上、必要な情報を提供する立場にあるルイス。
そしてヘレナはルイスに報告した。
『現在、人心核の詳細を特定している人物と接触中。人心核とは……梶原奈義の少女時代の戦闘データのこと、ですね』
そんなはずはない。それだけはない。梶原奈義の戦闘データが人心核であるならば、既に手に入れている。ハワードに狙われている梶原奈義本人を、明龍は匿っているのだから。
当然、ルイスはそんなことをヘレナに吹き込んだ人物の名を聞いた。
ヘレナは「紀村ナハト」と答えたのだ。
◆
今になって、「人心核とはなにか」をもっと真剣に、切実に、自らの運命を左右する大問題として捉えておくべきだったと──思う。
ルイスはフェンに、人心核とはなにか、真実を話してほしいと要求した。悔しい過去でもあるのだろうか、始めは語らなかった彼も、「紀村ナハト」という単語を出すと、不思議なことにあっさりと情報を明かした。
話を聞くに、まず驚いたことは、ルイスは紛れもなく人心核が紡ぐ物語の当事者であったこと。
時は、25年以上前。ルイス・キャルヴィンがまだヒューマテクニカ社・新事業開拓室に勤めていた頃まで遡る。
当時、オルガ・ブラウンを主任として、ルイスとハワードがそれをサポートする形で運営されていた研究グループ。
そこにいた若手の研究員、エーリッヒ・ノイマンを、ルイスは覚えていた。確か、独自の研究テーマを与えられ、オルガ主任とハワードと共に新量子を探索していた。重力偏極という人体模倣とは一見関係のない現象が、人の型に感応するという発見をした。そんな成果を残していたと記憶している。
あまりに学術的すぎて、ビジネスにどう活かすか、ルイスは苦言を呈した。
──まあ、ビジネスになろうがなかろうが、その後新事業開拓室は跡形もなく消えたのだけれど。
ただ、ルイスは自分が知らなかった事実を知った。その新量子が新事業開拓室をバラバラに引き裂いたこと。
エーリッヒ・ノイマンを始めとする研究員たちは、その新量子を<神の代弁者>と秘密裏に呼び、一種の宗教を作り上げた。なぜなら、彼らはオルガ・ブラウンに突き放されたから。
人型感応重力偏極量子というファンタジーにも勝る奇々怪々な代物を、予測・発見させておいて、オルガその原理を明かさなかったのである。仮説が事実となる天才科学者、オルガは重力偏極量子はそれがどのような摂理で、既存の物理法則と矛盾せず振る舞っているか、一切の啓示をしなかったのである。
エーリッヒ・ノイマンたちは怒りに震えたと同時に、諦めた。
考えることを、やめた。
そういうものだと、受け入れた。
人体模倣はすでに存在し、きっとなにだかよくわからない不思議な力で動いている。
きっと神様がそう作ったからに違いない。
そんな思考回路に逃げた。
彼らは自らを<キューティー>と名乗るようになり、ヒューマテクニカ社を辞めた先でも、<神の代弁者>の研究を続けたという。
対して、オルガ・ブラウンとハワード・フィッシャーは、その人型感応重力偏極量子を自分たちの欲望のままに使おうと決めた。
彼らは協力し、新量子によるコンピューター<人心核>を生み出した。既存の量子コンピューターでは及びつかない、全く別の仕組みで動く人体模倣の結晶体。
フェンもルイスも、彼らがどんな目的で人心核を生み出したのか、定かではない。
ただ、フェンはヒューマテクニカ社を抜け出した狂信者たちに居場所を与えた。フェンは<キューティー>の創始に関わる投資家だったのだ。神の存在を信じた狂った科学者たちの夢を、同じく信じた馬鹿者。それが自分だと、フェンは言った。
──要するに、オルガ主任とハワードが、<キューティー>と敵対した構図になるのかしら。
そんな理解をしていた矢先、フェンは話の方向を変えた。
『オルガ・ブラウンとハワード・フィッシャーは人心核を巡り、徹底的に決別しました。宿敵と言われるまでに彼らは相容れませんでした。ハワードはオルガの殺害を試み、オルガは人心核を飲み込み不死となりました』
フェンはさらっと衝撃的な事実を口にした。
オルガ・ブラウンは不死となった。人心核に脳を食われることによって。
であるならば、人体模倣研究所で再会したオルガは、人心核となっていたことになる。
あの怪物めいた老人は、正真正銘の怪物になってしまった。
『しかし、人心核を飲み込んだオルガは梶原奈義の働きかけによって、肉体を変えることを余儀なくされました。人心核の肉体はその基本プログラムに乗っ取り、代替わりするのです』
フェンは語った。
『オルガはすでに死した基本プログラムのまま、狂信者に交渉を持ち掛けてきました。
──私の人心核を別の肉体に移し替えろ。代わりに臨界突破現象について教えてやる
とね。
当時の狂信者たちは、神とは臨界突破を果たした存在と定義していましたから、その情報は喉から手が出るほど、欲しかったのです。同時に、屈辱的でもありました。やはりオルガ・ブラウンに先を越されている、なんともままらない。いっそオルガ・ブラウンを神に据える宗教観に鞍替えしてしまえば楽だったのでしょうが、それは彼らのプライドが許しませんでした。
オルガ・ブラウンは臨界突破者を見出したようです。当時まだ幼かった──少女、梶原奈義です』
──いよいよ、事情は複雑だ。ハワードはオルガ主任と敵対し、そのオルガ主任は<キューティー>と手を組んだ、というわけかしら。
『オルガのリクエストはこうでした。
──人心核は幼児に埋め込め。誰でもいい。適性のある二歳から三歳の子供に、人心核を入れるのだ。
理由は分かりませんでしたが、狂信者たちは律義にそれを守った。結果的に人心核は、日本の子供に埋め込まれた。名前は紀村ナハト。ただ、幼児を差し出した母親も金銭ほしさに必死でした。後ろめたい背景でもあったのでしょう。我々はそこから、偽名だと勝手に勘違いしてしまった。紀村ナハトなんて日本人がいるものですか』
フェンは可笑しそうに笑っている。
『キャルヴィン博士。あなたの言葉で思い出したのですよ、紀村ナハト。そう、紀村ナハトでした』
ノイマンは驚いたという。
人心核と埋め込まれた三歳の幼児、紀村ナハトは手術後、意識を目覚めると、唐突に数列を口にしたという。それを詳しく読み取ると、どうやら分子スピン量子コンピューターに入力される命令のようだった。幼児本人に意識はほとんどない。ただ数列を口にするだけ。
狂信者たちは興味本位で、その数列をコンピューターに読み込ませた。すると、高度なAIが自律的に生み出された。
そのAIは自らを「オルガ・ブラウン」と呼称し、紀村ナハトに付き従うために生まれたを公言した。
そうして、<キューティー>たちは紀村ナハトとAI「オルガ・ブラウン」を母親の元に返し、義理を果たした。
これが、顛末。
人体模倣研究所にいた明龍の末端工作員、紀村ナハトのルーツである。
ルイスはそれを聞いて、ヘレナに伝えた。
そこから先は、紀村ナハトと梶原ヘレナの物語だ。




